SS・親衛隊 (ナチス)・武装親衛隊のWikiの記述 他~ 紛らわしさ解消の為
”第14SS武装擲弾兵師団”を各国語版Wikiを3回取り上げた中で、
”親衛隊”と”武装親衛隊・Waffen-SS”等、複雑で紛らわしいので、Wikiでナチスの軍組織などを纏めて再度見てみる。
”第14SS武装擲弾兵師団”・”ウクライナ第1”・” ガリーツィエン”・”ハルィチナー”と呼ばれる組織について見た。
その1回目 ↑ で”親衛隊”等について少し取り上げた。(今回、部分的再掲あり)
今回は
Wikipedia日本語版にあった、次の
”北ウクライナ軍集団”
”一般親衛隊”
”親衛隊”
”親衛隊階級”
”武装親衛隊・Waffen-SS”
”武装親衛隊の編成”
”Category:ナチス親衛隊”
”第二次世界大戦中のドイツ軍の編成” 、そして
”旧武装親衛隊員相互扶助協会”
を、ほぼ全コピぺしている、
本文の前に
次の4つの ※ 印は、気づいた点などを記した。
※1 一般SSと武装SSの階級の違い
分かりにくかった”一般SSと武装SSの階級の違い” は Wiki”親衛隊階級” 内に書かれている。(下の本文中にもあるが、この場所にこの記述を重複して置いておく)
「親衛隊二等兵と親衛隊一等兵と親衛隊少将以上の将官階級において一般SSと武装SSで違いがあった。また武装SSには一般SSには存在しない親衛隊特務曹長(SS-Sturmscharführer)の階級が存在した。
親衛隊二等兵は武装SSでは「SS-Schütze(SS狙撃手ないしSS銃兵)」、一般SSでは「SS-Mann(SS隊員)」となる。親衛隊一等兵は両方ともそれに接頭辞「Ober-(上級)」が付く。将官の階級は武装SSではドイツ国防軍陸軍と同じ階級を用いていた。武装SSの大将は「General der Waffen-SS」となり、これは武装SSが陸軍と連携する上での関係からである。なお、武装SSの将官は常に一般SSの将官も兼ねており[6]、武装SS大将の場合、階級は「親衛隊上級集団指導者および武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)」となる。さらにナチス・ドイツにおいて、警察はSSとほぼ一体だったので警察の将官の階級は一般SSと武装SSと警察の3つの階級の肩書きをもっていることが多かった。例えば「親衛隊上級集団指導者ならびに武装親衛隊および警察大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS und Polizei)」といった具合である。」
○ 「親衛隊」のページにある ”違い”の記述 1
「親衛隊」の ”親衛隊員について” の項の ”親衛隊員の入隊の流れ” で条件についての言及
「親衛隊の採用基準は特にナチス党政権掌握後から第二次世界大戦開戦前までに厳しかった。親衛隊員となるためにはまず親衛隊人種及び移住本部 (RuSHA) の人種委員会の選考を通る必要があった。人種委員会には以下のような人種観があった。
1、純粋北方人種
2、圧倒的に北方人種であるかファーレン人種
3、基本的に先の2つの人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種
4、東方(=東欧)系。もしくはアルプス系混血
5、ヨーロッパ人以外の外人種との混血」
このうち親衛隊員として選考対象になりうるのは1と2、少なくとも3までとされていた。さらに身長が最低170センチ(親衛隊特務部隊は更に4センチ加算)、上限30歳(特務部隊は23歳)、体格といった基準があった。」
○ 「親衛隊」のページにある ”違い”の記述 2
「親衛隊」の ”思想感”の ” 宗教観 ” の項での言及。
「一般親衛隊は3分の2が変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であった」
※2
”第二次世界大戦中のドイツ軍の編成” のWikiページ中からの但し書き:
見出し ”軍集団” の項に”北ウクライナ軍集団” へのリンクがある。
それを開くとその”構成”(1944年7月15日のもの[1])の項に
”第1装甲軍 ”があり、その一番下に ”第14SS擲弾兵師団” がある。
ただ、名称が ”第14SS武装擲弾兵師団” とは一部違うためか日本語版の記述がリンクしていない。(英語版にしてみると、リンク先は同じ ” 第14SS武装擲弾兵師団 ” に繋がったので間違いないはず。)
↓ ↓ ↓
北ウクライナ軍集団
北ウクライナ軍集団(きたウクライナぐんしゅうだん、独:Heeresgruppe Nordukraine)は、ドイツ軍の主要な軍隊編成の一つである。1944年4月にエーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥が指揮していた南方軍集団から分離、改称する形で成立した。同時にヴァルター・モーデル陸軍元帥がマンシュタインの後を継ぎ指揮官に就任した。1944年4月段階で第1装甲軍と第4装甲軍によって構成されていた。1944年7月、リヴォフ=サンドミール作戦中にソヴィエト軍の第1ウクライナ戦線と交戦し、8月には第4装甲軍は第17軍とともにウクライナ・ガリツィアのカルパティア山脈とプリピャチ沼沢地(英語版)の間で戦闘を繰り広げている。9月、北ウクライナ軍集団はA軍集団へと改称した。
第4装甲軍
第XXXXVI装甲軍団
第XXXXII軍団
第LVI装甲軍団
第VIII軍団
第1装甲軍
第LIX軍団
第XXIV装甲軍団
第XXXXVIII装甲軍団
第III装甲軍団
第20装甲擲弾兵師団
第14SS擲弾兵師団
ハンガリー第1軍
第VIハンガリー軍団
第XI軍団
第VII軍団
第2ハンガリー山岳旅団
第19ハンガリー予備師団
第2ハンガリー装甲師団
戦闘団 第19SS装甲擲弾兵師団
脚注
^ pp.66-67
参考文献
Mitcham, Samuel W., Jr., The German Defeat in the East, 1944-45 (Stackpole Military History), Stackpole Books, 2007
外部リンク
Lexikon der Wehrmacht (ドイツ語)
最終更新 2023年10月20日 (金) 07:44
※3
旧武装親衛隊員相互扶助協会について
親衛隊 ・武装親衛隊の活動そのものは解体したが
1951年~1992年に
「旧武装親衛隊員相互扶助協会」なるものが存在した。
「目的は武装親衛隊員と国防軍将兵への法的・社会的平等の確保および元隊員への支援を行うことであった。」
つまり何らかの活動が1992年までは間違いなく行われていたと考えてよい。
(今回の、一番下にWiki全コピペあり)
※4
「武装親衛隊・Waffen-SS」の”概要”より・・・
今回知ったのは、ナチスの軍は政府の軍ではなく
党、もしくはヒトラーの個人の私兵であるという認識だという事だ。
(これは後付けかな、という気も少しする)
ー ー ー
一般親衛隊
一般親衛隊(いっぱんしんえいたい、Allgemeine SS〈アルゲマイネSS〉)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)のうち親衛隊特務部隊(SS-VT)・武装親衛隊(Waffen-SS)をのぞいた全ての親衛隊組織を指す[1]。
武装親衛隊員は軍人扱いで国防軍軍人が持つ給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)を所持していたが、一般親衛隊員は軍人とは認められていなかったのでこれを所持していなかった。なお親衛隊髑髏部隊(SS-TV)は、はじめ一般親衛隊扱いだったが、1938年8月17日より軍人扱いとなった。第二次世界大戦開戦後、髑髏部隊の後を受けて強制収容所の警備に当たるようになった髑髏大隊は1941年4月22日より軍人扱いとなっている[2]。
概要
1934年に親衛隊内部に戦闘部隊の親衛隊特務部隊(SS-VT、後の武装親衛隊)が創設されるとともに非戦闘員の親衛隊員は一般親衛隊(アルゲマイネSS)と呼ばれるようになった。武装親衛隊は第二次世界大戦中に急増したが、一般親衛隊の人員数は常に20万人上ほどであった。1939年12月には一般親衛隊20万1910人、親衛隊特務部隊5万6546人だったが、1945年3月には一般親衛隊20万48人、武装親衛隊82万9400人であった[3]。
武装親衛隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)を所持し、全員に給料が支払われていたが、一般親衛隊は給与支給帳(Soldbuch)がなく、給料は親衛隊中将以上の階級の者か、常勤の隊員にしか支給されなかった。一般親衛隊の非常勤隊員はそれぞれ仕事をもって日常生活を送りながら、ナチ党の集会や党大会の時だけ親衛隊の制服を着て出席していた。一般親衛隊の隊員は職業を持って空き時間を使って自発的に党活動に参加することを期待されていた。親衛隊は本来は公務員ではなくナチ党の構成員だからである。とはいえ一般親衛隊員の多くがナチ党政権下で公務員として働いていたのでそちらの立場から給料をもらっていることが多かった[4]。
一般親衛隊といえば黒い制服が有名である。黒服はもともと親衛隊組織全ての制服であったが、戦闘組織の親衛隊特務部隊や強制収容所勤務の親衛隊髑髏部隊はやがて国防軍型の制服を導入したため、黒服を着用しなくなった。そのため一般親衛隊のみが黒服を着用するようになった。
しかし1938年には一般親衛隊の常勤隊員の日常業務制服としてペイルグレーの制服が導入された。常勤隊員は黒服に代わってこれを着用するようになったが、4万人ほどの非常勤隊員にはグレーの制服が支給されず、彼らは黒服を使用し続けた。そのため、かつてはエリートの象徴だった一般親衛隊の黒服も戦争後期には兵役逃れの臆病者の象徴として笑い者にされるまでになり下がっていたという[5]。
階級は一般親衛隊、武装親衛隊ともに突撃隊(SA)の階級が元になっており、基本的に同じであったが、一部だけ名称が異なった。たとえば親衛隊二等兵の階級は武装親衛隊では「SS-Schütze」、一般親衛隊は「SS-Mann」の階級をつかった。同様に親衛隊一等兵も武装親衛隊は「SS-Oberschütze」、一般(アルゲマイネ)SSは「SS-Obermann」の階級をもちいていた。また武装親衛隊のみの階級として親衛隊准尉(SS-Sturmscharführer)というものがあった。さらに親衛隊少将以上は武装親衛隊では国防軍と同様の階級を用いていた。ただ武装親衛隊員には一般親衛隊員の階級も併せて授与されるのが通例であった。親衛隊の階級の詳細は親衛隊階級を参照のこと。
一般親衛隊は武装親衛隊に比べると悪印象をもたれていることが多いが、国家保安本部(ゲシュタポ、親衛隊保安部、刑事警察といった警察機関を一般親衛隊にし、一つにまとめたもの)や親衛隊経済管理本部といったユダヤ人虐殺をはじめとする残虐行為の執行機関が含まれるせいであると思われる。ただし一般親衛隊にも残虐行為に関与していない組織や人はいるし、武装親衛隊の中にも残虐行為に関与した組織や人はいるので、「一般親衛隊=犯罪者、武装親衛隊=勇者」のような単純な決めつけはできない。また両者は同じ親衛隊組織であったため、完全に分離しているわけでもなく、その区分は曖昧なところも多かった[4]。
編成
一般親衛隊の非常勤隊員は、親衛隊歩兵連隊(SS-Fuß-Standarte)の大隊・中隊・小隊に属し、歩兵連隊の単位ごとに行動していた。最初にできた親衛隊歩兵連隊は1925年11月9日にヨーゼフ・ディートリヒの指揮下にミュンヘンに発足した親衛隊第一連隊(1. SS-Standarte)である[6][7]。
親衛隊歩兵連隊は当初、ナチ党の大管区ごとに置かれた「大管区親衛隊指導部」(Gau-SS-Leitung)に属していたが[8]、1931年に突撃隊をモデルに「親衛隊上級指導者管区」(SS-Oberführerbereich)が設置されると、親衛隊歩兵連隊はそれに属した。さらに1932年にはその上に「親衛隊集団」(SS-Gruppe)が創設され、1933年11月に親衛隊集団が「親衛隊上級地区」(SS-Oberabschnitt)に改組され、また親衛隊旅団(SS-Brigade)が親衛隊地区(SS-Abschnitt)に改組された。親衛隊歩兵連隊はその下に属した[6][9]。
したがって1933年11月以降、一般親衛隊は以下のように編成された。
親衛隊上級地区(SS-Oberabschnitt)、親衛隊地区(SS-Abschnitt)、親衛隊歩兵連隊(SS-Fuß-Standarte)、親衛隊大隊(SS-Sturmbanne)、親衛隊中隊(SS-Stürme)、親衛隊小隊(Trupps)、親衛隊分隊(Scharen)、親衛隊伍(Rotten)である[10]。1934年10月に小隊は分隊と統合されて、Scharenが小隊となり、Rottenが分隊となった[10]。
さらに以下の専門職部隊がある。親衛隊騎兵連隊、親衛隊通信大隊、親衛隊工兵大隊、親衛隊衛生中隊、親衛隊輸送中隊、親衛隊レントゲン大隊、親衛隊壮丁隊である。
連隊に所属する一般親衛隊の隊員は連隊番号の襟章を着用した。またカフタイトルの縁取りの色で所属大隊(第1大隊は緑、第2大隊はダークブルー、第3大隊は赤、予備大隊はライトブルー)、番号で所属中隊を示した[7]。
脚注
参考文献
山下英一郎『SSガイドブック』新紀元社、1997年。ISBN 978-4883172986。
ロビン・ラムスデン 著、知野龍太 訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房、1997年。ISBN 978-4562029297。
Mark C. Yerger (2002年) (英語). Allgemeine-SS. Schiffer Pub Ltd. ISBN 978-0764301452
最終更新 2023年5月22日 (月) 23:26
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(ナチス)親衛隊
独:Schutzstaffel シュッツシュタッフェル、
略号:SS
親衛隊とは、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、主に第一次世界大戦時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。
ルーン文字で表記した「SS」
別名“黒地に銀の重ね稲妻”
帽章。トーテンコップ(髑髏)
創設 1925年4月4日
廃止 1945年5月8日
所属政体 ドイツ国
ドイツ国
所属組織 国民社会主義ドイツ労働者党
部隊編制単位 総軍
人員 125万人(1945年2月)
所在地 ミュンヘン、プリエナー大通り45「褐色館」
ベルリン、プリンツ・アルブレヒト通り
北緯52度30分26秒 東経13度22分57秒
通称号/略称 SS
標語 『忠誠こそ我が名誉』(Meine Ehre heißt Treue)
【隊歌】
『縦ひ全てが背くとも』
(Wenn alle untreu werden)
上級単位 突撃隊(1934年まで)
担当地域 ヨーロッパ
主な戦歴 第二次世界大戦
国民社会主義ドイツ労働者党 > 親衛隊 (ナチス)
親衛隊(しんえいたい、独:Schutzstaffel シュッツシュタッフェル、略号:SS)は、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、主に第一次世界大戦時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。ドイツ語でSchutzが「護衛」「防護」、Staffelが「梯団」「梯隊」を意味する。
概要
元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。
1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。
第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、反ナチ勢力の弾圧、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所やアインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている[1]。
隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。
歴史
前身
