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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象13 クリミア半島6 バフチサライ 2日間

 ヤルタ夕方出発→夜バフチサライ。
  バフチサライ到着、宿泊
町の情報と観光案内め)
 1日目観光、2か所
  キャンプ泊(隣町情報も)
 2日目、観光失敗
  キャンプ泊
 3日目午前キャンプ地を離れる


移動 ヤルタのリヴァヂア→バフチサライ

リヴァヂア宮殿でヤルタ最後の予定を終え移動を決めた。

バフチサライまでのルート検証

リヴァヂア宮殿→バフチサライまでのルートでは
現地でのその時も、直接便は見つからなかった。

バスだと山地を北側から迂回し、乗り継ぎで6時間 (検索時)

https://maps.app.goo.gl/B5N4fTfqCoWKgMWr6

だと山地を南側から迂回でき 3時間 距離約100㎞

https://maps.app.goo.gl/yiYazfFLXuwa9qm89

車とバスでは迂回ルートが


実際に使ったルート

上の地図、バスを利用した場合のルートで移動した。

リヴァヂヤ宮殿     
↓      
ヤルタ 経由      
↓      
シンフェロポリ 経由     
↓      
バフチサライ      

急に思い立って変更したり、地図や情報が得られなかったり、先に観光したりし、経路を後回しにしたため、ヤルタ地域を行ったり来たりの滅茶苦茶な行程になってしまった。


リヴァヂヤ宮殿→ヤルタ

メモより
 「バスがなく、車をとめて2000クーポン、
 (ヤルタの)中心へ行って両替5ドルが29000クーポン
 ちょっと食べ16:50のバスに乗る。」

メモによると、宮殿からヤルタ迄は白タクを使ったようだ。
(お金を払っているのでヒッチハイクではない。)(そして、当時はそんな勇気があったのか、と驚いた。)

リヴァヂヤ宮殿→ヤルタ中心地 約5㎞

https://yandex.com/maps/-/CDeX5XYA


ヤルタ→バフチサライ


ヤルタのバス駅→シンフェローポリ駅 82km (車で1時間44分)

https://yandex.com/maps/-/CDeXfO6z

シンフェローポリ駅→バフチサライのバス駅 31㎞ (車で40分、バスで1時間と少し)

https://yandex.com/maps/-/CDeXRO2N


バフチサライ着

バス駅
https://yandex.ru/maps/-/CDqKaSJG

https://vkrim.info/catalog/venue/13875

メモより
 「シンフェローポリ経由だったので
 バフチサライ着は20時前。
 (バフチサライの)バス駅で知らないおっさんに拾われて(送って貰い)ホテルへ行き、5000クーポン弱で泊まる。」

最後の文は、端折って書いたので、衝撃的な話と誤解しそうなので解説。

車でホテルまで送って貰う

バス駅の建物にホテルと書かれてあるのを見て、そこへ入ってみた。
のっぽの1-2人用の立食用丸テーブルがフロアにいくつも離れて立ち、ぽつんぽつんと数人の労働者風の男達がテーブルについて立ち飲みしていた。奥に受付と酒類注文カウンターの兼用らしいものがある。皆それぞれ仕事帰りに寄って、黙ってくいーっと1杯だけ引っかけて黙って帰る感じ。男達は疲れた表情で全然楽しそうに見えなかった。

受付で聞くと、空き部屋なし。フロント兼カウンターのお兄さんは別なホテルを教えてくれたが、ちょっと離れているらしい。「ちょっと待ってて」と、顔見知りの客のおっさんにそこまで乗せてってくれと掛け合ってくれ、おっさんが飲み終わるのを待って、車に乗せてもらい、ホテルの前で降ろしてもらった。おっさんはずっと黙ったままで、ありがとうを言っても、目線を斜め下に落としたまま軽く頷いただけだった。

(もちろん多少怖さはあった(酒飲み運転だし)。とにかく目撃者は沢山作っておこうと、その(ホテルの)ロビー兼飲み屋をふらふら歩きついでに見て回っていた。その時間、女性は他にいず、この辺では珍しい東の東洋人なので目立つハズだが、みんな目が座っていて誰もこちらを見ないようだった。)
(その建物はバスの切符売り場や、従業員の詰所でもあったかも)

https://krim.ros-spravka.ru/catalog/intercity_transport/avtostantsiya_bakhchisaray/

(建物は古くあの時のままのようだが、ホテルだったようには見えないので多分、思い違い。ホテルの場所を聞きに入っただけだろう。最悪ベンチで寝られるかもしれないし、野宿よりは危険度が低い筈だから。)


1.35km バス駅からホテルまで1本道

https://yandex.com/maps/-/CDeXZBLV
右上黄色がバス駅 左下緑が鉄道駅 真ん中がホテル


ホテルで

ホテルはこれ。当時からボロかったが健在のようで少し嬉しい。

https://yandex.com/maps/-/CDeXvNpq
https://yandex.com/maps/-/CDeXzFir
バフチサライ・ホテル、
内装はリフォームされたようだ

ホテルに到着したのは、20時半を回っていたと思う。
空室があるか心配だったが、逆にすいていて静かだった。

ホテルの部屋にトイレもなく、男女兼用トイレが廊下の端にポツンと1つあった。電気は球切れで真っ暗で全く何も見えず、廊下の薄暗い明かりが頼りで、ドアを少し開けたまま使用。誰も来ないか心配だった。

バーニャ (風呂屋) を探しに

ホテル全体でシャワーもなかった。

フロントのおばさん達に聞くと、
裏手にバーニャ(風呂屋)があるとの事。
やってないかもしれない、と強く言われたが、
行ってみることにした。

そこは、現在の地図を見ると立派な道路がある。
当時はそれらはなかった。
真っ暗な草地でぼうぼう草を蹴り、草をかき分けながら
言われたあたりまで歩いた。

何やら建物らしき(黒い)物体があるが暗くて見えない。
近づいても書いてありそうな文字も、もちろん見えない。
もちろん誰もいない。

多分これだが、諦めきれずに、もう少し歩いてみた。

ワーニャじゃなくて…

少しして光を頼りに近づくと、
門がある工場の敷地のようだった。
入口の守衛室に近づいて、窓をノックすると
男の人が出てきた。奥にいた若い女性もこちらを見る。
「バーニャがどこかわかりますか?
この辺って聞いたんですけど。」
と聞いた。

