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”ヴォルィーニ虐殺”8 : 1943-4年 現西ウクライナ ;ヴォルィーニ,ガリツィアにおけるポーランド人に対する一連の虐殺事件 ~ に関する 最近のニュース等 他 資料置き場 まとめ    (完)


”ヴォルィーニ虐殺”事件は、現在のウクライナ西部(過去にポーランド)の土地で1943-1944年に連続した、ウクライナ人によるポーランド人に対する数万~10万人規模の大虐殺である。

この民族浄化事件について、ここまで7回の記事を書いたが、自分もこの事を知ったのは2022年だった。

ーーー 2014年から内戦、ウクライナ軍は東部住民への執拗な攻撃を始めた。2022年2月に攻撃を受けていた2州のロシアへの合併をロシアが認め、国内への攻撃としてロシア軍が介入を開始した。ーーー

今回(2年前まで)の上記の出来事から、どうしてこうなった、ウクライナ自体は何をしたか、何があったか、”ヴォルィーニ虐殺”を含む様々な事を調べ始めた。2014年からの内戦や紛争がなければこれらを知らずに済んだはずだ。


ウクライナを知るうえで
ヴォルイーニ虐殺があったという歴史は
変えられないし、
避けて通る事はできない。




自分は昔モスクワに約2年いたことがある。
ポーランドも数回にわたって合計2カ月近く、
旅をしたり、家庭に置いてもらったりした。
ウクライナでも1か月程、旅をし、
途中 数家庭に滞在させてもらった。


ノー天気な当時の自分は、
このような悲劇の過去は知らなかった。

また
すでに第二次大戦から約50年経っていて
(日本でも同様だが)、
普段の旅や生活では、
その影響はもちろん感じられなかった。




これまでの”ヴォルィーニ虐殺” 7つの記事

1回目は主にWikipediaを切り取りながら 流れを辿った。↑
2,3回目は Wiki上の”ヴォルィーニ虐殺” 各国語の全コピぺ。
4回目は Wiki上のヴォルィーニの”血の日曜日” 各国語の全コピぺ。
5回目は Wiki上の隣接の東ガリツィア(小ポーランド)での虐殺に関する各国語の全コピぺ。
6回目は Wikiロシア語版より。ウクライナ側とポーランド側、それそれの時系列順で示した日歴 (日表)の全コピぺ。
7回目は ネット上のリンク先よりの引用・資料・コメント等


※㊟
ここでもヴォルィーニの地名は
ヴォリン や ウォウィンのような表記の事がある。

※㊟2
この記事ではヴォルィーニ地方だけでなくその周辺も含む。

   ー   ー   ー





過去と最近の関連のニュース

ニュースサイトの他、ニュースの内容を取り上げたブログ等SNS経由も含む、主に政治的な国家間のニュースを ほぼ時系列順に挙げている




ポーランド、ヴォルイニ虐殺のジェノサイド認定

2016年7月23日↓ 

(本文全コピペ ~ リンク先確認してください)

ポーランド下院(sejm)、第二次大戦時、ウクライナの準軍事組織UPA(ウクライナ蜂起軍)により行われた主にポーランド系住民に対するヴォルイニ虐殺のジェノサイド認定、7月11日の記念日認定法案を承認。


これについてウクライナ議会外交委員会は「失望」を表明し、http://24today.net/open/685047 (リンク切れ)


ポロシェンコ大統領はこの決議について遺憾としながらも今後もポーランドとの連帯は継続するとしています。

私(このページ↑の筆者)は実を言えばウクライナ・ポーランドともに露の脅威に直面する状況下、プラグマティックな対応をするかと予想をしていましたし、実際今までのポーランドはこの件について自制してきました。しかし風向きが変わってきたようです。

ドゥダ政権の民族主義的傾向とドゥダ政権が進めるインテルマリウム構想はこうした例のように矛盾するものになってしまう危険があるということを示していると思います。

マイダン革命後のウクライナではウクライナ蜂起軍(UPA)は「聖化」と言えるまで英雄視が進んでおり、ポロシェンコ大統領があのように表明してはいますが、反発の声があがる可能性もあります。







「ヴォリンの虐殺」を大量虐殺と認定することで、ウクライナとポーランドの牧歌的な関係が破壊される

2016年7月 ~ ”TOP WAR”