1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった[2]。
党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団としては1923年3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である[3][4][5]。この組織は1923年5月に「アドルフ・ヒトラー特攻隊 (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された[5][6][注釈 1]。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり[6][7]、隊長は突撃隊員ユリウス・シュレック退役大尉(ドイツ語版)とナチ党財務担当ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉(ドイツ語版)の二人で務めていた[3][4]。
ミュンヘン一揆の際、「アドルフ・ヒトラー特攻隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した[8]。ウルリヒ・グラーフもヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である[5]。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちにニュルンベルク党大会で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「血染めの党旗(ドイツ語版)」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている[8]。
ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた[8][9]。
結成
1924年12月20日にランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った[10]。
ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた[11][12][13][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[12]。
初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。
年齢23歳から35歳まで
2人以上の保証人が立てられる
同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある
健康で頑強な体を持っていること
また親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[13][14][15]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[8][15]。
シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[15]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという[16]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[17]。
1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[18][19]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[16][20][21]。
1926年11月1日にフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)の肩書を得た[19][20][22]。
結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[23]。1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[23][24][25]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[23][26]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[20][21]。
勢力拡大
1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導に任じられた[25][27][28][29][30][31][32]。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人[21][33]、1930年末には2700人[21][33]、1931年には1万5000人[34]、1932年4月には2万5000人[35]、1932年末には5万人以上になっていた[36][37]。
これは1929年10月24日のニューヨーク・ウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[38]。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[21][39]。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした[40]。
こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に突撃隊の下部組織であった)[41][42]。
ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[43]。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の北方人種のことであった[44][45]。
農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[43][46]。
人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった[38]。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている[47]。ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった[17]。
1930年7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた[48]。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった[35]。
なおシュテンネスの反乱にはプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した[49]。1931年6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織はSDに改組された。SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった[50]。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった[51]。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた[52][53]。
1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権がヒムラーに任せられた[54]。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった[35]。ヒムラーは親衛隊の模範としてイエズス会を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた[55]。
突撃隊の前身組織の指揮官でナチ党古参であるエミール・モーリスは一時追放されていたが、1932年の復帰後に親衛隊上級大佐(隊員番号2番)に任命された。
政権掌握後
隊員数の増加
1933年1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握した。
日和見主義者達が保身から続々と入党していた[注釈 3] ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが[30]、1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた[56]。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった[57]。
隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け[58]、北方人種の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際シークレットブーツなどを履いた者もいたという。また、結婚も親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた[59]。
旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった[36]。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた[60]。
警察権力の掌握
1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日にハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された[61][62]。さらに4月にはヒムラーがバイエルン州警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった[62]。
一方ベルリン親衛隊の指導者であるクルト・ダリューゲは、プロイセン州内相に就任したゲーリングと接近してプロイセン州警察特別委員に任じられ、さらにプロイセン州警察中将の階級を与えられていた。2月22日にはゲーリングは突撃隊員2万5000人と親衛隊員1万5000人をプロイセン州の補助警察として採用したが、その指揮はダリューゲに任せられていた[63][64]。ダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになった。1933年春にはハイドリヒがヒムラーからダリューゲ鎮撫のためにベルリンに派遣されたが、ゲシュタポ(プロイセン州秘密警察。当時はゲーリングが長官、ルドルフ・ディールスが局長をしていた)に脅迫されてミュンヘンに追い返されている[65]。ヒムラーとハイドリヒはひとまずプロイセン州やベルリンの「ゲーリング王国」に手を出すのを諦め、バイエルン州で反体制派取り締まりに精を出して実績を上げた。彼らは1933年3月にミュンヘン郊外のダッハウに最初の強制収容所ダッハウ強制収容所を創設している[66]。
ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックは独立傾向のプロイセン州内相ゲーリングに対抗するための実力を求め、親衛隊に接近してきた[67]。1933年から1934年初めにかけて強制的同一化と併せて各州の政治警察がヒムラーに任せられていった[67]。しかしドイツの国土の大半を占めるプロイセン州の警察は相変わらず、ゲーリングやディールス、ダリューゲらによって支配され続けた。ヒムラーは、自分とゲーリング、ダリューゲなどの間をふらふらしていたプロイセン州やベルリンの親衛隊員達が自分に乗り換えるよう粘り強く揺さぶりをかけ、「ゲーリング王国」の足腰を弱体化させていった。さらにゲシュタポの指揮権を手に入れるため、ディールスについてヒンデンブルク大統領に讒言して一時ディールスをゲシュタポ局長から失脚させている[68]。
突撃隊の指導者レームとも争うところが多かったゲーリングは親衛隊とこれ以上争うことは得策ではないと判断し、1934年4月20日、ディールスが務めるゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ総監兼長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」を新設し、ヒムラーをこれに任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ヒムラーは、ただちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、1934年4月22日に後任としてハイドリヒをゲシュタポ局長に任じ、彼にゲシュタポの実質的な運営をゆだねた[69][70]。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった。以降、ドイツの政治警察はほぼヒムラーとハイドリヒが掌握するところとなった。
一方突撃隊は政権獲得後に総隊員数400万人(うち武装兵士50万人)を抱え、「第二の国防軍」などと呼ばれるまでになっていたが、権力からは遠ざけられ、しかも深刻な隊員の失業問題を抱えていた。突撃隊員の中には「第二革命」を唱えて貴族階級が軍部を占める国防軍を解体して突撃隊を代わりの正規軍とすべきと主張する者も増え、軍と党の軋轢を強めていた。ヒトラーはいよいよ突撃隊の大掃除を考えるようになった。1934年6月30日、長いナイフの夜においてエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部や反党分子が数百名殺害された。この事件で主導的地位を果たしたのはプロイセン州内相ゲーリング、そしてヒムラーやハイドリヒなど親衛隊の幹部であった。この実績が認められ、1934年7月20日に親衛隊は突撃隊から分離、独立を果たした[71]。また、1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられた敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の監督権もすべて親衛隊に移された。ヒムラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケを強制収容所総監に任じた。アイケは1933年末にダッハウ強制収容所の監視部隊を親衛隊髑髏部隊として組織しており、長いナイフの夜事件の際にも粛清の実行部隊として活躍し、事件後には五個大隊に再編されて各強制収容所に警備部隊として配置されるようになった[72]。
事件後、フリック内相はヒムラーやハイドリヒを警戒して、引き続きヒムラーから独立的な姿勢を見せていたダリューゲと接近し、彼を内務省警察局長に任命した。さらにヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えた[73]。しかしヒトラーのヒムラー達への信任はすでに盤石なものとなっており、フリックとダリューゲでは抗いきれず、1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官に任じることとなった。以降フリックの内相としての地位は形式的なものとなっていった。
ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は秩序警察(オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は保安警察(ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。秘密警察(ゲシュタポ)と刑事警察(クリポ)である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメイソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人、過激派、黒色戦線(ナチス左派のオットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[70]。
さらに1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者(Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた[74]。