「え?どのワーニャ?
ワーニャ・○○(名字)?
ワーニャ・△△(名字)?」
と、守衛の男性。

「いや、ワーニャじゃなくてバーニャ!」
「えーと、ワーニャって他に誰がいたっけな~?」
「だから、そうじゃなくてバーニャって言ってるんだけど…」
発音悪すぎか…。伝わらなくて焦る。

奥の女性には通じたらしく紅潮しはじめて、
「違うわよ…」と口を挿むが、思い出しモードの男性には聞こえない。

自分も赤くなり始める。
そりゃ、男たちの働く工場の入り口で
終業時間に尋ねれば勘違いするかもしれない。
彼の所に来てるのも”彼女”だろうから。
他に考えが回らないかも。

・・・と、3人全員が理解し合え、
何故か皆、少し恥ずかしくなったところで
「ありがとう」と去った。


・・・面白かったので覚えている。
それ以上の探検は無駄なので諦めた。

南クリミアはとても暑くて汗をかいていたので
とてもシャワーを浴びたかったのに残念。

ホテルへ戻って、フロントのおばさんに
「やっぱりバーニャはやってなかった」と伝えたら、
「(ソ連が崩壊後は) 経済が厳しくてね~。
毎日はやってないのよ。」
と、ため息交じりに答えていた。


今の地図で見ると

はっきりは言い切れないが、
バーニャや工場があったところは
大きい道路と、スポーツ施設、公園になっているようだ。

https://yandex.com/maps/-/CDe2mEoX
https://yandex.ru/maps/-/CDqKaI32
短いラキツキー通りは駅前通りとホテル裏1区画のみ。
駅前から延長されたと思われる。
30年前になかったはず。

「現在のスタジアムの所はこうだった」と”バフチサライの昔と今”動画で見せている。自分の行った頃も草地だった。

https://youtu.be/UBLNJ_T78BE?si=0qhhKmuC6IZjeE90&t=1128
「バフチサライの町がどう変わったか見比べてください」の動画 ↓ より


バフチサライの情報

バフチサライの基本情報

バフチサライ  Бахчисарай   Bakhchysarai

地図 ↓

https://osm.org/go/x9VGL3cd--?layers=P
OpenStreetMap
では地形が分かり易い



Wikiでは ↓

人口は2万8609人(2021年)。
バフチサライとは、クリミア・タタール語で「庭園の宮殿」
ペルシア語の Bāghche Sarāy に由来)の意味。

歴史
ビザンティン帝国
8世紀ウスペンスキー修道院
    (↑ 下で紹介する岩窟修道院)

1532年から1783年  クリミア・ハン国首都

1783年~  ロシア

   ー ー ー

ハンサライ(ハンの宮殿)には、クリミア・ハン国の最後のハン、バハディル2世ギレイロシア語版)が妻マリアと愛妾ザレマを偲んでつくらせた噴水「涙の泉」 (Фонтан Слёз) がある。二人を亡くしたギレイは「石にも涙を流させよ」と命じたという。プーシキンはこの噴水に題をとり、詩『バフチサライの泉』を詠んだ。

バフチサライの泉

「バフチサライの泉」はバレエにもなっている。
 可憐な少女 舞ちゃんのソロの舞いをどうぞ ↓


バフチサライの動画

 ⁂ 森翔吾さんの動画

車でクリミアを巡り、バフチサライも訪れた記録。バフチサライの場所や要点を短時間でまとめている。
・バフチサライ宮殿 (ハン・サライ) 付近
・ウスペンスキー修道院
(3年前のこの動画で、この寺院付近でのドローン紛失トラブルに遭った事を語っていた。編集したか、別動画だったか、見つからない)
・チュフト・カレ (6分過ぎから)

動画の最初の町並みは記憶にあり、自分もここの独特さに感動したその場所。(地図で特定できなかったが、ハンの宮殿が映っているのでその周りらしい。)
(チュフト・カレには30年前に自分も2度トライしたが、辿り着けなかったのでこの動画で疑似体験させてもらう。)
この動画1本で、自分がここに書きたかった事も、全て纏めてくれている、素晴らしい動画!

次 ↓ の動画の後半でもバフチサライに到着した時の様子を見せている。(紛失したドローンについて、話の中で軽く触れている)



他の動画:

こちらのご夫婦も…
”シンとカーチャんねる/モスクワ在住夫婦”



4K動画 ↓ 空撮含む
https://youtu.be/0nwRUMUIkQM?si=7HWkR8MIgyc5YK4h


↓ ロシア語で「バフチサライのプレゼン」(町の紹介・見どころや観光施設を含む全体を網羅)8年前の動画


昔ながらのひなびた町並みの写真集 ↓ 

  ノスタルジックな裏道も趣がある



旅日記を拝借


こちらの「まみさん」という方の旅日記はかなり濃厚に書かれている ↓ バフチサライについては下の3つ。

ウクライナの多くの都市や物を観光して語られているので、どうぞ。↓



バフチサライで有名な観光スポット3つ

現在は急激に観光化し、良くも悪くも高級感のあるリゾート施設が増えている。

以下3か所が特に有名どころ。
(駅から近い順)
 ・ハン・サライ(16~18世紀)
 ・聖ウスペンスキー岩窟修道院 (8世紀~)
 ・チュフト・カレ(5,6世紀~)

https://yandex.com/maps/-/CDqJ64-I
から:青がハン・サライウスペンスキー修道院チュフト・カレ
https://yandex.ru/maps/-/CDq8i207
旧市街 の 範囲