7月上旬、ポーランド上院議員は、ヴォーリンの悲劇をジェノサイドとして認める決議を採択し、7月にポーランド国民に対してウクライナの民族主義者が犯したジェノサイドの犠牲者のための国民記念日として11を設立するよう求めました。 先週、Sejmはポーランド議会の上院の呼びかけに答え、「7月の11の設立、ポーランド人の記憶の日、OUN-UPAが犯した大量虐殺の犠牲者」という決議に投票した。






ロシアの議員は、ヴォルィーニ虐殺をジェノサイドとして認める国が増えることを期待

   2016.07.23

ポーランド議会下院(Sejm)は、1943年から1944年にかけてヴォルィーニでポーランド人に対してOUN-UPA(ロシアでは禁止されている組織)が行った犯罪をジェノサイドと呼ぶ決議を可決した。

写真:ポーランドのブロニスワフ・コモロフスキ大統領とポーランド議会のツェザリ・グラバルチク副議長が、2013年のヴォルィーニ悲劇の70周年にあたり、殺害されたポーランド人に哀悼の意を表すため、ウクライナのキセリンで花束を捧げている。

モスクワ、7月22日。/TASS/
ポーランドは、第二次世界大戦中にウクライナの過激民族主義者がポーランド系民族を大量虐殺したことをジェノサイド行為と認定しており、他の国々もそれに追随する可能性があると、ロシアの上級議員が金曜日に語った。 「ポーランドの下院は上院に倣い、ヴォルィーニ(ヴォルィーニ)でのポーランド人虐殺をジェノサイドと認定した。今や、それがポーランドの公式見解だ。他の国々が最終的にこれに加わる可能性も排除できない」と、ロシア連邦議会上院の防衛安全保障委員会のフランツ・クリントセビッチ第一副委員長は記者団に語った。

奇妙な反応
彼は、ポーランド議会の決議に対するウクライナのピョートル・ポロシェンコ大統領の反応は「少なくとも奇妙」だと述べた。ポロシェンコ氏は、ポーランド議会の決定について遺憾の意を表し、「多くの人が政治的憶測に利用したがるだろう」と述べた。 「実際のところ、ウクライナも国民も1943年の悲劇的な出来事とは何の関係もないのに、この反応は奇妙だ」とクリントセビッチ氏は述べ、「キエフのステパン・バンデラ通りの最近の出現は、ロシア嫌いの地元議会議員の歴史的な執着ではない」と確信していると付け加えた。 「まず第一に、これはウクライナ当局、あるいは少なくともそれが依拠している勢力の自己同一視の行為だった。実際のところ、彼らは虐殺者や強姦犯をウクライナ独立闘争の象徴と宣言しており、ポーランド議会はヴォルィーニ虐殺をジェノサイドと認めてこの事実を偏見なく指摘した」とロシアの議員は述べた。 ポーランド議会の決議は「キエフ政府に対する侮辱だ」と彼は述べ、それに対する適切な反応は「過去と現在の両方の民族主義者との決意と公然たる断絶」であると付け加えた。

キエフ、犯罪者を英雄として称える
別のロシア議員は、ウクライナがウクライナ民族主義者組織(OUN)とウクライナ反乱軍(UPA)の指導者を国民的英雄として称え続けていることに遺憾の意を表明した。これらの組織の活動はロシアとポーランドで犯罪と認識されていたにもかかわらずだ。 「ロシアに続き、ポーランドの下院も金曜日、ウクライナ反乱軍を犯罪組織として認定した。少なくとも歴史的出来事に関する見解では、我々がポーランド人と真実の同じ側に立っていることは心強い」と、ロシア連邦議会上院の国際委員会委員長コンスタンチン・コサチェフ氏はフェイスブックに記した。 同時に、同氏は「この組織はウクライナで依然として高く評価されており、その指導者は国民的英雄と宣言されている」ことに遺憾の意を表明した。

ポーランド下院の決議
金曜日早朝、ポーランド議会下院(Sejm)は、1943年から1944年にかけてヴォルィーニでポーランド人に対してOUN-UPA(ロシアで禁止されている民族主義組織)が行った犯罪をジェノサイドと認定する決議を可決した。この法案は432人の議員の投票で可決され、反対は0、棄権は10だった。 「1943年から1945年にかけて行われたジェノサイドにより、ポーランド第二共和国の国民10万人以上が虐殺された。そのほとんどは農民だった。正確な数は未だ不明で、その多くは今日まで尊厳をもって埋葬されていない」とSejmの決議は述べている。 「1940年代にウクライナ民族主義者が犯した犯罪の犠牲者の記憶は、これまで適切に大切にされてこなかったし、大量殺人は歴史的事実に則ってジェノサイドと呼ばれてこなかった。」 ポーランドの国会議員は、ポーランド人による弾圧についても言及した。「ウクライナ民族主義者の残虐行為を思い起こしながらも、ウクライナの村で民間人の命を奪った報復行為に目をつぶることはできない」と文書は述べている。