1939年9月、ハイドリヒは政治警察活動の重複を避けるために党機関であるSDと国家機関である保安警察を一つの傘の下に束ねた。それが親衛隊の国家保安本部である。SDは第III局(SD国内諜報)とVI局(SD国外諜報)に、秘密警察(ゲシュタポ)は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。III局はオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、IV局は「ゲシュタポ・ミュラー」と呼ばれたハインリヒ・ミュラー親衛隊中将、V局はアルトゥール・ネーベ親衛隊中将、VI局は30歳で親衛隊少将兼警察少将となったヴァルター・シェレンベルクが指揮した。第二次世界大戦後期には国防軍の諜報部であったはずのアプヴェーアが国家保安本部VI局に組み込まれ、ドイツの対外諜報活動はすべて国家保安本部が管轄するところとなった。
戦時中に国家保安本部はホロコーストの執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒがヴァンゼー会議を開催し、ラインハルト作戦を策定してベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線ではアインザッツグルッペンを組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行った。
1942年6月にエンスラポイド作戦でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハが長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からはエルンスト・カルテンブルンナーが後任に任じられて国家保安本部長官となった。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという[注釈 4][75]。
経済活動
ヒムラーは党の政権獲得前から親衛隊の後援会員(FM)の拡大を目指していた。後援会員は親衛隊に資金を提供するが加入はしないシンパのメンバーである。親衛隊の各連隊はそれぞれの後援会を所持しており、隊員には少なくとも一人の後援会員を確保することが命じられていた。1932年の時点では後援会員数は1万3000人にとどまっているが、政権獲得後に一気に後援会員数が増大し、1933年には16万7000人まで伸ばし、さらに1934年には34万2000人に達した[76]。1932年夏にヒトラーの経済顧問ヴィルヘルム・ケプラー(Wilhelm Keppler)が創設した「経済問題研究委員会」は、1934年半ばに親衛隊に取り込まれて「親衛隊全国指導者友の会(Freundeskreis Reichsführer SS)」となったが、これは親衛隊の後援会の中でも頂点に位置するものであった。ここにはIGファルベンの幹部ハインリヒ・ビューテフィシュ(Heinrich Bütefisch)、大財閥フリックのフリードリヒ・フリック(Friedrich Flick)、大手食品会社ドクター・エトカーのリヒャルト・カゼロウスキー(Richard Kaselowsky)、ドレスナー銀行のエミール・ハインリヒ・マイヤー(Emil Heinrich Meyer)、ドイツ銀行のカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von Halt)、ジーメンス・シュケルトのルドルフ・ビンゲル (Rudolf Bingel)、J.H.シュタイン銀行(J. H. Stein Bank)のクルト・フォン・シュレーダー男爵(Kurt Freiherr von Schröder)、国営企業ヘルマン・ゲーリング(Reichswerke Hermann Göring)のヴィルヘルム・フォス(Wilhelm Voss)などそうそうたる財界重鎮が集まった。後援会員はヒトラーへの宣誓も義務付けられず、親衛隊から命令を受けることも制服の着用義務もなく、金銭面のみで親衛隊とつながった人々だった。しかし親衛隊の間違いのない財源であり、重要な存在であった[77]。ヒムラーは後援会員にもしばしば親衛隊名誉指導者として親衛隊の階級を与えるようになった。これにより親衛隊に「親衛隊の魂」を持たぬ者が大量に流れ込むこととなり、旧来からの隊員たちを戸惑わせたという。
しかし後援会の存在により資金を大量に獲得できた親衛隊はドイツの「企業体」のひとつともなっていった。親衛隊は500にも及ぶ企業の経営を行っていた。中でも「ドイツ土石工業社(Deutsche Erde und Steinwerke:略称DEST)」が親衛隊企業としてはもっとも成功した企業である。DESTの主な仕事は3つあり、1つに採石場の開発および天然石の産出、1つに煉瓦やクリンカーの生産、1つに道路工事の請負であった。作業員には強制収容所の囚人が駆り出されていた。「ドイツ装備工業社(Deutsche Ausrüstungswerke:略称DAW)」も有名である。各地の強制収容所に生産集中化のために設置され、収容所の囚人を使って弾薬箱、弾倉箱、火砲、その他軍用品の生産にあたっていた。1940年6月に設置された「繊維皮革事業団(Gesellschaft fur Textil und Lederverwertung)」も高い収益を上げた。武装親衛隊の軍服を生産する会社で、主に女囚を働かせていた。いずれの会社も囚人たちを労働条件などまともに考えることもなく、文字通り倒れるまで酷使した[78]。
これら親衛隊企業は親衛隊経済部門の長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将の下でまとめられていた。このなかでヒムラーは磁器製造会社の経営に強く関心を示した。彼がちょくちょく経営に口を出していたこの会社は常に赤字であったが、ヒムラーは最後まで経営をやめなかった[79]。他の親衛隊企業も戦前期には赤字かあまり利益を上げず、戦時中になってようやく利益を上げるようになるところが多かった。
軍事組織に
詳細は「武装親衛隊」を参照
ヒトラーは、軍の枠組みにとらわれず、自らの意志で自由に動かせる軍隊を欲していた。レームの突撃隊は党独自の私軍であったが、レーム以下突撃隊幹部は政権掌握後に突撃隊を正規軍にすることを望み、国軍(Reichswehr)と睨みあっていた。国軍と突撃隊を和解させようとするヒトラーを日和見主義者と見なす反ヒトラー派も増えており、「ヒトラーの私軍」になりうる余地はなかった。
突撃隊幹部は、1934年6月末から7月初めにかけて長いナイフの夜において粛清された。粛清に主導的役割を果たした親衛隊は国軍から高い評価を得るようになった。ヒトラーはこれを利用して親衛隊の中に軍隊を設置させる道を模索した。実際に国軍の親衛隊への反感は突撃隊へのそれより少なく、長いナイフの夜直後の1934年7月5日に国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは一個師団規模の軍隊の所持を親衛隊に認める旨を軍司令官たちに通達している。9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつも親衛隊が内政上特別な役割を果たすためとして武装した親衛隊部隊を3連隊と1通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊の戦闘部隊「親衛隊特務部隊」であった。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍人手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。しかしこの時点では国軍の感情も配慮して特務部隊は戦力を3個連隊と1通信隊に限定され、師団編成の許可は見送られている。
特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年に国防軍(Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・トェルツに親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年にはブラウンシュヴァイクにも親衛隊士官学校が開設された[80]。特務部隊の軍事教練にはパウル・ハウサー(1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた。
同時に一般の軍人が注目の対象とはしないが軍事的可能性が高いと思われる技術分野に対する研究支援や研究者の囲い込みが行われていった。この活動によって戦時中における秘匿性の高い軍事計画に親衛隊が関わるようになった。
しかし国防軍は親衛隊の軍隊化を徐々に警戒するようになりはじめた。国防軍は特務部隊勤務を国防軍勤務相当であることを認めたが、1938年8月17日のヒトラーの指令が出されるまで髑髏部隊や親衛隊士官学校については国防軍勤務相当とは認めなかった。兵員補充についても国防軍から常に圧力があり、マスメディアを通じての隊員募集も国防軍から禁止されていた。そのため特務部隊隊員数は1935年1月に約5000名、1935年4月に約7600名、1936年夏に約9200名と小さな伸びにとどまっている。親衛隊の国境部隊も1937年10月に国防軍の圧力により解散させられている[81]。国外諜報活動をめぐっても国防軍のアプヴェーアと親衛隊のSDに争いがあった。
1938年に入り、ブロンベルクの妻の売春婦疑惑と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュの同性愛疑惑が浮上した。これが原因で1938年2月4日にブロンベルクとフリッチュが罷免された(ブロンベルク罷免事件)。ブロンベルクの妻などの証言によるとこのスキャンダル事件はハイドリヒがでっち上げた策謀であったという。いずれにしてもこの事件により国防軍は政府内での発言力を低下させた。依然として軍事における主導権は国防軍が握っていたが、親衛隊の軍事への進出をある程度は黙認せざるを得ない立場に置かれた。1938年8月17日、ヒトラーは秘密指令を出し、親衛隊士官学校や髑髏部隊にも武装編成を認めた。これにより髑髏部隊は親衛隊特務部隊の重要な人材供給源となっていた。
1939年5月の演習で親衛隊特務部隊「ドイッチュラント」連隊は、ヒトラーや国防軍の軍部達も驚かせるほどの果敢な突撃作戦を見せつけた。ヒトラーは「このような突撃は親衛隊の兵士たちでなければなしえない」と称賛し、5月18日に2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。もはや国防軍も積極的反対はしなかったが、「砲兵連隊がない親衛隊特務部隊に師団編成は時期尚早」と消極的に反対したため、親衛隊特務部隊の師団編成は延期された。これを聞いたヒムラーは砲兵連隊の編成を急がせたが、1939年9月のポーランド侵攻には間に合わなかった。この戦争に動員された親衛隊特務部隊は連隊編成のまま参加し、ポーランド侵攻後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。親衛隊特務部隊3連隊はパウル・ハウサーを師団長とするSS特務師団(のち「ダス・ライヒ」師団と改称)にまとめられた。また親衛隊髑髏部隊員から抽出した髑髏師団や秩序警察の警察官より抽出した警察師団も編成された。1939年末には髑髏師団や警察師団抜きで親衛隊特務部隊の隊員数は5万6000人を超えていた[82]。
西方作戦を前にした1940年4月22日、親衛隊特務部隊は親衛隊作戦本部の司令により武装親衛隊と名称を変えている。1940年11月には「ノルト」師団(のち「ヴィーキング」師団と改称)が編成された。以降も続々と師団が編成され、大戦を通じて武装親衛隊は38個師団90万の兵力を有するまでに成長した。新兵器の優先供給を受けエリート部隊として、崩壊の危機にさらされる最前線の火消し役として国防陸軍に勝る働きを見せることとなる。しかし、実際の戦闘訓練を十分に受けていなかったために戦死者も多かった。この傾向は特務部隊時代からでポーランド戦では国防軍の損害率が3%であったのに対して親衛隊特務部隊は8%に昇っていることからも窺える[83]。ヒムラーはこうした親衛隊特務部隊や武装親衛隊の損害率の高さについては国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるためと釈明していた。
西方戦でも勇戦した武装親衛隊だったが、やはり犠牲者が多く、1940年末頃から占領地域に住むドイツ系外国人の募集が本格化された[84]。武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である親衛隊大将ゴットロープ・ベルガーが主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層やドイツ系外国人などを盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装親衛隊に勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れに懸念があったが、ベルガーに説得された。独ソ戦の開始で戦線が大幅に拡大すると外国人の受け入れもやむなしの状況となった。武装親衛隊の中にはボスニアのイスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した(第13SS武装山岳師団)。
なお特務部隊や武装親衛隊のような軍属ではない親衛隊員は区別のために一般親衛隊と呼ばれていた。国家保安本部に代表される一般親衛隊はホロコーストの執行機関として悪名高く、終戦後、武装親衛隊のトップであるヨーゼフ・ディートリヒやハウサーらは「我々は国防軍と変わらない、国のために戦った兵士達の集団である」として一般親衛隊とはまったく別個の存在であるという主張を展開した。
しかしながら、本質的に武装親衛隊の兵力供給源は(大戦末期の外国人部隊を除けば)一般親衛隊の隊員であり、武装親衛隊の高官は一般親衛隊や警察の階級も合わせて任官していることが通例であった。特に武装親衛隊第3SS装甲師団は強制収容所の維持にあたっていた親衛隊髑髏部隊からそのまま抽出されていた。
戦局の悪化とともに親衛隊は国防軍に対して優位を確立していった。1944年2月には国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将の失脚に伴ってアプヴェーアの機能は親衛隊の国家保安本部のSDに吸収された。さらに1944年7月20日、国防軍将校らによるヒトラー暗殺未遂事件が発生するとハインリヒ・ヒムラーは国内予備軍司令官に任じられた。さらに陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊の手に移されている。
終焉
ドイツの敗戦後、ヒムラーはじめ親衛隊員たちの多くが連合軍の捕虜となった。ヒムラーは取り調べ中に自殺した。連合国による非人道的行為への追及やユダヤ人組織による復讐を恐れた親衛隊員は死亡を装ってバチカンの連絡組織やオデッサと呼ばれる支援ネットワークを通じて海外に逃亡するようになった。
中には祖国ドイツからの逃亡をもくろむUボート部隊に紛れ込んで姿をくらましたものもいたようである。
同時に、多様かつ先進的な秘密兵器開発に関わっていた親衛隊員や親衛隊所属の科学者に対し、アメリカの軍需産業による亡命支援や庇護も行われた。ヒトラーの信頼を得て、最先端の軍事研究計画の保安や情報管理を任されてきた経緯もあり、庇護を受けた彼らによってもたらされる科学情報も多かったと推察される(ペーパークリップ作戦)。
ヨシフ・スターリンの台頭に危機感をもつアメリカは、ソ連通の親衛隊員をゲーレン機関に参加させるようになった。このゲーレン機関は親衛隊員たちにとってドイツ国内に残れる最も好都合な逃げ道だった。ゲーレン機関は戦後西ドイツ政府の諜報機関BNDとなった。
一方、アドルフ・アイヒマン、ヨーゼフ・メンゲレ、エーリヒ・プリーブケ、エドゥアルト・ロシュマンなどソ連通ではない戦犯たちはナチ・ハンターやモサドの追跡からかいくぐるために外国へ逃げるしかなかった。親独的なアルゼンチンやその他ラテンアメリカ諸国、またアロイス・ブルンナーのように反イスラエルの立場を取るシリアなどアラブ諸国に渡っていった者もいる。これらの中には現地の治安・諜報機関の養成に関与した者もいれば、完全に消息不明になった者もいる。