   以下に ↓ 動画と地図でそれぞれ紹介

1,ハン・サライ(ハンの宮殿)

https://tourweek.ru/gallery/90176
正面上空から

wiki ↓

ロシア語版 ↓ (英語版より記述が細かい)

・1532年建立(~1783)
・バフチサライの噴水の舞台である。



地図 yandex mapより ↓

https://yandex.com/maps/-/CDqAYT8c
https://yandex.com/maps/-/CDqA4B-M
360度ビュー、中央にハン・サライ

写真集

https://www.krym4you.com/dostoprimechatelnosti/dostoprimechatelnosti-krim/dostoprimechatelnosti-bahchisaraya/
https://www.krym4you.com/dostoprimechatelnosti/dostoprimechatelnosti-krim/dostoprimechatelnosti-bahchisaraya/
正面入り口前
後方になだらかな山

宮殿敷地内

https://nashaplaneta.net/europe/russia/krim-bakhchysarai-hanskiy-dvorec
https://vasilev-life.ru/zhile-v-baxchisarae
宮殿の庭から見える山
正面向かって右手の建物裏手
https://www.krym4you.com/dostoprimechatelnosti/dostoprimechatelnosti-krim/dostoprimechatelnosti-bahchisaraya/

室内画像検索 ↓

https://handvorec.ru/pamyatniki/hanskij-dvorets/historymus/garem/


2,聖ウスペンスキー岩窟修道院

Wiki ↓

ロシア語版 ↓ (英語版より記述が細かい)

Wikiより略歴(Google機械翻訳→抜粋)
8 世紀までにビザンチンの聖像を崇拝する修道士によって設立
13 世紀から活動停止、14 世紀に復活
1475 年のトルコ侵攻の際の敗北を免れゴシック大都市圏の居住地に
15 世紀から 18 世紀にかけて、クリミア正教徒の主な拠点

1778年、イスラム教徒からの迫害を逃れたギリシャ正教のキリスト教徒達は、ギリシャ出身の司祭とバフチサライのイコンを携えてクリミアを離れた。聖母被昇天修道院の麓にあったギリシャの村マリアンポリの人々は、後にマリウーポリとして知られるこの都市に移住した。*

1781 年~ギリシャ人司祭が長を務める教区教会
1850 年、修道院は復活
1851 年~工事、1857年、神殿が建てられた
1867年 修道院には60人以上の修道士と修練者が住んでいた

帝政崩壊後1921年に修道院はソ連当局によって閉鎖、冒涜された
ソ連崩壊後1993年にウクライナ正教会(モスクワ総主教庁)に返還

**(↑ の記述から、その頃までウクライナでは正教会はロシア正教会と一緒だった、ことが分かる。後にウクライナ正教会としてモスクワ正教会と分裂し、火種の1つになった


  *マリウーポリに言及

 *マリアンポリ → マリウーポリ
元々バフチサライの修道院付近のキリスト教徒のギリシャ人現マリウーポリ移住して町を作った。つまりマリウーポリを作ったのはバフチサライのギリシャ人だった。

 → 
・・・個人的にこの事が一番衝撃だった。
2014年からマリウーポリで起きていた事や、2022年のこの町の大悲劇までが思い浮かび、バフチサライと繋がったため。

( 手記のこの少し先の 、小見出し     
”☆峡谷「マリヤム・デレ」” でも     
もう1度マリウーポリに触れる )    



  ― ― ― ― ― 
・・・話を 聖ウスペンスキー岩窟修道院 に戻す
  ―   ―   ― 


修道院の 動画3本
 動画の3分ごろから建物内へ ↓

 礼拝所も映っている ↓  (雨の日で趣がある)

 観光写真集 ↓ を動画にしたもの


夜はライトアップされている? ↓ 

https://altaitop.ru/krym/bahchisaraj-v-krymu-sovety-dlya-turistov-i-otdyhayushhih-chto-nuzhno-dlya-otlichnogo-otdyha


修道院は、峡谷と岩山や洞窟を利用して建てられている。

地図
yandex mapより ↓ 

https://yandex.com/maps/-/CDqA4KLn
360度ビュー
https://yandex.com/maps/-/CDqA4T5I
360度ビュー

下 ↓ の地図で、白い部分が峡谷。
その下に伸びる峡谷が「マリヤム・デレ (メリエム・デレ) Марьям-Дере」
(どの地図アプリでも、この名称で表示されない。)
ウスペンスキー修道院がある場所も、マリヤム・デレ。

https://maps.app.goo.gl/96Uqz6gXCTBi6h8r9
Googleマップで拡大すると、建造物が沢山見える。
https://yandex.com/maps/-/CDqjiFoh
yandexマップの3D

  修道院の再建と拡大化

「ソヴィエト時代と今」
1993年再建が始まった。(自分が訪れたのはこの年)

http://ipilgrim.ru/uspenskij-monastyr-v-bahchisarae/

再建されることは価値あることだ。

(感想:だが現在の写真を見てみると、それを通り越して”過剰”再建に見える。かつて破壊された物の再建を通り越し、修道院を、教会を、何棟も建てている。自然の美をも壊している。)
下の写真より右の斜面にも建設中。↓

https://altaitop.ru/krym/bahchisaraj-v-krymu-sovety-dlya-turistov-i-otdyhayushhih-chto-nuzhno-dlya-otlichnogo-otdyha

(感想:もちろん宗教は、人々を繋いだり、人の心の支えになる物ではあり、理解している。帝政時代に建てられた美しい沢山の教会群も素晴らしく、この21世紀の現代にその流れが戻るのは興味深い。だが、これは少々やりすぎな気がする。歯止めが利かないか、ちょっと欲張りすぎではないだろうか。自然破壊も憂う。また、これらの為の相当な資金は(どこから?)、寄付だけだとしたら、信者はかなり無理をしているのでは、などとも思う。)

https://sportishka.com/dostoprimechatelnosti/19673-bahchisaraj-dostoprimechatelnosti.html