ヴォルィーニ虐殺
第二次世界大戦中にウクライナ西部で活動した極右運動のウクライナ民族主義者組織(OUN)は、第三帝国とともにソ連の権力と戦った。1943年にウクライナ反乱軍(UPA)を組織した。 1943年2月、ウクライナ民族主義者はヴォルィーニのポーランド人住民を根絶するキャンペーンを開始した。これらの出来事は、1943 年 7 月 11 日に OUN - UPA 軍がポーランドの入植地約 100 か所を攻撃したことで頂点に達しました。超国家主義者は、主に女性、子供、高齢者を中心に約 10 万人を虐殺しました。この殺害の主な目的は、将来のウクライナ国家からウクライナ人以外の人々をすべて排除することでした。 2013 年





「ヴォルィーニ虐殺を忘れず、思い出さなければならない」

2017.07.12

https://www.president.pl/news/we-must-remember-and-remind-about-volhynia-massacre,36463

「ヴォルィーニでは10万人以上のポーランド国民が虐殺された。国民として我々はそれを忘れず、常に思い出さなければならない」とアンジェイ・ドゥダ大統領は火曜日、ポーランド北部のグダニスクで1942年から43年にかけて起きたヴォルィーニ虐殺の74周年を記念する式典で述べた。 虐殺74周年の公式記念式典は、7月11日から12日にかけて、ジェノサイド犠牲者追悼の日と題してポーランド全土で行われた。7月11日は、1943年6月11日に虐殺が最高潮に達した日で、ウクライナの暗殺部隊がヴォルィーニ地区の教会で日曜ミサに集まっていたポーランド国民を襲撃し、ヴォルィーニ血の日曜日として知られるようになった。 ドゥダ大統領は、グダニスクのヴォルィーニ犠牲者追悼式で演説し、ポーランドが犠牲者に敬意を表していることを嬉しく思うと述べ、虐殺で10万人以上の命が失われたことを思い起こさせた。この文脈で、大統領はヴォルィーニの血の日曜日について言及し、その日にウクライナの民族主義者が150以上のポーランド人居住地を攻撃したことを思い出した。 アンジェイ・ドゥダ大統領は、ヴォルィーニの儀式はウクライナ人に対するものではなく、「良好な二国間関係」を築くための不可欠な要素であると強調した。 「7月11日は重要な日であり、ウクライナ民族主義者による大量虐殺の犠牲となった第2共和国の国民を国民として追悼する日である。国民として、社会として、我々は彼らのことを忘れず、常に彼らのことを思い起こさなければならない。決してウクライナ国民に対する敵意を煽るためではない。むしろ、我々はこれを警告として、また国民間の良好な関係を築くための要素として心に留めておかなければならない」とアンジェイ・ドゥダ大統領は述べ、ポーランドとウクライナの関係は「誠実な追悼と名指しによる問題提起」の上に築かれなければならないと付け加えた。 これに先立ち、アンジェイ・ドゥダ大統領はグダニスクのヴォルィーニヤ記念碑の下に献花した。(PAP通信)







ポーランド大統領、ウクライナとの歴史問題を解決すべきと発言

2021年8月
アンジェイ・ドゥダ・ポーランド大統領は、ポーランド・ウクライナ関係の間の複雑な歴史問題を指摘し、それを解決しなければならないと発言した。

ドゥダ大統領は、「ヴォリーニの犯罪、ポーランド人殺害、第二次世界大戦と戦後に関係する全ての出来事だ。ウクライナ人が私たちにもたらした損害は甚大であり、それは筆舌し難い。しかし、ウクライナ人もまた、私たちに対して様々なクレームがあるのであり、本件は相互の問題である。私たちは、それを解決しなければならない。そう、かつてドイツとの間の問題を解決したようにだ。たとえ、歴史というものが二度と繰り返さないための個々の喚起として記憶され、解釈されるものだとしても、その友好と協力は可能である。私たちは、ここでもそれを希求している」と発言した。