組織
中央組織
親衛隊の中央組織は時期によって変遷があるが、基本的には本部(Hauptamt) が置かれ、その下に各部署が置かれる形になっていた。ヒムラーが全ドイツ警察長官、ドイツ民族性強化国家委員、内相などの国家の役職を兼任するようになると国家機関も親衛隊の機関として含まれるようになった。最終的には12の本部が存在した。
親衛隊全国指導者個人幕僚部
親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer SS、略称Pers,Stab RfSS)は、1936年にカール・ヴォルフSS少将(当時。後に大将)の下にあった親衛隊司令部が改組されて誕生した。1939年に本部 (Hauptamt) に昇格している[85]。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの個人的な幕僚達で構成された部である。長官は一貫してカール・ヴォルフSS大将が務めた。ヴォルフはヒムラーとの関係を悪くして1943年にイタリアへ送られているが、親衛隊全国指導者個人幕僚部長官の地位は敗戦まで保持している。アーネンエルベや生命の泉協会などの親衛隊組織が親衛隊全国指導者個人幕僚部の傘下に置かれていた。親衛隊名誉指導者もこの部の下に配置されていた。
親衛隊本部
親衛隊本部(SS Hauptamt、略称SS-HA)はもともとSDを除くすべての親衛隊機関の事務を担当していた。人事に財政にとその職務は広範囲に及んだ。武装親衛隊の前身である親衛隊特務部隊や強制収容所の警備部隊親衛隊髑髏部隊ももともとこの本部の傘下に置かれていた。しかし親衛隊本部の仕事はあまりに膨大であったため、この本部からいくつかの事務が切り離されて3つの本部(親衛隊作戦本部、親衛隊人事本部、親衛隊経済管理本部)が独立することになった[85]。戦時中に親衛隊本部は親衛隊(特に武装親衛隊)の隊員の募集と採用を主な任務とする機関となっていた[86]。クルト・ヴィットイエSS中将 (Curt Wittje)、アウグスト・ハイスマイヤーSS大将、ゴットロープ・ベルガーSS大将が長官を務めた。
親衛隊作戦本部
親衛隊作戦本部(SS Führungshauptamt、略称SS-FHA)は1940年8月15日に親衛隊本部から分離して設置された[87]。一般SSと武装SSの司令部を傘下に入れている本部である[88]。武装SSの「総司令部」の役割を期待されて創設された。戦闘の際には武装SSは国防軍の指揮を受けたが、それ以外の際には親衛隊作戦本部の指揮下にあった。武装SSの医療や兵站は作戦本部が担っていた。隊員訓練も作戦本部が行い、SS士官学校も作戦本部により運営されていた。ハンス・ユットナーSS大将が長官を務めた。
親衛隊人事本部
親衛隊人事本部(SS Personalhauptamt)は、親衛隊の人事を管轄とした部署。親衛隊本部から人事に関する事務が切り離されて誕生した。長官はヴァルター・シュミットSS大将(Walter Schmitt)、マキシミリアン・フォン・ヘルフSS大将が務めた。このマキシミリアン・フォン・ヘルフは陸軍大佐だった人物で北アフリカで勇戦している。12本部の長官たちの中では唯一の貴族出身者にして騎士鉄十字章叙勲者である(秩序警察長官代理アルフレート・ヴェンネンベルク除く)。
国家保安本部
国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である保安警察(ゲシュタポと刑事警察)と親衛隊のSD本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラーが長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。
I局、人事局 (Personal)
局長: ブルーノ・シュトレッケンバッハSS少将、エーリヒ・エーアリンガーSS少将
II局、編制・総務・法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)
局長: ハンス・ノッケマンSS大佐 (Hans Nockemann)
III局、国内保安局 (SD-Inland)
局長: オットー・オーレンドルフSS中将
IV局、秘密国家警察局 (Geheimes Staatspolizeiamt、略称Gestapo)
局長: ハインリヒ・ミュラーSS中将
IVB4課 (ユダヤ人課)
課長: アドルフ・アイヒマンSS中佐
V局、刑事警察局 (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)
局長: アルトゥール・ネーベSS中将、フリードリヒ・パンツィンガーSS上級大佐
VI局、海外保安局 (SD-Ausland)
局長: ハインツ・ヨストSS少将、ヴァルター・シェレンベルクSS少将
VII局、世界観調査・分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)
局長: フランツ・ジックスSS少将
また国家保安本部は戦時中にドイツ占領地各地に「保安警察及びSD司令官」を設置していた。ハインリヒ・ヒムラーの設置した「親衛隊及び警察高級指導者」に対抗したものであった[70]。多くはアインザッツグルッペンの指揮官と兼務となっていた。
秩序警察本部
秩序警察本部(Hauptamt Ordungspolizei、略称OrPo)。政治警察を除いたすべての警察を指揮する秩序警察を親衛隊の本部にしたもの。長官はクルト・ダリューゲSS上級大将が務めていたが、1943年に心筋梗塞で重体になり、代わりに長官代理としてアルフレート・ヴェンネンベルク警察大将が置かれることとなった[48]。
親衛隊法務本部
親衛隊法務本部 (Hauptamt SS-Gericht) は、SS裁判所を傘下に収める本部であり、規則に反した親衛隊員の懲戒処分を決定する。長官はパウル・シャルフェSS大将 (Paul Scharfe)、フランツ・ブライトハウプトSS大将 (Franz Breithaupt)、ギュンター・ライネッケSS上級大佐(Günther Reinecke)が務めた。
ハイスマイヤー親衛隊大将本部
ハイスマイヤー親衛隊大将本部 (Hauptamt Dienststelle SS-Obergruppenführer Heißmeyer) は、政治教育を行うナポラ (Nationalpolitische Erziehungsanstalt) の監督を行う本部である。長官はアウグスト・ハイスマイヤーSS大将が務めた。
親衛隊人種及び移住本部
親衛隊人種及び移住本部(Rasse- und Siedlungshauptamt der SS、略称RuSHA)は、親衛隊員がゲルマン人種の純血を保つこと、また東方に入植させることを目的とする。1931年に創設され、1935年に本部 (Hauptamt) に昇格した。親衛隊員が結婚するためにはこの部署の許可を必要とした。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された[89]。長官は、リヒャルト・ヴァルター・ダレSS中将(当時)、ギュンター・パンケSS少将(当時)(Günther Pancke)、オットー・ホフマンSS中将(当時)、リヒャルト・ヒルデブラントSS大将が務めた。
ドイツ民族性強化国家委員会
ドイツ民族性強化国家委員会(Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums、略称RKFDV)は、1939年10月7日にハインリヒ・ヒムラーがヒトラーより「ドイツ民族性強化国家委員」に任命されたことにより設置された官庁である。親衛隊の本部のひとつとなった。ナチス・ドイツは占領した地域をドイツ化することを目指していた。そのためのドイツ人の再植民などを担当するのがこの部署であった。長官はウルリヒ・グライフェルトSS大将が務めた。
ドイツ民族対策本部
ドイツ民族対策本部(Hauptamt Volksdeutsche Mittelstelle、略称VOMI)は、東欧諸国や旧ドイツ植民地から民族ドイツ人の帰国を支援するための組織である。またドイツ人の再植民にもあたった。この面においてドイツ民族性強化国家委員会と似た役割を担うが、こちらは特に再植民の技術面や組織面を担当し、一方、民族性強化国家委員会の方は計画と執行を担当した[90]。長官はヴェルナー・ローレンツSS大将が務めた。
親衛隊経済管理本部
親衛隊経済管理本部(Wirtschafts- und Verwaltungshauptamt、略称WVHA)は、親衛隊の財政を管理する本部。長官はオズヴァルト・ポールSS大将。前身は1939年6月に親衛隊本部から独立する形で創設された「経済および管理本部」(Hauptamt Verwaltung und Wirtschaft) と「予算および建設本部」(Hauptamt Haushalt und Bauten) である。1942年2月1日にこの2つの本部が統合されて誕生したのが親衛隊経済管理本部である。親衛隊の企業の経営の監督や強制収容所の運営の監督などを行った。また大戦末期にはV2ロケットの生産の監督は陸軍から親衛隊経済管理本部C局のハンス・カムラーSS大将の下に移されている。親衛隊経済管理本部は以下のように編成されていた。
A局、部隊管理 (Truppenverwaltung)
局長: ハインツ・ファンスラウSS少将 (de:Heinz Fanslau)
B局、部隊経済 (Truppenwirtschaft)
局長: ゲオルク・レーナーSS中将 (Georg Lörner)
C局、建設 (Bauwesen)
局長: ハンス・カムラーSS大将
D局、強制収容所運営 (Konzentrationslagerwesen)
局長: リヒャルト・グリュックスSS中将
親衛隊髑髏部隊(1942年以前は親衛隊本部、親衛隊作戦本部の管轄)
W局、経済活動 (Wirtschaftsunternehmungen)
局長: オズヴァルト・ポールSS大将、後にアウグスト・フランクSS大将 (August Frank)
地方組織
詳細は「親衛隊地区」および「親衛隊及び警察指導者」を参照
親衛隊はドイツ全土に地区区分を行い、その地区ごとに指導者 (Führer) を任命して親衛隊の地方組織の管理をさせた。親衛隊の地区区分は、もともと突撃隊 (SA) にならって親衛隊集団 (SS-Gruppen) の下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) を置く形で区分されていた。しかし1933年に親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) が新設され、その下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) が置かれる形に変更された。それぞれの親衛隊地区には親衛隊連隊 (SS-Standarten)、親衛隊大隊 (SS-Obersturmbanne)、親衛隊中隊 (SS-Sturmbanne) が属していた。こうした親衛隊地方組織は中央組織から監督と指令を受けた。
親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) は1933年の段階で12個存在していた。1938年には14個になり、さらに1941年には19個置かれた[91]。1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者」(Höhere SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)をドイツの各地域に設置したが、親衛隊上級地区の指導者がこれを兼務するのが通例であった。「親衛隊地区指導者」は一部を除いてドイツ国内にのみ設置されていたが、「親衛隊及び警察高級指導者」は第二次世界大戦中のドイツ国防軍占領地域にも設置されていた。
親衛隊員について
親衛隊員の入隊の流れ
親衛隊の採用基準は特にナチス党政権掌握後から第二次世界大戦開戦前までに厳しかった。親衛隊員となるためにはまず親衛隊人種及び移住本部 (RuSHA) の人種委員会の選考を通る必要があった。人種委員会には以下のような人種観があった。
純粋北方人種
圧倒的に北方人種であるかファーレン人種
基本的に先の2つの人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種
東方(=東欧)系。もしくはアルプス系混血
ヨーロッパ人以外の外人種との混血
このうち親衛隊員として選考対象になりうるのは1と2、少なくとも3までとされていた。さらに身長が最低170センチ(親衛隊特務部隊は更に4センチ加算)、上限30歳(特務部隊は23歳)、体格といった基準があった。血統が1650年辺りにまでアーリアの祖先を遡れる事、などの基準もあったが、この基準は厳しすぎたため、1936年に「1800年」に引き下げられ、さらに1937年には二代前まで引き下げられている。
親衛隊ではこうした人種的、肉体的採用基準のみが重視され、一般的な組織における採用基準となりやすい知的能力については何の基準も存在しなかった。採用試験に合格した後も親衛隊候補生 (SS-Anwärter) として訓練と試験が行われた。11月9日のミュンヘン一揆記念日に襟章なしの親衛隊制服の着用を許され、志願兵として認められた。続いて1月30日のナチス党政権掌握記念日に仮隊員証が授与された。そして4月20日の総統誕生日に正式に入隊宣言とともに襟章と正式な隊員章が授与された。その際の入隊宣言は次の通りであった[92][93]。
この後、10月1日の正式入隊日までにドイツ国家スポーツ記章 (Deutsches Reichssportabzeichen) を授与され、さらに教義問答を受ける必要があった。次のような問答であった[94]
10月1日の入隊後、国防軍での訓練期間を経ることになる。国防軍での成績が良好の場合、一か月以内に親衛隊に編入された。二度目の11月9日には自分と自分の子孫が1931年12月31日に制定された親衛隊の結婚条例(親衛隊全国指導者もしくはRuSHAが許可した「人種的に問題がなく、また遺伝的な病気のない健康的血統」の女性とのみ結婚すること)を守ることを宣誓した。この宣誓をした隊員にはようやく「Meine Ehre heißt Treue(忠誠こそわが名誉)」の文字の入ったSS短剣が授与されるのであった。
若き幹部達
親衛隊の人事規則には親衛隊中将以上には原則として45歳以上、親衛隊准将は40歳以上、親衛隊大佐は35歳以上、親衛隊少佐は30歳以上という年齢制限が定められていた。しかし実際にはこの年齢より若くしてその階級に達している者が多い。1939年1月時点で親衛隊大将は11名いたが、うち6名は44歳以下であった。同じく親衛隊中将は23名いたが、うち12名が44歳以下であった[95]。他の軍隊組織と比較すればナチス親衛隊の幹部の若さは群を抜いていた。
最も若くして昇りつめたのはフリッツ・ヴァイツェル (Fritz Weitzel) という若い古参党員である。彼は1931年に27歳で親衛隊中将となり、1934年に30歳で親衛隊大将に昇進している。なお親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーも28歳という若さで親衛隊全国指導者となっている。
世代別にみると1894年から1900年生まれが親衛隊大将の半数以上を占めており、最も多いのは1896年生まれである[95]。以下は主な親衛隊大将の年齢に関する表である。
親衛隊員の入れ墨
親衛隊員は医療識別票として左の腋下に血液型を入れ墨した(SS血液型刺青(英語版) )。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想のためである。ただし、その入れ墨は親衛隊員であった動かぬ証拠となり、戦後、刑事責任追及のための身柄確保に役立つこととなった。現在でもナチ・ハンターはこの入れ墨及びそれを消した瘢痕を犯人性判断のための最大の間接事実としている。
旧王族・貴族層の親衛隊員
親衛隊にはドイツ帝国領邦の旧王族や貴族が多数参加していた。王族・貴族層は親衛隊の中に決して少なくなく、1938年の時点で親衛隊大将の18.7%、親衛隊中将の9.8%、親衛隊少将の14.3%、親衛隊大佐の8.4%を占めていた[96]。たとえば下のような者達がいた。