写真左の教会群は30年前は影も形もなかった。
クレーン車が入って作業しているのが見える。
今では、峡谷の両側と真ん中に教会群が建設拡大中。


↓ この峡谷の名称は「マリヤム・デレ」とも呼ばれる。

  ☆峡谷「マリヤム・デレ」

長さ:約2km

15世紀、マリヤム・デレに ウスペンスキー正教会修道院が建設を開始。
トルコ人による半島の占領後、首都に。

  (*マリウーポリに言及 2 ↓ )
8世紀から9世紀にかけて、マリアムポリの村はマリヤム・デレ峡谷に設立され、この村は1778年まで存在。その後、ここからギリシャ人キリスト教徒が北アゾフ地方に再定住し、そこでマリウポリ市を設立した。

修道院の活動は、1778 年にキリスト教徒が去り、停止。
活動の復活は、クリミアがロシア帝国に併合された後。

↓「リトル・エルサレム」?

https://tripmir.com/articles/1102/uschele_maryam-dere.html

このサイト ↑ では
「この峡谷は別名 ”リトル・エルサレム” とも呼ばれています。 ここには、キリスト教、イスラム教、カライズム(カライ派)に直接関係する 3 つの場所があります。」との説明。

キリスト教→ウスペンスキー岩窟修道院、
イスラム教→ダルヴィーシュ墓地 "ガズィ・マンスール”
カライズム→ユダヤ教→チュフト・カレ(次の項)

   ↓ ダルヴィーシュ墓地 "ガズィ・マンスール” (イスラム教)

https://karta-kryma.com/pamyatniki-kryma/dervishskoe-kladbishche-gazy-mansur


近くにカライ派墓地もある。(ユダヤ教)



3,チュフト・カレ

 ~ 空中都市の廃墟 ~

初めて写真を見た時は、古代の遺跡だと思っていた。
  ↓ 画像検索      

30年前、自分が聞いた説明は、「ここは、昔ユダヤ人が住んでいた所」だった。ユダヤ人というとヨーロッパなどの白人系のユダヤ人が思い浮かんだが、ここのユダヤ人はそれとは違う人(民族)だと言われ、当時はそれが飲み込めていなかった。

https://yandex.com/maps/-/CDq6bXiT

崖を登った平たんな山の上の町、上だけではなく、崖を削った穴の中にも住んでいた跡がある。

Wiki ↓

ロシア語版 ↓ (英語版より記述が細かい)

中世の要塞都市
最高点は標高581m
1254 年に初めて言及

5世紀から6世紀頃、ビザンチン領土の境界に要塞化された集落。
長い間、少数民族のが入れ替わったり加わったりして定住。
17 世紀、それまでの地名「キルク・エル」の名称は「チュフト・カレ」(「ユダヤ人/ユダヤ人の要塞」)と置き換えられた。


(1500年代からロシアとの係わりあり)
最盛期 は18 世紀 (コミュニティーとして成り立っていた)

上のWikiのページから
https://ihorus.com/putevoditel-po-baxchisarayu/peshhernyj-gorod-chufut-kale.html
https://yandex.com/maps/-/CDq6bX24
木のない所は急な斜面

拡大すると ↓

https://yandex.com/maps/-/CDq6fApq
木のない所は急な斜面

  ※ ユダヤ人に言及

(Wikiから「チュフト・カレ」の続き)
1783年にクリミアがロシア帝国に併合された後、カライ派とクリムチャク派※ は要塞を離れて、19 世紀半ばまでに街はほぼ完全に廃墟となり、19 世紀末には管理人の家族だけになり、21 世紀初頭まで 2 つの邸宅のみ残った。現在は廃墟。

※カライ派とクリムチャク派はユダヤ教

   ユダヤ人とは:
  ユダヤ教を信仰する人たちを指し
      民族名ではない事、
  ユダヤ教の宗派も色々あり
    教義も様々だという事
      を知ったのはずっと後。

(ユダヤ ”人”と言わずに、ユダヤ ”教徒” と呼べば理解しやすいと思う。)


動画

空撮 ↓



yandex mapより ↓ 上空、斜め上から見ると

https://yandex.com/maps/-/CDqAaWpI
山の南側から360度ビュー
https://yandex.com/maps/-/CDqAaPIJ
360度ビュー
上の360度ビューを左にずらした所


https://yandex.com/maps/-/CDqAeQma
山の反対()側からの 360度ビュー


 ↑ 旅行代理店のブログから。



バフチサライの1日目の午前

駅前広場
昔は車が少なかったのでこれ程 ↓ は停まってなかったと思う。

駅前広場 https://yandex.com/maps/-/CDe~7O89


朝、ホテルを出る

駅は近く、インフォメーションや観光情報を少し期待して向かった。結果から言って旅に役立つものはなかった。いつものように大きい荷物を預けただけだった。

駅舎の中を物色していたら、髪のないがっしりした男に英語で「英語話しますか?」と聞かれた。
現地の人に外国人だと思われて英語で話しかけられたんだな、と思いロシア語で「ロシア語話します」と答えると、がっかりした表情に見えた気もしたが、そのまま通過し先に進んだ。

ペリメニ屋で

駅に向かって右側の建物に ”ペリメンナヤ” (ペリメニ屋) と書かれていた。(ペリメニはロシア風餃子で茹でて食べる。)
旅をするにはスタミナがいるので、駅を出て朝食の為にそこへ入った。

混雑のピークは過ぎていて人は少なかった。注文すると、店員の女性はお玉を握った手を大鍋の奥深くに突っ込んでよそってくれた。

よそってくれた皿を受け取っていた所に、先ほどの男が入ってきて横に立つ。「さっきの人だ」と思って見ると、こちらは向かずに店員さんに何かもごもごと言った。注文したいらしいが、店員のおばさんは「売り切れよ」と言い放つ。さらに男はもごもご言うので「かけらしか残ってないわよ。」と鍋の中を見せる。もごもご「OK」それでいいよ、とゼスチャーを交えて、面倒顔の店員に鍋の底の切れ端を皿に入れて貰っていた。
もしかして、ロシア語が話せず、さっき英語で聞いてきたのかな?と思いながら空いてる席に着くと、広い店なのに男は隣のテーブルに着いた。