ポーランドの歴史家は、ヴォリーニにおける民間人殺害の責任は「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」とウクライナ蜂起軍(UPA)のみにあるとしているが、ウクライナの歴史家の大半は、同犯罪はポーランド側とウクライナ側の双方に罪があると主張している。









ナチの協力者、バンデーラの誕生日を祝うウクライナにポーランドが不快感

2023年1月

2023-01-04
1/1は ナチスの協力者でウクライナの民族主義者団体OUN(ウクライナ民族主義者連盟)を結成してユダヤ人やロマ人、ポーランド人、ロシア人の大量虐殺に加担したステファン・バンデーラの113年目の生誕記念ということで、いくつかの都市でバンデーラの生誕記念の行進が行われました。






ゼレンスキーにWW2ウクライナ・ナチス虐殺の謝罪を求める

2023年5月20日 ↓

キエフは国家の過去の残虐行為に対して「より多くの責任」を取るべきだと、ポーランド外務省の報道官は述べている ポーランドはゼレンスキーに第2次世界大戦中のウクライナ人ナチスによる虐殺を謝罪するよう求める。







2023年サンクト=ペテルブルク国際経済フォーラムSPIEFで上映されたウクライナ・ナチズムの記録

2023年6月20日

(この記事は、保存の際リンク先を失ってしまった。それに、メインのイベントではない為、当時の活動内容を見る限り、記録を見付けることはできなかった。多分、せいぜい 何かの”ついで”に行われたと思われる。)

サンクトペテルブルク国際経済フォーラム (公式サイト)

Wikiロシア語版↓
各年の内容の表の中に、上記の事は書かれていない
(日本語版は会の概要のみで、各年の内容まで記されていない)

スプートニクでも同様






ワルシャワ、キエフに虐殺に関する「ジェスチャー」を求める

2023年7月6日

ポーランドは今年、ウクライナの民族主義者による虐殺から80周年を迎える。
キエフは、第二次世界大戦中にヴォルヒニアで起きたポーランド民族の大量虐殺に対するウクライナの民族主義者の責任を認める措置をとっていることを証明しなければならない、とワルシャワの欧州政策の実施に関与しているポーランドの国会議員が述べた。






ウクライナのマテウシュ・モラヴィエツキ首相:ヴォルィーニ虐殺の最後の犠牲者が見つかるまで休むことはない

07.07.2023
ウクライナとの共通の未来を築くには、痛ましい過去と向き合わなければなりません。ヴォルィーニは両国の歴史における開いた傷です。ヴォルィーニ虐殺の80周年を間近に控え、マテウシュ・モラヴィエツキ首相はウクライナ蜂起軍(UPA)によって殺害されたポーランド人に哀悼の意を表しました。首相はウクライナの存在しない2つの村、オストルフキとプジニキを訪問し、集団墓地の捜索が進められています。首相が指摘したように、ヴォルィーニ虐殺は最後まで説明され、記録されなければなりません。

ヴォルィーニにおけるポーランド人虐殺
約80年前、ウクライナ反乱軍は、ポーランド人が住むヴォルィーニの村々に対して組織的な攻撃を行った。 - この大惨事は、ヴォルィーニ虐殺である。これは、何千ものポーランド人家族にとって、虐殺であり、大虐殺であり、地獄である。その地獄で10万人以上のポーランド人が命を落としたと推定されていると、マテウシュ・モラヴィエツキ首相は強調した。 首相が説明したように、ヴォルィーニ虐殺はウクライナの民族主義者によって行われたが、当時ヴォルィーニは第三帝国によって支配されていたため、それが可能であった。

ヴォルィーニ虐殺は最後まで説明されなければならない
ヴォルィーニ虐殺から80年が経ち、ポーランド人は祖先の埋葬地を見つけ、尊厳ある埋葬を手配したいと考えている。
「今日、私たちはあの時を思い出すだけでなく、犠牲者たちが掘り起こされ、尊厳をもって埋葬されるよう、すべての埋葬地を見つけるよう求めます。あの恐ろしい犯罪の最後の犠牲者が見つかるまで、私たちは休むことはありません。私も休むことはありません。これが私たちの義務であり、私たちの遺産です」とポーランド政府首脳は強調した。 マテウシュ・モラヴィエツキ首相はまた、ヴォルィーニの歴史が最後まで明らかにされ、記録されない限り、ロシアは常にそのカードを使ってポーランド人とウクライナ人の間に亀裂を生じさせるだろうと指摘した。 「特に今、ウクライナの兵士たちが自由と独立のために、そして私たちの安全と未来のために戦っているときに、私たちはこれを許すことはできません」と首相は述べた。