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ホーヘンツォレルン=エムデン王子 (Franz Joseph Prinz von Hohenzollern-Emden)(ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家出身)
カール・クリスチアン・ツア・リッペ=ヴァイセンフェルト王子 (Karl Christian zur Lippe-Weißenfeld)(リッペ家出身)
ゴットフリート・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン伯爵(ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクの孫)
オイゲン・フォン・クウォード=ヴァイクラート=イスニー伯爵 (Eugen Graf von Quadt zu Wykradt und Isny)
ハンス・ヨアヒム・フォン・クリュードナー男爵 (Hans-Joachim Freiherr von Kruedener)
ハンス・アルビン・フォン・ライツェンシュタイン男爵 (Hans-Albin Freiherr von Reitzenstein)
クーノ・フォン・エルツ=リューベナッハ帝国男爵及び領主 (Kuno Reichsfreiherr und Edler Herr von und zu Eltz-Rübenach)
思想
人種観
ヒトラーは『我が闘争』の中で左翼政党、金融資本、国民経済空洞化、議会主義、自由主義、平和主義など「ドイツ労働者を墜落させる」要素はすべてユダヤ人の世界陰謀であり、全ての歴史は「文化創造人種アーリア人VS文化破壊人種ユダヤ人」という文脈で捉えられると主張していた[97][要文献特定詳細情報]。
親衛隊もこのヒトラーの思想を受け継いでいた。親衛隊の人種理論を立てていたリヒャルト・ヴァルター・ダレは「歴史上の偉大な帝国や文明はほとんどが北方人種によって作られ、維持されてきた。これらの帝国が滅びたのはそれを作った北方人種の血が守られなかったためだ」と主張し、北方人種の血を守るために有害なユダヤ人、フリーメーソン、キリスト教会などを排除する必要性を訴えた[98]。
親衛隊員の世界観教育ははじめ親衛隊人種及び移住本部が所管していたことから人種教育に力を入れていたことが分かる。しかし人種関連の講義は隊員から人気がなく、形骸化していったため、世界観教育は後に親衛隊本部の所管となった[99]。
宗教観
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊の隊員をキリスト教から切り離し、古代ゲルマン異教思想を持たせることに努めた。婚姻条例において隊員の結婚式をキリスト教会で行うことを禁じ、親衛隊の部隊において結婚式を執り行わせた。その結婚式では上官の親衛隊将校が牧師の代わりを務めた[100]。またクリスマスを祝う習慣を無くすべく、冬至祭(ユール)を祝うことを奨励した[101]。
1934年7月にはフン族の攻撃を防いだと言われるヴェーヴェルスブルク(英語版)の古城が親衛隊に購入された。ヒムラーはこの城に『アーサー王物語』や『円卓の騎士』に強い影響を受けた大改築を行い、ここをゲルマン異教の儀式の中心地にしようとした[102][103]。親衛隊幹部はこの城のヒムラーとともに数時間の瞑想を強要されたという[104]。1935年にはヒムラーの主導で「ユダヤ=ボルシェヴィキから北方インド=ゲルマン人種を守るための研究機関」としてアーネンエルベが創設された。ここではヒムラーの異教思想を科学的に実証しようと試みられた[105]。
しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されていった。1935年には婚姻条例に反した隊員は親衛隊から追放するとしていたが、1937年には人種条項に反した結婚でなければ、それ以外の婚姻条例に違反していたとしても必ずしも追放されないと修正された。さらに1940年には人種条項以外の規定のために追放された隊員は人種条項に反していなければ再入隊が認められるとも定められた[101]。
一般親衛隊は3分の2が変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリヒのように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[101]。
ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、ヨーゼフ・ゲッベルスは1935年8月21日の日記に「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている[106]。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった[107]。
制服
詳細は「制服 (ナチス親衛隊)」を参照
親衛隊の制服はそのデザインのスマートさから、世界中のミリタリーマニアに非常に人気の高い制服としても知られる。ただし、多くの親衛隊員は戦犯追及される事を怖れ、連合国へ降伏する時に親衛隊の制服を廃棄して国防軍の制服に着替えたので、現存する本物は極めて少数であり、現在入手可能な物はほとんどが戦後に外国で復刻されたレプリカである(ドイツは国内でのナチ賛美に繋がる物品の製造や販売を厳しく規制している。違反した場合は民衆扇動罪で処罰される。外国からの輸入も例外ではない)。
親衛隊は1932年まで突撃隊と同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツはSAと同じで褐色だったが、ケピ帽やネクタイ、ズボンなどは黒を基調とした[108][109]。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽に髑髏(トーテンコップ)の徽章を入れていることである[109][110]。髑髏は最初期からずっと親衛隊の徽章であり続けた[111][要文献特定詳細情報]。ドイツにおける髑髏は、もともとプロイセン王国の第1近衛軽騎兵連隊(de)と第2近衛軽騎兵連隊(de)が「死を恐れぬ軍人」という意味で採用した事に始まる。以降ドイツにおいて髑髏はエリート部隊の意味合いを持つようになった[112]。当初親衛隊は下顎がない伝統的な髑髏を使用していたが、1934年にドイツ陸軍が機甲師団を編成し、戦車兵の制服の襟章に親衛隊の物と同じプロイセン時代からの髑髏を使用するようになったため、混同されないよう親衛隊の髑髏の形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった[112][113]。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。
1932年7月7日に制服が大きく改訂され、親衛隊の制服として有名な「黒服」が定められた。フラップポケットが上下に2つずつ4個付いた黒い背広服を着用し、右肩のみに肩章があるのが特徴的であった。制帽はケピ帽から軍帽型の帽子に変更されたが、髑髏の徽章は引き続き使用された[114]。「黒服」のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の近衛軽騎兵である。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。
1937年に親衛隊特務部隊(武装親衛隊)と親衛隊髑髏部隊用にドイツ陸軍の野戦服を参考にしてフィールドグレーの野戦服が導入された。これは詰襟でも開襟でも着ることができた[115]。
1938年から一般親衛隊の本部に勤務する常勤隊員用に「フィールドグレーの制服」が導入された[116]。「黒服」と大体同型であるが、「黒服」が右肩にのみ肩章があるのに対して「フィールドグレーの制服」は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった[117]。
親衛隊の制服は右襟の徽章とカフタイトル(袖章)でもって所属部隊や所管などを示し、左襟の徽章で階級を示した(ただし親衛隊大佐以上の階級の者は左右両襟は対称の柏葉による階級章になっており、襟章は階級のみを示すものだった)。肩章もあったが、一般親衛隊においては肩章は下士官兵卒、尉官、佐官、将官という大雑把な区別をするための物であり、正確な階級は襟章で示した。しかし1938年以降の親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては肩章でも階級を示していた[118]。
脚注
注釈
^ 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧エアハルト海兵旅団とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。
^ グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。
^ V2ロケットの開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。
出典
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関連項目
ウィキメディア・コモンズには、親衛隊 (ナチス)に関連するカテゴリがあります。
ダス・シュヴァルツェ・コーア - ナチス親衛隊の機関紙
レーベンスボルン - ナチス親衛隊が設置した母性養護ホーム・福祉機関
親衛隊全国指導者名誉長剣 - ナチス親衛隊員に下賜された剣
ブルグント騎士団国 - 親衛隊によって計画された国。
最終更新 2024年3月25日 (月) 06:23
ー ー ー
親衛隊階級
親衛隊階級では、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の隊員が使用していた階級及び階級章について記述する。
SS階級の由来
親衛隊の階級は、その母体である一般親衛隊の初期の部隊編成が由来である。もともと一般親衛隊は上位組織の突撃隊に倣って
親衛隊集団(SS-Gruppe)
親衛隊旅団(SS-Brigade)
親衛隊徒歩連隊(SS-Fuß-Standarte)
親衛隊大隊(SS-Sturmbann)
親衛隊中隊(SS-Sturm)
親衛隊小隊(SS-Schar)
親衛隊分隊(SS-Rotte)
という部隊編成をとっており、それぞれの指揮官は「指導者(Führer)」と呼ばれた。親衛隊集団なら「親衛隊集団指導者(SS-Gruppenführer、親衛隊中将)」となる。
これらがやがて部隊編成上の呼称ではなくなり階級とされたものが親衛隊の階級制度である。親衛隊集団と親衛隊旅団はそれぞれ親衛隊上級地区(SS-Oberabschnitt)と親衛隊地区(SS-Abschnitt)に置き換えられて部隊編成としては廃止されたが、親衛隊集団指導者(親衛隊中将)と親衛隊旅団指導者(親衛隊少将)は階級名として残った。
なお「親衛隊上級集団指導者(SS-Obergruppenführer、親衛隊大将)」の階級が生まれたのは1934年の長いナイフの夜の後、ヒムラーの親衛隊全国指導者が突撃隊幕僚長と同格になった後である[1]。
階級章
親衛隊の階級は襟章と肩章によって見分けられた。襟章の導入は1929年8月、肩章の導入は1933年5月である[2]。
もともと親衛隊の肩章は下士官および兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物で、デザインは突撃隊の肩章が原型で黒と銀色の配色からなった。(なお、一部の一般SS高官を除いて一般SS隊員では最後まで用いられていた)[3]。ところが1938年3月にはSS特務部隊(武装SS)においては陸軍型の肩章が導入され、肩章での階級が細分化されて示されるようになり、後に一般SSでも用いられるようになった[4]。
1934年の長いナイフの夜事件の後に階級章にやや変更が加えられ、さらに1942年4月には親衛隊上級大将(SS-Oberst-Gruppenführer)の階級が追加されたので将官の襟章の階級章に大きな変化が生じた[5]。
一般SSと武装SSの階級の違い
親衛隊二等兵と親衛隊一等兵と親衛隊少将以上の将官階級において一般SSと武装SSで違いがあった。また武装SSには一般SSには存在しない親衛隊特務曹長(SS-Sturmscharführer)の階級が存在した。
親衛隊二等兵は武装SSでは「SS-Schütze(SS狙撃手ないしSS銃兵)」、一般SSでは「SS-Mann(SS隊員)」となる。親衛隊一等兵は両方ともそれに接頭辞「Ober-(上級)」が付く。将官の階級は武装SSではドイツ国防軍陸軍と同じ階級を用いていた。武装SSの大将は「General der Waffen-SS」となり、これは武装SSが陸軍と連携する上での関係からである。なお、武装SSの将官は常に一般SSの将官も兼ねており[6]、武装SS大将の場合、階級は「親衛隊上級集団指導者および武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)」となる。さらにナチス・ドイツにおいて、警察はSSとほぼ一体だったので警察の将官の階級は一般SSと武装SSと警察の3つの階級の肩書きをもっていることが多かった。例えば「親衛隊上級集団指導者ならびに武装親衛隊および警察大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS und Polizei)」といった具合である。
階級一覧
1934年–1945年
1925–1929
腕章のストライプで階級を区分した。
全国指導者 (Reichsführer) ストライプ3個
全国指導者相当 (Reichsleiter)
上級指導者 (Oberführer) ストライプ2個
大管区指導者相当 (Gauleiter)
大隊指導者(Staffelführer) ストライプ1個
管区指導者相当 (Kreisleiter)
兵卒(Mann) ストライプなし
参考文献
D.S.V.フォステン, R.J.マリオン 著、芳地昌三 訳『武装親衛隊ミリタリー・ルック 制服・制帽・装備から階級章まで』サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス別巻2〉、1972年。ASIN B000J9KHD2。
山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977。
ロビン・ラムスデン(en) 著、知野龍太 訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房、1997年。ISBN 978-4562029297。
『WWII ドイツ軍兵器集 〈火器/軍装編〉』ワールドフォトプレス〈Wild Mook 39〉、1980年。ASIN B000J8APY4。
出典
^ 武装SSの防寒着(迷彩スモックなど)に用いられた。防寒着の着用によって徽章類が隠れ、階級の判別が付かなかったので、新たに袖章が防寒着専用の階級章として採用された。なお、肩章の見える通常の野戦服やオーバーコートには用いられていない。
^ 但し、海軍の代将(こちらは佐官である上、袖章が将官と同様であるものの、大佐と同じ肩章が使用される)に相当するとも言われている。
^ SS伍長、SS特務曹長、SS士官候補生を除く古参のSS下士官が着任した。専用の袖章は2本の下士官用リッツェを服の両袖口に用いた。
関連項目
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武装親衛隊・Waffen-SS
武装親衛隊(ぶそうしんえいたい、ドイツ語: Waffen-SS)は、
国民社会主義ドイツ労働者党の親衛隊における武装組織である。
国民社会主義ドイツ労働者党 > 親衛隊 (ナチス) > 武装親衛隊
創設されたばかりの第1SS師団と閲兵するヒトラー(1935年12月)
創設 1933年
廃止 1945年
所属政体 国民社会主義ドイツ労働者党
所属組織 親衛隊
人員 約90万人以上[1]
担当地域 ヨーロッパ
最終位置 ドイツ国
主な戦歴 第二次世界大戦
概要
アドルフ・ヒトラーが政権奪取後、国家唯一の兵器の保有・携帯を許される組織(Waffenträger der Nation)であるドイツ国防軍の反逆、あるいは国内の騒乱から自身及び党を守らせるために設けた、軍でもなく警察でもない、政治的に信頼できる親衛隊員から成るナチ党の武装組織である。つまり国家の軍隊ではなく、党もしくはヒトラー個人の私兵である。国防軍とは異なり基本的に志願兵制であったが、後の外国人義勇兵師団や囚人部隊、また初期からある師団でも兵員不足により、半ば強制的に入隊させられる場合もあった。