ロシア語が話せない人と出会う

旅をする為には英語は話せた方が便利と、社会人だった時に週1で、当時60代の女性が営む英会話教室に通っていた。自分のモチベーションは低めで、みんなに置いて行かれたが、通わなかったよりマシ程度の旅行英語は話せるようになった。

隣のテーブルから彼はこちらを向くと、もう一度「英語話せますか?」と聞かれたので「少し」と答える。
(旅や場所などの)短い会話の後、名前を聞かれたので答えた。
「ん?ウクライナの名前?」「いや、日本の」「あ、日本人なのね」
ところでこの会話の相手はドイツ人Jさん。発掘をしに来ている考古学者で、ロシア語はできない、と分かった。

もうひとつわかったのは、キエフ方面への夜行列車の切符を買ってくるよう頼まれていたという事。メモを見せられ、買うのを手伝ってくれないかといわれる。

困ってるなら、と食べ終わってから一緒に駅へ。

切符買いを手伝う

(当時ウクライナで切符を買うのにどれだけ並んだか…、キエフの駅で丸1日並んでいたことがあるがそこでは買えなかった、という出来事があった。1人に切符を売るのに駅員は30分~1時間も掛けていた。10以上の窓口が開いていても長蛇の列が縮まることはなく、自分も約8時間並び、夕方にはギブアップだったことがある。)

その日のバフチサライ駅でも、数人が並んでいたのでかなり掛かるな、と思った。

並んでいたのは自分。Jさんは広い待合室の椅子に腰かけて待っていた。
旅の途中で助けられることはよくある事なので、持ちつ持たれつと立ち続けて待つこと約2時間、ようやく自分の番。

メモを見せると、切符販売の女性は大きな端末機(昔だからコンピュータとは言わない)のキーをパコパコ打って結果待ち、そのまま黙って待つ。しばらくしてその日の切符は売り切れという。次の日ならある、とのこと。勝手に買って良いのか判断できずにJさんを呼ぶも離れていて聞こえない。仕方なく窓口から離れた。

 

 決め方を諭された

Jさんに近づき、いきさつを話すと、「じゃあ、次の日のを買って!ある物は不要なら捨てて売っても良いけど、何もなければ家に帰れない。どうしようないでしょ。」怒ることもなく、緩やかに諭され、ハッとした。

生きていれば、こんな「要るか要らないかの小さな決断」はしょっちゅうしているはずだ。ただそれまでの人生では、その時の気分でさらっと、当たり前に意識せずに決めていたみたいだ。だが、この日から後は、必要か不要かを決める時、”その場合”と”逆の場合”の結果を、明確に思い描くことに意識を向けて考えるようになった。このきっかけを作ってくれた、このJさんには感謝である。その後の人生の小さな決断時に役に立っているのである。

「やらずに後悔するよりもやって後悔する方が良い」に似ているかも。

長い人生の中で偶然のほんの小さな接点しか持たなかった人から学ぶことの不思議。


切符の為の”通訳”

その後、結局切符を手にしたのは昼前だった。

今度は、順番が来た時にJさんに傍に来てもらうように頼んでおいだ。
切符販売員が投げかけてくる質問を、英語にして伝える。
Jさんの言った事をロシア語にして販売員に話す。

自分の頭をこんな風に使ったことがないのでフル回転だった。英語は苦手な上に普段は使わず練習もできていない。脳みそのしわの奥を掘り返しながら、見つけた英単語を一語ずつ引っ張り出して組み立てる。思い出し思い出しやっとの事で小さな文章になる。会話は低速で時間が掛かり、頭も疲れた。

だが、非母国語同士の ” 通訳 ” なんて、一生に一回の面白く愉快な体験だった。

そのなこんなで切符は手に入ったが、3~4時間近く立ったまま列に並んでいたので、予定も狂い、行動開始前に既に体も頭もたっぷり疲れてしまっていた。


いざバフチサライの観光へ

既に時間は昼近く。

Jさんに、この日の予定を聞かれたので、
”ハンの宮殿”と”ウスペンスキー修道院”,
時間があれば ”チュフト・カレ”と答えた。
Jさんも同じ感じだとのこと。
誰かと一緒だと自分の写真も撮って貰える。
「旅は道連れ」と、いざ観光へ。


ハン・サライまでの道

駅から歩き。約3km。現在の地図でほぼ真っ直ぐの道。特に駅近は新しい道でありそうな所があり、昔とは違っているかも。

https://yandex.com/maps/-/CDqVj83M

道幅は広くなく、土埃の立つような道だった。
道の端に寄って、たまに通る車をやり過ごした。

途中の道の緩くカーブしている場所の風景が印象に残っている。
道に沿って低い家が連なり、建物全体は赤茶色。
屋根の色だったかもしれない。
「ここはどこ?」
旧市街地区は異国情緒たっぷりで、荒涼としたスペインの田舎町に来たような(行ったことないけど)、ペルシャの物語の町並みかのような風景だった。「どんな異世界に迷い込んだんだろう」と不思議な気分になった。