ヴォルィーニ虐殺の犠牲者の遺体の捜索作業
ウクライナ側との取り決めに基づき、数週間にわたり、ブチャツキ地区プジニキ村で、1945 年 2 月に UPA の一団がポーランド人約 100 人 (主に女性と子供) を殺害した事件の犠牲者の遺体の捜索が行われている。 ポーランド側では、ポメラニア医科大学や国家記憶研究所などの専門家が作業を行っている。すでに 1 ヘクタール以上の土地が捜索され、500 以上のボーリング ホールと 80 のピットが掘られている。捜索には、ジオレーダー、磁力計プローブ、金属探知機など、最先端の機器が使用されている。作業は、作業が完了するまで継続される。

ヴォルィーニ虐殺
80年前の1943年7月11日と12日、ウクライナ反乱軍は旧ヴォルィーニ県にあるポーランド人が住む村々に組織的な攻撃を仕掛けた。UPAは7月11日の日曜日に人々が教会に集まっていたことを利用した。「ヴォルィーニ血の日曜日」は、1943年から1945年にかけてウクライナ民族主義者がポーランド人に対して行った大量虐殺のクライマックスと考えられている。ヴォルィーニでの大量虐殺の結果、約10万人のポーランド人が殺害された。






↓ <ポーランド人とウクライナ人の学者たちのそれぞれの見解>


ポーランド、ヴォリン虐殺の犠牲者を追悼

2023.7.11
ポーランドは毎年、ヴォルィーニ人の虐殺の犠牲者を追悼しています。これは非常に困難であり、おそらくポーランドとウクライナの歴史の中で最も苦痛なページです。しかし、私たちはそれについて話し合う価値があると信じています。私たちは、この恐ろしい悲劇的な出来事について唯一の正しい見解を持っているとは主張しませんが、この問題を研究している科学者の意見をよく知っておくことをお勧めします。

ヴォルィーニ虐殺の犠牲者を追悼する決議
2023年7月11日火曜日、ヴォルィーニ人の虐殺の犠牲者を追悼する決議を全会一致で採択した。決議案には、とりわけ次のように書かれています。 1943 年 7 月 11 日、ヴォルィーニで血の日曜日事件が発生しました。これはヴォルィーニ虐殺の最高潮の瞬間でした。この虐殺は、南東国境地帯でのポーランド人の絶滅を目的としたウクライナ民族主義者組織 (OUN) の指導者によって計画された大量虐殺です。ポレジー、ルブリン地域、ポドカルパチェの。大量虐殺の犠牲者は主に農村部の住民、大家族、主に女性、子供、高齢者であった(...) ウクライナ排外主義者は他国籍の代表者や同胞も殺害した(...) ポーランド共和国はヴォルィーニ虐殺の犠牲者全員の記憶に敬意を表したいと思います。同胞が犯した犯罪に命をかけて抵抗したウクライナ国家の代表者は特別な評価に値する。

決議では次のようにも指摘されています。 ポーランドとウクライナの和解は、両国の代表によって何年にもわたって築かれてきたが、その中には罪の認識と第二次世界大戦の犠牲者の追悼も含まれるべきである(...)東部国境地域における大量虐殺の犠牲者全員の発掘、厳粛な埋葬、追悼が行われる。必要。 今日、ロシアのウクライナに対する残忍な侵略の文脈において、ウクライナ国家自体が占領者による犯罪に直面しているとき、暴力と強姦は隣国間の関係を構築する正しい方法ではないという信念が特に明確かつ適切なものとなっている。 (…) ポーランド共和国は、クレシの人々とその子孫、そして「被害者は復讐を叫ばない、でも思い出のために」。 (…) ポーランド共和国は、この残忍な犯罪の犠牲者に追悼の意を表します。

ヴォルィーニでのアンジェイ・ドゥダ氏とヴォロディミル・ゼレンスキー氏の会談:
ウクライナとポーランドの共鳴 ヴォルィーニ虐殺80周年前夜、2023年7月9日、ポーランドとウクライナの大統領はルーツクで会談し、聖ペトロと聖ペテロ大聖堂で第二次世界大戦の犠牲者とヴォルィーニの悲劇的な出来事に追悼の意を表した。ポール。この会議は次のスローガンのもとに開催されました。 私たちは共に、ヴォルィーニの罪のない犠牲者全員に敬意を表します。記憶は私たちを結び付けます。一緒に私たちはより強くなります。