当初、入隊にあたってはヒトラーのゲルマン民族に対する優生思想やナチズムに基づき厳しい入隊基準が設けられ、ユダヤ人、ポーランド人などの非ドイツ系民族や容姿の劣る者は入隊をゆるされなかった[2]。親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーが述べたように、武装親衛隊第一の目標は、ユダヤ人や、ナチスのイデオロギー上劣っていると見做された人種との闘いであった。しかし、1940年以降からは当初の理念に反し外国籍のドイツ系兵士や外国人兵士が半分以上を占めるに至った[3][4]。 戦後になると、武装親衛隊はホロコーストや虐殺などの戦争犯罪に携わった犯罪組織であると見なされるようになった。ニュルンベルク裁判においては武装親衛隊を含む全ての親衛隊組織は「犯罪組織」であると宣告された。
歴史
親衛隊の武装組織の発展は、1933年、ヨーゼフ・ディートリヒが指揮するヒトラー個人の警護部隊「第1SS装甲師団ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー」(Leibstandarte SS Adolf Hitler)に始まり、1935年、パウル・ハウサーが「親衛隊特務部隊」の名称で部隊編制を許され、テオドール・アイケも強制収容所監視部隊のSS髑髏部隊から1939年にSS髑髏師団を編制する。しかし、「第二国軍」への伸張を憂慮する陸軍に配慮して1942年まで軍事予算ではなく、内務省の警察予算で賄われていた。軍事的な発言権を求める親衛隊全国指導者(親衛隊の長官にあたる)であるヒムラーは、第二次大戦開戦時で僅か三個連隊の親衛隊特務部隊をポーランド戦に出動させた。
フランスに大勝した後、1940年11月上旬に親衛隊の武装部隊は「親衛隊特務部隊」から公式に「武装親衛隊」の新しい統一名称の下、「パレードするだけのアスファルト兵士」から、実力を伴う「野戦部隊」として認知された。
1943年頃になると戦況が悪化し始め、現地の外国人が応募か徴兵され始めた。
武装親衛隊は特に東ヨーロッパにおける残虐行為に積極的に関わり、ニュルンベルク裁判において「犯罪組織」として断罪されている。そのため戦後、武装親衛隊退役者は国防軍退役者と異なり軍人年金支給等が拒絶されており、ドイツに留まった元武装親衛隊高官らを中心に近年まで「武装親衛隊はあくまでも軍人として行動したのであって、親衛隊とは無関係である」として軍人年金を要求する運動が行なわれていた。
国外から一見すると武装親衛隊の退役者は口をつぐんで、みだりに告白することを避けていることからすでに完全に消滅したものと思われている。しかし元来非常に政治的イデオロギーの強い組織であったため各退役者の政治への関心が強く、旧武装親衛隊員相互扶助協会(HIAG)などの団体が主宰する催しがドイツ中で行なわれていた。HIAGは1992年に解散したが、それまでは連邦憲法擁護庁によって監視団体の一つに指定されていた。
成立に関与した古参党員
武装親衛隊の成立には、ヒムラーの他、3人の古参党員がそれぞれに関わっていた。
ゼップ・ディートリヒ
ヒトラーは、政権獲得の1933年に、首相官邸に立哨する衛兵や外国の賓客を迎える儀仗兵部隊 (Stabswache Berlin、ベルリン幹部護衛隊) を編成せよと、“ゼップ”ヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊中将に命じた。
選抜の条件は、政権獲得前から党員で、にわかナチスでなく、身長1.80m以上、年齢25歳以下、心身ともに健康で、政治的に信頼できる親衛隊員。同年3月17日に選抜された117名がベルリンに集められ、ヒトラーにのみ忠誠を誓う特別部隊として訓練が開始された (SS-Sonderkommando Berlin、ベルリンSS特務隊)。
この後、ヒトラーの立つところには、必ず黒色の制服を着た屈強な親衛隊員が見られるようになる。同年9月3日のナチ党大会にて同部隊は、Adolf-Hitler-Standarte (アドルフ・ヒトラー・シュタンダルテ)、 同年11月9日のミュンヘン一揆10周年記念式典で Leibstandarte Adolf Hitler (ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー, 略号:LAH)、翌年1934年4月13日に最終的に Leibstandarte SS Adolf Hitler (ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー,略号:LSSAH)と命名され、ヒトラーの名を冠した別格の近衛部隊と広く認知される。このエリート部隊は総統官邸の衛兵 (Wachbataillon Berlin) から始まり、1939年に自動車化歩兵連隊となり、1942年SS装甲擲弾兵師団 LSSAHに格上げされ、1943年には武装親衛隊の中でも最強と言われる第1SS装甲師団 LSSAHへ発展する。連隊時代の LSSAH は、ラインラント進駐、オーストリア併合、ポーランド戦、フランス戦において自動車化された利点を発揮して目覚ましい働きを見せた。
名称
Leibstandarte の「Leib(ライプ)」とは身体、個人を意味する。用法としては「Leibarzt(ライプアルツト)」「Leibwache(ライプヴァッヘ)」などがあり、それぞれ「専属医師」「専属ボディーガード」と訳せ、対象となる人物から本当に身近な存在を意味する。「Standarte(シュタンダルテ)」はナチ党の編制単位である。例えば、SS-Standarte、SA-Standarte などと用いられる。連隊相当の兵力規模であるが、フランス語からの借用語である陸軍の用語「Regiment」を避けている。ドイツ語の持つこのあたりのニュアンスは薄れるが、敢えてLeibstandarte を訳せば、「ヒトラー個人のための連隊」となる。
Standarte は他に方形の小さな旗章を指す場合がある。このことから誤って「親衛旗」と訳される場合がある。旗章としてのシュタンダルテは、ナチ党大会で旗手が垂直に捧げ持つ70cm 四方の Deutschland erwache(ドイツよ、目覚めよ)と刺繍された赤い布地の旗章が代表的である。特徴は黄金の鷹が鉤十字を掴む造形が頭頂部に施されている。同様な旗章は突撃隊も保持する。違いは、銘板の色が親衛隊は黒色、突撃隊は赤色である。武装親衛隊の旗章については de:Truppenfahne が詳しい。
警護部隊
ヒトラー個人を警護する部隊としては他に次のものが設けられた。
総統警護隊 Führerbegleitkommando, FBK
(ヒトラーの身辺警護及びベルクホーフや各地の総統大本営などのヒトラーの移動に随行する部隊 1932年創設)
国家保安局 Reichssicherheitsdienst, RSD
(刑事警察出身の親衛隊員から成る警護隊 1935年創設)
(陸軍の衛兵部隊)
ベルリンの総統官邸の警備は Wachbataillon Berlin RSD FBK FBB が出入口と区域を分担した。
パウル・ハウサー
1935年にヒトラーは、陸軍から独立した自由裁量で運用できる武装組織である親衛隊特務部隊の編成を陸軍に認めさせる。1936年に退役陸軍中将パウル・ハウサーが親衛隊特務部隊総監 (Inspekteur der SS-Verfügungstruppen) に任じられ、彼は指揮官不足を解消するために親衛隊独自の士官学校 (Junkerschule Bad Tölz) を設ける。
また、ナチ党政権への移行の政治的不安定な時期に対処できるように主要都市に設けられた党の治安部隊(Politische Bereitschaften) を整理、親衛隊特務部隊としてミュンヘンに ドイチュラント連隊 (SS-Standarte Deutschland)、ハンブルクにゲルマニア連隊 (SS-Standarte Germania) を編成した。1938年には併合されたオーストリアのウィーンからデァ・フューラー連隊 (SS-Standarte Der Führer) が加わる。
大戦とともにフランス国境防衛の予備軍として配置されたデァ・フューラー連隊を除く、親衛隊特務部隊はポーランド戦に出陣した。ポーランド戦後の1939年10月にこれら三個の親衛隊特務部隊が統合され、SS特務師団が編成され、フランス戦に活躍した。この師団から後にゲルマニア連隊が引き抜かれ、これを核に新しくヴィーキング師団が編制された。このようにSS特務師団は武装親衛隊の幹となって、次々と枝葉を広げたと自負している (Stammdivision der Waffen-SS)。自身も最終的には第2SS装甲師団 ダス・ライヒにまで発展した。
テオドール・アイケ
政権獲得後に反体制派を収容する強制収容所が数多く建てられ、テオドール・アイケは、1933年に収容所監視するSS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände, 略号:SS-TV)を立ち上げる(Inspekteur der Konzentrationslager und Leiter der SS-Totenkopfverbände, 強制収容所総監兼SS髑髏部隊指揮官)。彼は、新天地を求め、SS髑髏部隊出身者から志願者を募り、SS髑髏師団を指揮し、フランス戦を皮切りに各地を転戦する。
彼は東部戦線のデミャンスク包囲戦で凄まじいまでの活躍を見せる。友軍から切り離され補給は空輸のみ、という状況にもかかわらずアイケと髑髏師団は僅か1個師団の戦力で度重なるソ連軍の攻撃を跳ね返してデミャンスクを見事守りきる事に成功する。アイケは柏葉付き騎士鉄十字章を、デミャンスク防衛に参加した全将兵がデミャンスク防衛章を与えられる。だが1943年2月にアイケは行方不明になった中隊を捜索中に乗機が撃墜され、戦死する。
警察師団
親衛隊員ではない一般警察官の秩序警察からも志願者が募られ、1939年9月18日警察師団 (Polizei-Division) が編成され、翌年のフランス戦に出撃した。警察師団の武装親衛隊への正式な編入は少し遅れて1942年のことである。
LSSAH、SS髑髏師団、SS特務師団はフランス戦の試練に耐えて、1940年に「武装親衛隊」という統一名称が与えられた。
志願兵制
武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。義務兵役年齢に達した青年男子は居住する軍管区に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、完全志願制であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで募集活動する必要があった。初期においては血統、体力や政治的な信条で入隊の可否を決めており、出身階層や学歴は考慮されていなかった。このため戦前に入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベルの学校教育しか受けていない者たちであった。
武装親衛隊の制服は体裁が良いと若者には評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、兵役負担を軽減するためにも武装親衛隊に志願する若者が多くいた。1999年にノーベル文学賞を受賞した作家ギュンター・グラスは2006年になって、1944年当時17歳で志願し第10SS装甲師団の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して、世間の耳目を集めた。
このような志願制度は、結果的には兵役対象者を武装親衛隊に奪われることになるため、しばしば国防軍陸軍の徴兵部門との軋轢を起こした。このため、親衛隊は血統基準などの条件を緩和し、ドイツ国籍保持者からの採用を減らして外国人からも広く薄く志願者を募るようした。また、身体的形質や出自および政治的思想などよりも人格・識見・教養などといった個人の内面的な資質を重視するようになった。それによって、問題を起こさないと見られる外国籍のドイツ系人をはじめ、ゲルマン系のオランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人、スラブ人、さらにはイスラム教徒までも対象を拡大した。このような改革によって、90万人以上と言われる武装親衛隊の総兵力の60%は外国人部隊であった。
第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲントは下級兵士の大半が未成年(少年兵)で、しかもこれが初陣であるにもかかわらず、カナダ軍の猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気にノルマンディーから内陸に侵攻する予定だった連合軍は、その計画を大きく修正する事を余儀なくされている。しかし、その一連の戦いで同師団は戦死者約4000名、戦傷病者約8000名、初代師団長が戦死、二代目も捕虜になるという大損害を被っている。武装親衛隊における1個師団の兵員数が通常1万4000名から1万6000名であり、その人数には各種の後方支援要員も含まれるということを考えると、部隊を構成する将兵のほとんどが最前線と後方とを問わず死傷するという凄まじいものであった。ハンス・ペーター・リヒターがユーゲント且つ従軍者のひとりで、3部作自叙伝の最終巻「若い兵士のとき」で当時の様子を綴っている。
また、ベルリンの戦いで最後まで国会議事堂に立て篭もって戦った部隊はノルトラント師団やフランス人の義勇兵達だった。最後まで戦い抜いた理由の一部は彼らが勇敢だったからだけではなく、ここで降伏しても故国に送還されて反逆者として処刑されるという絶望感もあったのではないかと思われる。実際外国人義勇兵の多くは戦後祖国で冷たく扱われ、裁判にかけられた。自由フランス軍に引き渡された義勇兵のように処刑された将兵も少なくない。
著名な武装親衛隊員
フェリックス・シュタイナー
親衛隊特務部隊「ドイチュラント」連隊指揮官。親衛隊大将
クルト・マイヤー
パンツァー・マイヤーの異名で知られる戦車部隊の指揮官。第12SS装甲師団指揮官。親衛隊少将。
ヴィルヘルム・モーンケ
第1SS装甲師団指揮官。ベルリンの戦いで官庁街防衛司令官を務めた。親衛隊少将。
ヨアヒム・パイパー
第1SS装甲師団隷下にあるパイパー戦闘団の指揮官。親衛隊大佐。
ヨハネス・ミューレンカンプ
第5SS装甲師団「ヴィーキング」の戦車隊司令官。親衛隊大佐。
ミハエル・ヴィットマン
第1SS装甲師団(後に第101SS重戦車大隊第2中隊長)所属の戦車兵。親衛隊大尉。
エルンスト・バルクマン
第2SS装甲師団所属の戦車兵。親衛隊曹長。
エルンスト=ギュンター・シェンク
軍医。ヒトラーの内科主治医。親衛隊大佐。
アルトゥーレ・シルガイリス
ラトビア人義勇兵部隊指揮官。親衛隊上級大佐。
オットー・スコルツェニー
コマンド部隊の指揮官。ベニート・ムッソリーニ救出などで活躍。親衛隊大佐。
ルドルフ・バンゲルスキス
ドイツへ亡命した白系ロシア人。ラトビア人義勇兵部隊指揮官。親衛隊中将。
オスカール・ディルレヴァンガー
囚人部隊ディルレヴァンガー旅団(後に第36SS武装擲弾兵師団として再編)の指揮官。親衛隊上級大佐。
ブロニスラフ・カミンスキー
反共主義のロシア人、ベラルーシ人で構成されたカミンスキー旅団の指揮官。親衛隊少将。
ギュンター・グラス
ノーベル賞受賞作家。第10SS装甲師団所属の戦車兵であったことを2006年に告白し、ドイツ国内やポーランドにて強い批判を受けた。
ハインリヒ・ボーレ(ドイツ語版)
オランダ系ドイツ人。武装親衛隊に志願し、オランダ人レジスタンス殺害に関与。2010年3月、ドイツの裁判所で終身刑の判決を言い渡された。高齢のため翌11年に保釈され、2013年死去。
戦争犯罪
ほぼすべての武装親衛隊だけでなく義勇師団を含む部隊は、ドイツ第三帝国の交戦国において様々な戦争犯罪に関与したと考えられている。数多くのスラブ人、ユダヤ人を虐殺したアインザッツグルッペンの構成人員の多くは武装親衛隊の兵士から成り立っていた。またオスカール・ディルレヴァンガー率いる第36SS武装擲弾兵師団やカミンスキー旅団などの非戦闘員の民間人に対して虐殺、略奪、婦女暴行などの蛮行を行った部隊も存在する。
参考文献
通史
George H.Stein The Waffen SS,Hitler's Elite Guard at War 1939-1945,Cornell University Press, 1967