歩いたはずの道をストリートビューで辿ってみた。が、記憶の場所がどこか特定できなかった。30年経っているので無くなってしまったかな。ハンの宮殿の近くだとは思う。

その時の印象は、次の写真に雰囲気に近い。
上の「バフチサライの情報」項でご紹介の 森翔吾さんの動画より

https://youtu.be/3wwGeVzXbC0?si=LXxg9XDoiqRdjWtH&t=23


町を車で走り回るだけの10年前の動画 ↓ どの道も狭いのが特徴


ハン・サライで

宮殿の建物内や庭と墓地など見学。

イスラム文化というのをよく知っているわけではないが、エキゾチシズムにあふれていた。

https://samivkrym.ru/kogo-manit-hanskij-dvorets.html


   ~ 写真で振り返る ~

ハンの王様が住んでいたその時代に思いを馳せてみる。

墓地 (ハンの宮殿内)
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A5%D0%B0%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%BA%D0%BB%D0%B0%D0%B4%D0%B1%D0%B8%D1%89%D0%B5_(%D0%91%D0%B0%D1%85%D1%87%D0%B8%D1%81%D0%B0%D1%80%D0%B0%D0%B9)

(”バフチサライの噴水”は、ハン・サライの中にいくつもあり。どれか分からず、何枚か撮った自分の写真の中にプーシキンの詩ゆかりの物はなかった。)

Jさんと散々歩き回って、宮殿を出る。


聖ウスペンスキー岩窟修道院への道

ウスペンスキー修道院まで歩く  2,64 км

https://yandex.com/maps/-/CDqbqVka

上り坂だったせいか、ものすごく暑くて乾燥していたのか、ここまでの道を歩くのがとても大変だった。

修道院の入り口 (現在)

https://pibig.info/144295-uspenskij-monastyr-bahchisaraj.html


この階段 ↑ を登り、上にある天井の低い礼拝所に入れただけだった。

階段下には、湧き水か聖水(?)があった。

https://pibig.info/144295-uspenskij-monastyr-bahchisaraj.html

上の写真の下部の拡大図 ↓

聖水?

 上で紹介した森さんの動画でも、ここで水を飲む場面があり。
https://youtu.be/3wwGeVzXbC0?si=mZ6PtZ8EcSq3vvEn&t=285

自分の撮った写真にも 聖水
この中は修道院で、入れない。
足元の階段があり入口の長い階段の上だと分かった、
現在では↓の写真のようになった。
ちょっと貴重な写真!

  上の写真はここだと思う ↓

https://azovsky.ru/dostoprimechatelnosti-kryma/uspenskij-peshhernyj-monastyr/
写真はここからの切り取り

はっきり覚えてはいないが、「入れる所が少なくて、あまり見れものがないな~」と内心ちょっとがっかりだったのは本心。

それから先へ進んだ


チュフト・カレに向かう…

周辺を見た後、チュフト・カレへ行ってみよう、となる。
だが、地図もなければ方向距離も分からない。

(地図が無いのは、当時は最小限の観光化だったか、国がそれどころではなかった)

正しければこのようにいくはずだった。
 1.6 km(32 分)

https://maps.app.goo.gl/yExeTCV4VzfiTnHk6

無理かもと思いながらしばらく進んだ。
観光客には1度も出会わなかった。

実際に行ったのはここだと思う ↓ 1.4 km 31 分

https://maps.app.goo.gl/81zKyXuGucnmviTbA

道は上り坂になっていた。
山の上側へ到達するには崖があり、力不足な所は助けを借りてよじ登った。

登った台地に広がっていたのは、あまりに美しい光景だった。

Jさんとしばらく風景に見入って、新鮮な空気を吸い、休憩し、絶景をカメラに収めた。

上の4枚が、撮った写真だ。

だが
あの時、何故気づかなかったのだろう!
この手記を書くに当たってこの写真を見返した。

すると、向かいの崖に穴が開いているのが見える。
人間が彫ったかのような四角い穴…。
そこが、チュフト・カレ で間違いない。

目的地には、たどり着けなかった。
今更の話だが、非常に残念だ。



が、ここで諦めて戻ることに決めた。


帰り道

この日はそれまでにすでに7㎞くらい歩いている。朝の3~4時間並んでいた疲れ、前日までの疲れも残っている状態だった。その上また駅方面まで戻らなければならない。気が重かった。

6.7 km  1時間半

https://maps.app.goo.gl/NQZ8K37HjbQKqphCA

帰りは下り坂だったが、疲れた体で1時間半歩くのは大変。


バフチサライ駅で電話

が、とにかく駅へ歩く。

数日前、スダクでミコラとしたシンフェローポリで会う約束の日時ははっきり決まっていなかったが、駅で電話することにしていた。

駅に着いたのは、夕焼け前の時間帯だった。
シンフェローポリの 彼の”兄弟” の家に電話すると、まだ連絡ないとの事。
翌日また電話すると伝えた。


ところで
Jさんはキャンプに滞在しているとの事だった。自分はどこに泊まるか決まっておらず、心配してくれた。ただ前日のホテルもすいていたので、もう1泊でも問題なさそうだった。シャワーはないが。

その日はシンフェローポリに行かないとJさんに言うと、彼らのキャンプに誘ってくれた。ちょっと離れているけど、キエフの学者達や家族が滞在していて、テントや寝袋を貸してくれるし、水浴びもできると言い、興味が湧いたので行くことにした。

が、そこからがまた長かった。


プリヤートノエ・スヴィダーニエ

「行先はПриятное Свидание」とJさんは言った。

(この地名を、Google翻訳に掛けたら、英語でNice date、日本語で ”素敵なデート ” )(当時も「何その地名の付け方?」と思って笑った)(ロシア語の ”До свидания.さようなら” の言葉の中にスヴィダーニエが入っていて、この単語はデートだけでなく”2人以上で会う事”を意味していると見当がつく。)