ウクライナ国民がアンジェイ・ドゥダ大統領の訪問を熱意を持って歓迎し、ポーランド大統領の支援に改めて感謝する一方、ポーランド人はこの行為、特に「ヴォルィーニの犠牲者」という言葉に対して国家元首を批判した。 poznasci.gazeta.pl によると、タデウシュ・イサコヴィチ・ザレスキー司祭は自身のツイッターアカウントに否定的なコメントを残し、次のようにコメントした。 大統領、ヴォルィーニアは誰も殺していません。ヴォルィーニと小ポーランド東部では、ポーランド人、ユダヤ人、アルメニア人、そしてウクライナの義人たちが、ウクライナに記念碑を建てているOUN-UPAによって拷問を受けたが、彼らの犠牲者には墓さえない。

ポーランド人ジャーナリストのヤツェク・ニジンキェヴィチ氏、ドミニカ・ドゥウゴシュ氏、ジャーナリスト兼広報担当者でモスクワ大使館の元外交官であるヴィトルト・ユラス氏、連邦のクシシュトフ・ボサク氏も不満のコメントをツイッターに投稿した。

しかし、ドゥダとジェレンスキの会談を肯定的に評価する者もいた。例えば、閣僚閣僚のパウェウ・シュロタ長官は次のように述べた。 ウクライナの友人たちに歴史の真実を説明するという困難な旅はこれで終わりではない。続きます… PiS の Radosław Vogel は、このイベントについてさらに簡潔にコメントしました。 これまで何人のウクライナ大統領がこのようなミサに出席しただろうか?

ヴォルィーニの悲劇的な出来事: なぜそれについて知る価値があるのでしょうか?
ロシアの侵略が始まって以来、数百万人のウクライナ人、主に子供連れの女性や高齢者が安全な避難場所を求めて国外に逃れている。何十万人もの軍人移民がポーランドに避難し、政府レベルだけでなく一般国民レベルでも包括的な支援と前例のない支援を受けました。ポーランド人は戦争の影響を受けたウクライナ人を思いやりをもって歓迎し、彼らに家と心を開いた。このような親密で個人的なコミュニケーションは、両国が地理的、文化的、精神的に近いように見えるにもかかわらず、多くのウクライナ人が西側の隣国を実際にはよく知らないという事実を明らかにした。その証拠の一つは、ポーランド人の心に今も血が流れている、そしてほとんどのウクライナ人がそれについてほとんど知らない痛みを伴う傷だ。そして彼らの多くは、ポーランドに定住するまでそのことを聞いたことがありませんでした。私たちが話しているのは、20世紀初頭にウクライナとポーランド国家の間で起こり、ヴォルィーニ人の虐殺としてポーランドの歴史に名を残した大悲劇についてです。

「ヴォルィーニの虐殺」それとも「ヴォルィーニの悲劇」?

2016年以来、7月11日は、ウクライナ民族主義者がポーランド第二共和国国民に対して犯した大量虐殺の犠牲者を追悼する国家的な日となっている。 これまでのところ、ポーランドとウクライナの歴史では、ヴォルィーニで起きた出来事について共通の見解が存在していない。これは、第二次世界大戦中にヴォルィーニで起きた犯罪に対する 2 つの異なる名前の説明になります。1 つはポーランドの情報空間に存在し (ヴォルィーニの虐殺)、もう 1 つはウクライナの情報空間に存在します (ヴォルィーニの悲劇)。名称とは別に、数万人の一般人の死をもたらした紛争に対する評価や説明も各国で異なる。ポーランド側とウクライナ側は状況を異なって解釈しており、双方の犠牲者の数に疑問を抱いている。 ウクライナ語のウィキペディアには次のように書かれています。 ヴォルィーニの悲劇(ポーランドの歴史学ではヴォルィーニの虐殺)は、対立するポーランド人とウクライナ人の相互民族浄化であり、OUNに従属するウクライナ反乱軍とポーランド国内軍によって実行され、ポーランドのシュッツマンシャフト大隊、ソビエト連邦の参加を得て行われた。第二次世界大戦中の1943年、ヴォルィーニでパルチザンとウクライナとポーランドの民間人。