上記著作の翻訳『武装SS興亡史 ヒトラーのエリート護衛部隊の実像1939-45』吉本貴美子(訳)、学習研究社、ISBN 4-05-401318-X、2005年
芝健介『武装SS もう一つの暴力装置』講談社、ISBN 4-06-258039-X、1995年
渡部義之(Pictorials)『武装SS全史 I (1933-1942)』学習研究社、ISBN 4-05-602642-4,2001年
渡部義之(Pictorials)『武装SS全史 II (1942-1945)』学習研究社、ISBN 4-05-602643-2,2001年
Neitzel, Sönke; Welzer, Harald (2012). Soldaten: On Fighting, Killing and Dying. Simon and Schuster. ISBN 978-1-84983-949-5
Stackelberg, Roderick (2002). Hitler's Germany: Origins, Interpretations, Legacies. London; New York: Taylor & Francis. ISBN 978-0-203-00541-5
Langer, Howard J.; Rudowski, Marek (2008) (ポーランド語). Księga najważniejszych postaci II wojny światowej. Warsaw: Bellona. ISBN 978-83-11-11111-0
Król, Eugeniusz C. (2006) (ポーランド語). Polska i Polacy w propagandzie narodowego socjalizmu w Niemczech 1919–1945 [Poland and Poles in the propaganda of National Socialism in Germany 1919-1945]. Warsaw: Instytut Studiów Politycznych Polskiej Akademii Nauk. ISBN 978-83-7399-019-7
部隊史
Otto Weidinger(第2SS装甲師団ダス・ライヒ) Division das Reich, Bände I,II,III,IV, Munin Verlag, 1967
Bundesverband der Soldaten der ehemaligen Waffen-SS e.V. 編、(Pictorials) Wenn alle Brüder schweigen, Großer Bildband über die Waffen-SS, Munin Verlag, ISBN 3-92124215-0, 1981
Rudolf Lehmann(第1SS装甲師団 LSSAH) Die Leibstandarte, Bände I,II,III,IV/1,IV/2, Verlag K.W.Schütz, ISBN 3-87725-129-3, 1993
Herbert Meyer(第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント) 『ヒトラー・ユーゲント SS第12戦車師団史(全2巻)』向井祐子(訳)、大日本絵画、ISBN 4-499-22678-3、1998年
James Lucas(第2SS装甲師団ダス・ライヒ) Das Reich, the military role of the 2nd SS division, Cassel & Co, ISBN 0-304-35199-7, 1999
Kurt Meyer(第1SS装甲師団 LSSAH)『擲弾兵 パンツァー・マイヤー戦記』学習研究社、ISBN 4-05-400984-0,2000年
ルパート・バトラー(第5SS装甲師団ヴィーキング)『SS-Wiking 第5SS師団の歴史1941-45』戸嶋芳美 他(訳)、リイド社、2007年、ISBN 4-8458-3308-5
クリス・マン(第3SS装甲師団トーテンコプフ)『SS-Totenkopf ヒトラーのエリート親衛隊、トーテンコープフの真実』小野寺英機(訳)、リイド社、2006年、ISBN 4-8458-3305-0
高橋 慶史(第3SS装甲師団トーテンコプフ)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第1章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
高橋 慶史(第6SS山岳師団ノルト)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第2章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
高橋 慶史(第18義勇機甲擲弾兵師団ホルスト・ヴェッセル)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第3章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
高橋 慶史(第25武装擲弾兵師団フニャディ)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第4章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
高橋 慶史(第26武装擲弾兵師団ハンガリア)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第5章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
高橋 慶史(第30武装擲弾兵師団ロシア第2)『ドイツ武装SS師団写真史〈1〉』第6章 大日本絵画、2010年、ISBN 4-4992-3017-9
制服
Walther-Karl Holzmann(Pictorials) Manual of the Waffen-SS, Bellona Publications, 1976
Francis CATELLA(Pictorials) Le N.S.D.A.P. Uniformologie & Organigramme, ISBN 2-9501712-1-4, 1987
脚注
^ Neitzel & Welzer 2012, p. 290.
^ Stackelberg 2002, p. 116.
^ Langer & Rudowski 2008, p. 263.
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、武装親衛隊に関連するカテゴリがあります。
イスラム革命防衛隊 - 新政権を防衛するために従来の国軍と対置され、発展して対外戦争にも参加した点で性格が類似している。
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— 武装親衛隊師団一覧 —
第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー
第2SS装甲師団 ダス・ライヒ
第3SS装甲師団 トーテンコプフ
第4SS警察装甲擲弾兵師団
第5SS装甲師団 ヴィーキング
第6SS山岳師団 ノルト
第7SS義勇山岳師団 プリンツ・オイゲン
第8SS騎兵師団 フロリアン・ガイエル
第9SS装甲師団 ホーエンシュタウフェン
第10SS装甲師団 フルンツベルク
第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント
第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント
第13SS武装山岳師団 ハンジャール(クロアチア第1)
第14SS武装擲弾兵師団 (ウクライナ第1)
第15SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第1)
第16SS装甲擲弾兵師団 ライヒスフューラー・SS
第17SS装甲擲弾兵師団 ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
第18SS義勇装甲擲弾兵師団 ホルスト・ヴェッセル
第19SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第2)
第20SS武装擲弾兵師団 (エストニア第1)
第21SS武装山岳師団 スカンデルベク(アルバニア第1)
第22SS義勇騎兵師団
第23SS武装山岳師団 カマ(クロアチア第2)
第23SS義勇装甲擲弾兵師団 ネーデルラント(オランダ第1)
第24SS武装山岳猟兵師団
第25SS武装擲弾兵師団 フニャディ(ハンガリー第1)
第26SS武装擲弾兵師団 (ハンガリー第2)
第27SS義勇擲弾兵師団 ランゲマルク(フラマン第1)
第28SS義勇擲弾兵師団 ヴァロニェン(ワロン第1)
第29SS義勇擲弾兵師団 RONA(ロシア第1)
第29SS武装擲弾兵師団 (イタリア第1)
第30SS武装擲弾兵師団 (ロシア第2)
第30SS武装擲弾兵師団 (白ロシア第1)
第31SS義勇擲弾兵師団
第32SS義勇擲弾兵師団 1月30日
第33SS武装騎兵師団 (ハンガリー第3)
第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1)
第34SS義勇擲弾兵師団 ラントシュトーム・ネーダーラント(オランダ第2)
第35SS警察擲弾兵師団
第36SS武装擲弾兵師団
第37SS義勇騎兵師団
第38SS擲弾兵師団 ニーベルンゲン
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国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
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最終更新 2023年11月1日 (水) 00:05
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武装親衛隊の前身
親衛隊特務部隊(しんえいたいとくむぶたい、独:SS-Verfügungstruppe, 略号:SS-VT)は、ドイツの政党国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の組織親衛隊(以下SS)が保有していた軍事組織。武装親衛隊(以下武装SS)の前身となった組織である。ドイツ語の「Verfügung」には「自由使用」といった意味があり、この部隊名には総統アドルフ・ヒトラーや親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自由に使用できる部隊という意味が込められていた[1]。
前身
1933年1月30日のナチ党の政権掌握後に武装SSの前身となる武装強化されたSS部隊が出現するようになった。一つはアドルフ・ヒトラーの警護部隊である「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler、略称LSSAH)」。二つ目は「SS政治予備隊(SS-Politische Bereitschaft)」。3つ目は強制収容所(KZ)の警備を行う「SS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände、略称SS-TV)」である[2]。
このうちSS政治予備隊とライプシュタンダルテがSS特務部隊の前身であった[3]。特に政治予備隊が直接の前身である[4][5]。髑髏部隊はテオドール・アイケの下にSS特務部隊とは別の発展を遂げたSS武装部隊であり、戦時中になってようやく武装SSとして特務部隊と合同することとなった。
(以下略)
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武装親衛隊の編成
武装親衛隊の編成の一覧をここに示す。
軍
軍団
第9SSアルプス軍団
第10SS軍団
第12SS軍団
第13SS軍団
第16SS軍団
第17SS軍団
師団
1944年末師団番号移行:第23SS義勇装甲擲弾兵師団 ネーデルラント(オランダ第1)
1945年4月師団番号移行: 第29SS武装擲弾兵師団 (イタリア第1)
1945年師団番号移行: 第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1)
ケンプフ装甲師団
第1SSコサック騎兵師団
第2SSコサック騎兵師団
旅団
連隊
大隊
その他
モーンケ戦闘団
アゼルバイジャンSS義勇部隊
ラトヴィア人部隊
タタール兵団
最終更新 2023年5月10日 (水) 00:27
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第二次世界大戦中のドイツ軍の編成
(親衛隊は、いわゆる軍の組織外らしい)
第二次世界大戦中のドイツ軍の編成について示す。地上部隊についての一覧であるが、第二次世界大戦中のドイツ国防軍は陸軍のみならず、海軍、空軍も地上部隊を有し、さらに武装親衛隊も加わって複雑な戦闘序列を有していた。
総軍司令部
総軍司令官(Oberbefehlshaber)は大戦末期のオランダに立てられたネーデルラント総軍司令官を除いて、いずれかの軍集団司令官に与えられた兼任職だった。占領地域に置かれる軍政長官(Militärbefehlshaber)は国防軍最高司令官(OBdH)に直属するものであり、野戦軍の指揮序列になかったので、軍集団司令官を総軍司令官に併任させることで軍政長官を指揮できるようにしたのである。
1941年12月に陸軍総司令官がブラウヒッチュからヒトラーに交替した結果、総軍司令部の司令官に併任されることは、ヒトラーないしOKWから直接指示を受けることを意味していた。[1]
Warlimont[1962]によると、1942年9月にハルダー参謀総長と交替したツァイツラーOKH参謀総長は、東部戦線のことについてOKWに基本的な情報を渡さず、重要な事柄をヨードルを通さずヒトラーとの直接会談で決めようとする姿勢を示した(同書、pp.260-263)。東部戦線にはOBdHに直属する総軍司令官がいなかったので、自然に東部戦線はOKHがもっぱら担当する戦域ということになった。もともとOKW担当戦域というのは、ノルウェー攻略時に三軍の主導権争いが起こり、陸軍第XXI軍団がOKWの直接指揮下に置かれて事実上の侵攻司令部となり、OKWが全体を総攬したことを原型とする(同書、pp.71-73)。ツァイツラーの登場以降、実際にはOKHは各軍集団司令官としての総軍司令官から情報も得ていたし、地域担当士官もOKHに存在したのだが、東部戦線以外についてはOKWが細かい指示を出す慣例が定着した。
北東総軍司令部(OB Nordost)
英語版の同項目(en:List of World War II military units of Germany)に記載があるが、他の資料に全く言及が見つからないので誤記かもしれない。北西総軍司令部(OB Nordwest)、 ニーダーラント軍総司令部(OB Niederland)および北方総軍司令部(OB Nord):オランダ
大戦末期の1945年4月、孤立したオランダはH軍集団司令部が統括していたが、H軍集団司令部がまず北西総軍司令部と名称変更された。さらにH軍集団のもとにあった第25軍司令部がニーダーラント軍総司令部と改称された。改称であるから、これらの司令部はOKHから脱してOKWに専属することになった[2]。降伏前後の文書等で、北西総軍司令部がOB Nordを名乗った例があるとしているサイトがある[3]。これは以下に示すように、Wehrmachtsoberbefehlshaber Nordを兼任していたデーニッツが発した文書を誤解釈した可能性がある。
4月17日から30日までデーニッツ海軍総司令官がWehrmachtsoberbefehlshaber Nordに任じられている。これはKesserling[1953]によると、デーニッツがケッセルリング元帥の新しいOB SüdとOB Nordwestにカバーされないドイツ中央部と東部戦線の北半分について総覧するというものだった(同書、p.268)。またKeitel[1966]によると、ヒトラーがベルヒデスガーテンにOKWとともに脱出する計画が進んであり、OKWから一部の要員がデーニッツに随行することで、事実上OKWを二分することが予定されていた。東方総軍司令部(OB Ost):東部戦線