プリヤートノエ・スヴィダーニエの名は現在、地区の名称とバス停では使われている。https://maps.app.goo.gl/2svdAFQdbNsAZrzF8


無人駅。現在、鉄道の駅名は”1479км” となっている。https://ru.wikipedia.org/wiki/1479_%D0%BA%D0%BC

地図を見ると、バフチサライとシンフェローポリの中間。https://yandex.com/maps/-/CDq7aGJd


バフチサライの駅 → 鉄道駅 ”1479км”
車で約22㎞。電車だと乗車時間23分。(当時は30分以上に感じた)

https://yandex.com/maps/-/CDqnYRmN



キャンプ地へ

1479km駅からキャンプ地は 約3㎞?(正確な位置は特定できず、大体の場所)疲れた体に鞭打って30分程度?歩く。

キャンプ地の山の下の村の名を” マリノフカ ”と、Jさんは言っていた。その集落を通り越した。

https://maps.app.goo.gl/g8ZN1o9C6YuHHCZL9
この下、峡谷にマリノフカ村が見える
360度ビュー


キャンプの場所を特定してみる

駅からまっすぐ歩いて、村の家々の横を抜け、左側に曲がり、登った山だと思ったが。


マリノフカ村周辺 ↓ OpenStreetMapで見ると地形が分かり易い

https://osm.org/go/x9VaGWnI--?layers=P
下部の中央の三角の池に水浴びに行った。

下の写真の左の山の右に ”低い山"があれば、そこが一番ありうる…。

https://yandex.com/maps/-/CDqKBRPp

↑ 自分が撮った下の写真と見比べると、絵面が↑ 左の山そっくり。キャンプ場はそれが写る場所。

↓ 次の写真では、もう少し右が写っている。低地に見えた右が、低い山であることが分かる。ここがここがキャンプ地の可能性が高い。

https://yandex.com/maps/-/CDqKRWmN


この辺?
 3,8 км、 徒歩で 45 мин

https://yandex.com/maps/-/CDqDqZKo
マリノフカ周辺の地図で
1479km駅→キャンプ地


キャンプ地~テント村

既に日は落ち、駅から街灯もないほぼ真っ暗な道をひたすら歩いた。疲れていても、風景が見えなくても、ここまで来たらひたすら歩くしかない。Jさんは重い方の荷物を持ってくれた。そして坂道を登ってやっと着いた。

こんなキャンプ地。
後ろに見えるの台地との間に峡谷がある。

このようなテント ↑ が写真の反対側にも広がっていた。(写真は翌朝)

テント村は、主にキエフの考古学者や大学関係者達とその家族が集まっていた。ここで発掘をしているかと思ったら、離れた場所だという事だった。半分レジャーだとも思う。炊事用の施設、トイレや囲いのない水シャワーも設置してあった。


Jさんの世話係か?キエフ大学の先生オリガさんが出迎えた。頼まれた切符は彼女の物だった。他に、Jさんと一緒にドイツから来ていた大学の関係者らしい男性Aさん も帰りを待っていた。

Jさんとオリガさんは英語で話していた。がオリガさんも英語がそこまで流暢でもなかったようだ。

オリガさんはスープをごちそうしてくれた。突然見知らぬ人が来たら驚くだろう(日本人なんてなおさら)が、温かく接してくれた。
1日中、慣れない英語で疲れた頭に、ロシア語は心地よかった。
ここに来た事の次第を説明したり、水を得た魚のように彼女と話した。
彼女は後で自宅の電話番号をくれた、キエフに来たら電話してね、みたいな。(後でキエフに行くことは残念ながらなかった)



池へ

JさんとAさんは池に水浴びに行くというので、一緒に行ってみた。真っ暗の中、けもの道のように細い道(近道)を村に向かって下った。


確かに池はあった。だが真っ暗で何も見えない。2人とも服を脱いで水に入った。水なのに寒くないのか知らないが、ジャバジャバやっていて楽しそうでもあった。暗くて見えないにしても、あまり裸の男たちの方は見ないようにしていたが、深さは膝上の辺り、なのは分かった。

入ったら?と誘われたが、やはり自分には出来ない。まず、男性がいる所で、暗いとはいえ服を脱ぐなんてできない。(女子同士でも戸外では無理だが。)水が黒く見えてきれいかどうかわからない。深さだって知らない。2人は明るい時に見て、水がきれいで浅いと知ってたかもしれない。でも自分は見えない。足だけは洗った。


ところで、途中でゆっくりと人が近づいてきて近くに座った気配がした。影しか見えないが何となく若い男性かなと思った。JさんとAさんは自分に向かって英語で「水浴びしてるといつも見に来る人がいる。」とおかしそうに言った。
自分は2人の水浴を待つ間、暇なので、その人に話しかけてみた。「近くに住んでいるんですか?」「・・・」「いつも来るの?」「・・・」何を聞いても黙ったまま。話しかけ作戦失敗。知的障害がある人かと思ったりもした。(今思うと、池は彼らの飲み水かもしれないので、監視かも。)


ホタルを初めて見た

男性たちの水浴びが終わると、キャンプ地に向かってまた3人で山を登った。虫の声が聞こえていた。空気のきれいな自然いっぱいの田舎だ。

と、Jさんは足を止めて言った。「見て、小さな生き物!」
草むらを見ると、何と小さないくつかの光が見えた。だった。

その時生まれて初めて見た。(それ以降も1度も見ていない)
ずっと1度見てみたいと思っていた物に、期待していない場所で出会った。感激でしばらく見とれていた。2人は待っていてくれた。

今思うと蛍は水のきれいな所にしかいないのだから、池の水もきれいだったのだろう。地図を見ると、池は川と繋がっている。


池から戻る

戻ると、オリガさんにどうだったか聞かれ、男性は水に入ったが自分は入れなかったうんぬん話した。

Jさんは、シャワーもあるよと、その場所を案内した。ため水シャワーで、四方を取り囲んであるわけでなく、3つか4つのテントで死角が多く作ってあるだけ、どのみち丸見え。懐中電灯程度とはいえ明かりがあり、かえって照らされてしまいそう。なので、ここも断念。

テントと寝袋

実はキャンプはあまりしたことがない。思いがけずこんな所でこんな経験が出来た。

誰かのテントの1つと誰かが使っていた寝袋を借してくれた。寝袋は直接地面と接してなく、多分キャンプ用ベッドになっていた。
自衛隊のようなテント色の寝袋は見た目はアレだったが、しっかりした造りで、全く冷えることなく暖かで朝までよく眠れた。夜から明け方は外は肌寒かった。
大学はソ連時代は全て国立で、備品もその遺産なのか、古そうだが、極寒の地にも耐えられる機能性優先のしっかりした物だったのだろう。