伝統的なポーランドの歴史では、ポーランド国民の何千人もの民間人の犠牲者は虐殺として描かれています。ウクライナ側は、この事件をウクライナ民族主義軍の独立闘争の一環としており、この犯罪はポーランドによるウクライナ民間人への残虐行為に対する「報復行為」として起こったと強調している。彼らの主張には、ウクライナ国民に対する弾圧、ポロニゼーション、教育を受ける権利の制限などが含まれる。 ポーランドの歴史家はヴォルィーニ虐殺についてより多くの研究を行っているが、ウクライナの科学者は主にウクライナが独立を宣言した後にこのテーマを研究し始めたことは注目に値する。これらの研究は、ウクライナ領土に保管されていた旧ソ連の抑圧機関の文書が機密解除された2015年以降、新たなレベルに達した。したがって、ポーランドとウクライナの間で起きた悲劇の原因、状況、歴史的解決の可能性について、ポーランドとウクライナの科学者の意見を読むことをお勧めします。


歴史博士、政治アナリスト、対話センター副所長のウカシュ・アダムスキー氏。ユリウス・メロシェフスキ(ポーランド)
ウカシュ・アダムスキーは、ウクライナとポーランドの間のヴォルィーニ人の虐殺問題を解決する上での主な困難は、ポーランド社会がUPAに対する現代ウクライナ人の態度を十分に理解していないという事実であると信じている。現代のウクライナ社会にとって、UPAは反ポーランド勢力ではなく、ソビエト・ロシアに対する抵抗の生きた伝統として認識されている。そしてこの認識は、特に今日、ロシアの侵略に直面してさらに深まっている。ウクライナ人はUPAの反乱軍のイメージを主に今日と同様の独立闘争と結びつけているが、女性や子供の大量殺人とは結びついていない。そして、ウクライナ人の愛国的な挨拶は伝統的なUPAの挨拶です:「ウクライナに栄光あれ!」これはウクライナ国民の記憶を記念するものであり、反ポーランド活動を支援するものではありません。 科学者は次のように述べています。 ロシアの犯罪によって、両国が何が重要で何がより重要かを永遠に認識させることが期待される。私たちはまた、ウクライナとポーランドのすべての人が、歴史の異なる解釈は敵意を意味するものではなく、過去の犯罪への同意を意味するものではなく、また、それらがロシアとの反ウクライナ同盟や反ウクライナ同盟の根拠を生み出すものでもないことを最終的に理解することを願っています。ポーランドとドイツの同盟。 ウカシュ・アダムスキー氏は、ウクライナが少なくとも民族浄化を開始し実行したUPA司令官を公式に非難すること、そして両国間の専門的な歴史対話を継続することに状況の解決策があると見ている。

ボフダン・ハド氏、歴史科学博士、教授、リヴィウ国立大学欧州統合研究所所長。 (訳注:ウクライナ人)
イワン・フランコ ラジオ・ヴォルノシッチのインタビューで科学者は、1920年代と1930年代にヴォルィーニ県でソ連側が起こした一連の蜂起があり、黒人たちのスローガンに感銘を受けた地元住民の大規模な支援を受けていたと指摘した。百:非キリスト教徒から土地を奪う。ヴォルィーニでは、彼らは主にポーランド人でした。ユゼフ・ピウスツキの死後、ヴォルィーニのウクライナ人に対するポーランドの政策がより過激になり、ポロニゼーションと正教会からカトリックへの強制改宗が始まったとき、状況はさらに深刻になった。したがって、歴史家は、ヴォルィーニの親ロシア正教会、そしてボリシェヴィキの活発な政治活動の後、ヴォルィーニ人はポーランド当局への対抗勢力としてソビエトを待ちわびていたと強調する。 全体として、何十年にもわたって、この紛争は国家紛争ではなく、むしろ民族社会紛争、つまり土地をめぐるポーランドの領主とウクライナの農民との間の紛争でした。 (…)さらに、戦間期にポーランド国家に忠誠を誓っていたポーランド農民はポーランド国家を支持し、ウクライナ農民にポーランド国家としてのアイデンティティを示し、永遠に排除されなければならない領主世界の一部となった。ソビエトは、1939 年から 1941 年にかけて、反ポーランドのプロパガンダによって、この必要性に対する意識の向上に特に貢献しました。その結果、正統派ヴォルィーニ人の心の中の「主」ポーランドは、これらの地域で彼らを支援し、ポーランド語を話し、教会で祈った人たち全員と同一視された。 (…) ソビエト亡命政府とポーランド亡命政府の間の紛争がヴォルィーニでの出来事に重大な影響を与えたという証拠がある。この紛争は、ロンドンのポーランド政府がソ連が同盟国の同盟者であるためソ連に協力すると宣言した1943年の冬以来続いていた。しかし、この協力は1939年9月1日のクレムリンの国境認識に基づくものであった。もちろん、これに続き、ソ連はポーランド人を帝国主義、ウクライナ人とベラルーシ人の同胞をポーランド排外主義者から守る必要性などで非難した。この紛争の後、ヴォルィーニでのポーランド人の虐殺が始まった。 1943 年 7 月のポーランド文書の 1 つに、ソ連の政策がポーランドの流血の主な原因であると書かれています。