OB Ostは1939年10月3日から1940年5月まで存在した。総司令官は南方軍集団司令官のルントシュテットがわずかな間務め、10月20日からヴィッツレーベンに交替した。1940年5月以降は、ポーランド総督府に領内の軍事面を担当する組織ができたので、軍政長官やOB Ostは任じられなくなった。南方総軍司令部(OB Süd):イタリア・アフリカなど
1941年12月2日から、ケッセルリング元帥は指揮下の第2航空艦隊とともにイタリアに着任し、OB Südを併任した。ケッセルリングに戦域全体のイタリア軍を指揮させる構想があったが、イタリア陸軍司令官が激しく抵抗したため実現しなかった(Kesserling[1953]、pp.103-104)。1943年になるとチュニジアの陸軍作戦を直接指揮する必要が生じ、陸軍から参謀長が出るようになって、第2航空艦隊はリヒトホーフェン元帥が指揮した。1943年11月21日、OB SüdwestとC軍集団司令官が新設され、ケッセルリングが両方を兼任した。なお大戦末期には西方総軍司令部がOB Südに改称している。南東総軍司令部(OB Südost)
バルカン方面を担当した。南西総軍司令部(OB Südwest)
上記「南方総軍司令部」参照。西方総軍司令部(OB West):西部戦線
D軍集団司令官が併任してきたが、D軍集団が解体されたのちもルントシュテット元帥の司令部として残った。大戦末期には東部戦線と西部戦線が接近してしまった事情からかOB Südと改名している。
軍集団
第1軍集団
第2軍集団
第3軍集団
第4軍集団
第5軍集団
第6軍集団
A軍集団:1940年西部戦線、1942年東部戦線、1945年
B軍集団:1940年西部戦線、1942-1943年東部戦線、1943年以降西部戦線
D軍集団:1940-1941年西部戦線
軍
装甲集団
第1装甲集団
第2装甲集団
第3装甲集団
第4装甲集団
アフリカ装甲集団
グデーリアン装甲集団
ホト装甲集団
クライスト装甲集団
西方装甲集団
関連項目
文献
Keitel, Wilhelm The Memoirs of Field-Marshal Wilhelm Keitel: Chief of the German High Commmand, 1938-1945,Cooper Square Pub(reprint),1966 (reprinted in 2000), ISBN 0815410727
Kesserling, Albert The Memoir of Field-Marshal Kesserling, Greenhill, 1953(reprinted in 1988), ISBN 1-85367-287-4
Warlimont, Walter Inside Hitler's Headquarters 1939-1945, Presidio, 1962, ISBN 0-89141-514-9
外部リンク
Heeresgruppe H/Oberbefehlshaber Nordwest (Bundesarchiv)
脚注
[脚注の使い方]
^ ドイツ語版Wikipedia「軍政長官」de:Militärbefehlshaberの項による。
^ 改称命令の意図を明示した資料はない。
^ 外部リンクHeeresgruppe H/Oberbefehlshaber Nordwestの説明による。
カテゴリ:
最終更新 2021年2月24日 (水) 13:27
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Category:ナチス親衛隊
カテゴリーでご確認を。
(各名称の中にも既知物があっても、全体としては分かりにくい。
ここを利用すると、繋がりが見えて理解しやすいと思う。)
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の組織親衛隊(Schutzstaffel、略称SS)に関するカテゴリ
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最終更新 2017年6月23日 (金) 18:17
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蛇足かもしれないが、1951年~1992年に
「旧武装親衛隊員相互扶助協会」なるものが存在した。
「目的は武装親衛隊員と国防軍将兵への法的・社会的平等の確保および元隊員への支援を行うことであった。」
つまり何らかの活動が1992年までは間違いなく行われていた、という事である。
旧武装親衛隊員相互扶助協会
旧武装親衛隊員相互扶助協会(ドイツ語: Hilfsgemeinschaft auf Gegenseitigkeit der ehemaligen Angehörigen der Waffen-SS, HIAG)は、1951年に西ドイツで設立された登記社団(Eingetragener Verein)である。創設者や幹部はナチス・ドイツ時代の武装親衛隊(武装SS)に所属した元将校らであり、その目的は武装親衛隊員と国防軍将兵への法的・社会的平等の確保および元隊員への支援を行うことであった。1992年には解散したものの、以後も各地方で存続した分派や後継組織が散発的に活動を続けている。HIAGは極右団体として当局の監視を受けているほか、1960年代にはこの組織の存在がメディア等で物議を醸した。
旧武装親衛隊員相互扶助協会
Hilfsgemeinschaft auf
Gegenseitigkeit der ehemaligen
Angehörigen der Waffen-SS, HIAG
略称 HIAG
前身 武装親衛隊
後継 HIAG各支部団体
設立 1951年
設立者 オットー・クム
設立地 ボン
解散 1992年
種類 右翼団体
歴史修正主義
後年 : ネオナチ
法的地位 任意団体
目的 元武装親衛隊員への相互扶助及び名誉回復
会員数 約2万人
公用語 ドイツ語
会長 パウル・ハウサー
重要人物 オットー・クム
フェリックス・シュタイナー
クルト・マイヤー
ヘルベルト・オットー・ギレ
ヨーゼフ・ディートリヒ
ヴィルヘルム・ビットリヒなど
主要機関 『義勇軍(Der Freiwillige)』
歴史
創設者はオットー・クム元SS少将である。
当初は地域ごとに分散した組織が設置されていたが、1950年代のうちに体制が改められ統括組織が設置された。当時のドイツではいわゆる「清廉潔白な国防軍」論の元、武装親衛隊の復員兵らは国防軍の復員兵らに比べて様々な社会的不利を被り、軍人恩給の支給も認められなかった。こうした背景の中、HIAGは武装親衛隊員と国防軍将兵の法的・社会的平等の確保および元隊員への支援を目的に結成された。HIAGは同時期に存在した戦友会組織・保守派団体などの中でも有力なものの1つに数えられていた。
1951年より機関紙『ヴィーキング・ルーフ』(Wiking-Ruf、「ヴァイキングの雄叫び」の意)の発行が開始され、1956年以降は月刊誌『デア・フライヴィリゲ(ドイツ語版)』(Der Freiwillige、「志願兵」の意)がこの役目を引き継いだ。同誌は最大で12,000部の発行部数を誇り、HIAGが解散した1992年にも8,000部が発行された。編集長は元武装SS戦時報道隊員のエーリヒ・ケルン(ドイツ語版)であった。現在でも「ムニン出版社(ドイツ語版)」(名称は北欧神話のムニンに由来)から引き続き発行されている。機関紙の内容は、主に武装SSに関する戦史など元隊員らが過去を懐かしむ記事であったが、一部にはいわゆる歴史修正主義的な内容も含まれていた。
1992年にはHIAGの連邦統括組織 (Bundesdachverbandes) が解散するが、ドイツ各地に設置されていた12個の地方支部や協力団体はその後も活動を続けている。最後の連邦委員はフーベルト・マイヤー(ドイツ語版)元SS中佐、アウグスト・ホフマン (August Hoffmann)、ヨハン・フェルデ (Johann Felde)であった。HIAGは1992年に解散が宣言されるまで、極右団体として連邦憲法擁護庁による監視対象とされていた。
1993年、いくつかのHIAG地方支部と戦友会組織が連合し、HIAGの後継組織として、戦没者埋葬地財団「静かなる戦友」(Kriegsgräberstiftung Wenn alle Brüder schweigen)が結成された。本部はシュトゥットガルトに置かれ、会長アウグスト・ホフマン、副会長ハインツ・ベルナー (Heinz Berner)、財務担当者ヴェルナー・ビッツァー (Werner Bitzer)らが初代幹部を務めた。同財団ではその使命を「国内外における戦没者、特に我が軍の戦没者の埋葬地を捜索し、その情報をドイツ戦没者埋葬地支援国民連盟に報告すること」と定めている。
戦犯容疑者の扱い
HIAGでは長らく戦争犯罪の定義に関する議論と戦争犯罪に関する起訴の否定を行ってきた。また、HIAG会員には武装親衛隊員以外に髑髏部隊やSS保安部(SD)の元隊員も多かった[1]。これはSS隊員らが複数の部局・部隊に所属する事が多かったことに起因し[2]、例えば髑髏部隊を率いたテオドール・アイケ将軍も当初は強制収容所所長などとして勤務する一般SS隊員だったが、後に髑髏部隊の志願者から髑髏師団が結成されると師団長として武装SS隊員たる階級を得ている。1979年には髑髏師団戦友会がHIAGと共に式典を開いている[3]。
1959年、当時のHIAG広報官クルト・マイヤー元SS少将[4]は、HIAG会員たる髑髏部隊およびSD隊員への批判に対して「彼らの罪よりも戦友愛を尊重する」と述べた[5]。この際、マイヤーは彼自身もカナダ兵捕虜殺害の罪で戦犯容疑者として裁かれた旨を語った。マイヤーの他にも、当時のHIAG幹部にはオットー・クム元SS少将、ゼップ・ディートリヒ元SS上級大将、リヒャルト・シュルツェ=コッセンス(ドイツ語版)元SS中佐など、戦犯容疑者として裁かれた元将校が多かった。
HIAGではニュルンベルク裁判で示された「武装親衛隊もまた犯罪者組織である」という判断を認めず、戦犯容疑者として裁かれた元隊員も戦友として受け入れていた[6]。1975年4月には、グスタフ・ロンバルト元SS少将の80歳の誕生日がHIAGによって盛大に祝われた。ロンバルトは東部占領地域におけるユダヤ人殺害の組織化に関与し、「脱ユダヤ化」(Entjudung) なる語を造語した人物である[7]。
また、服役中の戦犯容疑者への支援も行っていた。1960年、『デア・フライヴィリゲ』誌はイタリアにて投獄されている3人の囚人に寄付や手紙を送るキャンペーンを行っている[8]。この3人とは、バッサーノの虐殺として知られる事件に関与したヴァルター・レーダー(ドイツ語版)元SS少佐[9]、ヘルベルト・カプラー元SS中佐[10]、ヨゼフ・フォイヒティンガー(Josef Feuchtinger)の3将校であった[11]。このうち、レーダーは反省の辞を述べて1985年に出所・帰国し(ただし後に反省は取り消した)、カプラーは看護婦だった妻の協力を得て1977年に脱獄して帰国し、翌年死去した。
参考文献
Bert-Oliver Manig: Die Politik der Ehre. Die Rehabilitierung der Berufssoldaten in der frühen Bundesrepublik, Wallstein Verlag, Göttingen 2004, ISBN 3-89244-658-X
Karsten Wilke: Geistige Regeneration der Schutzstaffel in der frühen Bundesrepublik? Die „Hilfsgemeinschaft auf Gegenseitigkeit der Angehörigen der ehemaligen Waffen-SS“ (HIAG). In: Jan Erik Schulte (Hrsg.), Die SS, Himmler und die Wewelsburg, Ferdinand Schöningh Verlag, Paderborn 2009, ISBN 978-3-506-76374-7, S. 433–448.
Karsten Wilke: Die „Hilfsgemeinschaft auf Gegenseitigkeit“ (HIAG) 1950–1990). Veteranen der Waffen-SS in der Bundesrepublik. Schöningh, Paderborn 2011, ISBN 978-3-506-77235-0[12]
脚注
^ John M. Steiner/Jochen Fahrenberg: Autoritäre Einstellung und Statusmerkmale von ehemaligen Angehörigen der Waffen-SS und SS und der Wehrmacht. Eine erweiterte Reanalyse der 1970 publizierten Untersuchung (PDF)
^ Zum Organisationsaufbau auch: Hans Buchheim: Anatomie des SS-Staats, Bd. 1: Die SS – Das Herrschaftsinstrument. Befehl und Gehorsam, München 1967, S. 179
^ "Besten Willens", Der Spiegel (ドイツ語), no. 15, 1979
^ Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. Fischer Taschenbuch Verlag, Zweite aktualisierte Auflage, Frankfurt am Main 2005, ISBN 978-3-596-16048-8, S. 408.
^ Kurt Meyer 1958 nach: Thomas Kühne: Kameradschaft. S. 245
^ Thomas Kühne: Kameradschaft. S. 245
^ Abteilungsbefehl Nr. 36 u. 37 vom 9. u. 11. August 1941, BA-MA, RS 4/441.
^ Anzeige in: Der Freiwillige August 1960, S. 7.
^ In einer Beilage von „So sieht es Vocator“ zu Der Freiwillige Heft 3, März 1968 heißt es: „Major Walter Reder wurde für etwas bestraft, was er nicht getan hat. Er ist kein Kriegsverbrecher!“
^ Der Freiwillige, Heft 2, Feb. 1968, S. 21–23 gibt außerdem umfangreich eine Broschüre von Rudolf Aschenauer, dem Verteidiger Kapplers wieder.
^ Gegen Feuchtinger wurde 1963 in Wien ein Prozess wegen dem Massakers von Bassano geführt. Siehe: Wehrmachtsverbrechen. Verdächtiger nimmt sich das Leben in FR vom 26. September 2008
^ Rezension von Rafael Binkowski / Klaus Wiegrefe (2011), "Brauner Bluff", Der Spiegel (ドイツ語), no. 42, pp. 44–4517. Oktober 2011
関連項目
外部リンク
Verband der Unbelehrbaren? (PDF; 15 kB) von Karsten Wilke, Fakultät für Geschichtswissenschaft, Philosophie und Theologie der Universität Bielefeld
最終更新 2023年4月14日 (金) 09:00
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