この日の移動

距離
バフチサライ駅
 ~チュフト・カレ方面の往復13~14㎞歩き
1479км” 駅からキャンプ地まで 約3.8km歩き
その後、夜キャンプ地から池に往復 約2㎞歩き
                
訪問先で見て回る事も考慮すると
徒歩だけで約20㎞だった。

電車では、
バフチサライ駅から”1479км” 駅まで約21㎞

こうしてバフチサライ1日目が終わった。


翌日

キャンプ地の朝

意外とテントで寝袋は心地よくぐっすり眠って朝を迎えた。
朝、10歳くらいの少年の声で目が覚めた。
自分のテントの入り口で大声で「○○、朝だよ、起きろーー!」と叫んでいる。目を開けて見る。別人と気づいた男の子は大慌てで「あ、ごめんなさーい!」とびっくりして飛んで逃げた。

お陰で目が覚め、テントの外へ出た。
山のおいしい空気をたっぷり吸った。

疲れが溜まっていたのもあり、朝は急がなかった。

キャンプ地をあとに

Jさんも起きたので今日の予定を話す。
「友達が今日シンフェローポリに来れば、今夜そこへ行く」そろそろミコラが来る頃だと思ったので。が、着くのは夕方だから、昼間は空く。もう一度バフチサライに戻ってチュフト・カレに行ってみようと思う、と話した。JさんとAさんも行くと言う。

キャンプ地の皆に「ありがとう、さようなら」を言いそこを去る。

バフチサライ再び、チュフト・カレ再度挑戦~失敗

(その辺までは覚えている。)
(前日と同じ道をもう一度歩いたのも覚えている。)

がその他の記憶があやふやだ。
間違いないのは、駅まで歩き、バフチサライに電車で行き、直接チュフト・カレを目指し、ハン・サライとウスペンスキー修道院を通過した事。
その後どこを歩いたのか、わからないが、谷間を歩き続け、歩き回って疲れ、チュフト・カレに辿り着くことはできず、失意のうちに同じ道をバフチサライの駅まで戻った事だ。

何時間もどこを歩き回って何を見たのか…。頼みの手帳にも、1日中チュフト・カレを探して歩き回った。としかない…。地図が無かったのだから、どこを歩いたかわからない。
まあバフチサライ駅から往復14㎞と、行った先で探し回り、20㎞程度歩いたのは確かだが。

バフチサライ駅 → キャンプ

駅でまた、シンフェローポリのミコラの”兄弟の所”へ電話した。「明日の夜ミコラが来るって連絡もらった」との事。自分がそこへ行くのは翌日と決まった。

それをJさんとAさんに伝えると、「また今日もキャンプに泊まればいいよ」と言ってくれる。

2人はとても親切だと思う。
が本当はキエフの学者さん達が、そこの設営とかの準備をしたわけで、自分が実際にもてなしを受けたのは、キエフの人達だ。
このドイツ人2人だって本当は彼らのお客さんのはず。多分ほとんど彼らにお任せだったんじゃないかと思う。で客が勝手に人を連れて来てるってあり?無関係の自分が場所を借りてもいいんだろうか?と思いつつ、お言葉に甘えた。

自分が戻ったので、オリガさんも少し驚いたが笑顔で迎えてくれた。

ドイツ人Jさんと

この日は1日中JさんAさんと一緒だったので話を色々聞いた。

このJさんはドイツの有名な○○市 (旧西ドイツ側)の大学でネアンデルタール人の研究をしている、との事。ネアンデルタール人ってどこで発見されたんだっけ?なんて考えながら聞いていた。(答え: ドイツ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

Jさんの名前と住所は手帳に貰った。
現在、名前で検索を掛けると、上の方に大学と一緒に出てくる。開けると顔写真も貼ってある。検索一覧の少し下を見ていくと、Wikipedia(独語版)にも載っている。(その為ここに名前を出すのは避けた)
どうりで先生らしく穏やかに導くように教えてくれていたわけだ。

Aさんは、年齢が一緒だったという事しか覚えていない。多分、大学の助手みたいな。なぜかこの2人の写真は撮らなかった。(フィルムの残りが少なかった)


自分はどれだけ自分の話をしたかは覚えてないが、ドイツに行った事ある (彼らの大学のある町を含む)、とか、(合唱などで)ドイツ語で歌った事あるとか、子供時代に住んだ町(田舎)は名前が似ている西ドイツの町と姉妹都市で、小学校に時々ドイツ人が来てた、とかは話した。

ヨーロッパを1度旅した事があるが、その前に覚えた、知りえる限りの独語を披露したり、ロシア語の中のドイツの外来語を探したり、(昔独語の1~10は覚えたので) 11~20を教えてもらったり、逆に日本語で1~10を教えたり。
なにせ共通語が英語なので話すのが大変だった。もちろん黙って歩くことも多かったが、時々、間が持たないので、山道を歩きながら日本語で歌を歌ったりもした。

山のハイキングは息が切れて疲れるけど、自然がいっぱいの森の中はとても心地よい。


この日歩いた距離

キャンプと最寄り駅往復約6㎞、
バフチサライ駅からチュフト・カレ付近への往復と探し回りで25㎞以上。

連日、長距離を歩く。


マリノフカ付近のキャンプで2泊目、
翌朝はここを離れる。



シンフェローポリ へ発つ

キャンプを後に

マリノフカでキャンプの2回目の朝を迎えた。
ここは良い所でみんな親切だけど、自分がここにいて良いのだろうかと気まずさも感じていた。

この日はシンフェローポリに行く。Jさんとみんなにさよならしようとしたら、Jさん、まさかの「一緒に行く」という。1人の方が相談せずに行動出来て楽なんだけど…、と思いつつ、まあいいや。


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