ウカシュ・カミンスキ氏、ポーランド国民記憶研究所所長 ポーランド国民記憶研究所所長のラズマ氏は、ヴォルィーニ事件に対する自身のビジョンについて次のように語った。 「許し、謝罪する」時代が来たのでしょうか?これらの言葉は適切ですが、双方がどのような犯罪が含まれているかを理解し、それを認識している場合に言うべきです。ポーランドの多くの人々は、これらの言葉は時期尚早であり、和解プロセスの集大成であるべきであり、真実と記憶の基礎を築く瞬間に言われるべきであると信じている(...)ポーランド人もウクライナ人もほとんどがそうである。何の問題について話しているのかよくわかりません。ヴォルィーニ人の虐殺はポーランド人とウクライナ人のごく一部にしか影響を及ぼさなかったため、その記憶はいまだ広く伝わっていない。私はこれを説明として扱います。これらの言葉は言うべきですが、それは両国の社会の大多数がその内容を認識している場合に限ります。 (…) 最近、ウクライナ人のアイデンティティの形成は主にソ連政府に対する UPA の戦いの美化と結びついている。したがって、歴史の「黒」ページを評価する必要がある。今日、このプロセスの最も重要な要素は、歴史家の対話、研究、文書の出版、これらの文書をめぐる議論、事実の比較、ポーランドとウクライナの犠牲者のリストの作成です。さらに、私たちは犠牲者に尊厳を持って敬意を表すること、つまり埋葬場所を示し、墓地を創設し、記念碑を建てることについて話しています。 (…) あらゆる歴史的出来事には独自の文脈があります。私たちはすべてが起こった状況を理解する必要があります。しかし、歴史的背景を理解することと、犯罪を正当化しようとすることの間には、紙一重の境界線があります。第二ポーランド共和国(ポーランド、1918年から1939年)の複雑な問題、当時の国家政策、そして犯した間違いを扱わなかったポーランドの歴史家を責めるのは難しい。一例としては、シュトゥム地域の教会の破壊に関連する活動に関する出版物が挙げられます。ポーランド人は、犯罪が何らかの形で正当化されるという印象を与えないように、事実を結び付けることに細心の注意を払っている。

オレクサンドル・ジンチェンコ氏、ウクライナ国立記憶研究所副所長 Volynnewsが引用したオレクサンドル・ジンチェンコ氏は次のように述べている。 楽観的な見方ができる一方で、私たちは非常に微妙な境界線をたどっているという感覚もあります。現在、歴史家、特にウクライナとポーランドの国家記憶研究所の間で対話が望まれている。私たちは、より広範囲のアーカイブ資料にアクセスし、ウクライナ、ポーランド、その他の国のアーカイブに保管されているものの一種の目録を作成するために、共同グループとして協力することに合意しました。 私たちは教育活動の必要性も理解しています。たとえば、調査によると、ウクライナの人口の約90%はヴォルィーニでの悲劇的な出来事について何も知りません。 もちろん、ポーランド人とウクライナ人の間には記憶に一定の非対称性があり、この歴史に対するウクライナ人とポーランド人の見方についての知識にも一定の非対称性があります。 (…)ウクライナ人もポーランド人も、自分たちの歴史をよく知りません。彼らは隣人の歴史をさらによく知っています。私たちウクライナ人はひどくウクライナ中心主義であり、ポーランド人はポーランド中心主義であり、1939年から1947年の紛争という正規の枠組みに先立つ事実に関連した因果関係を周囲を見回して理解することは、しばしば非常に困難です。何十年、何世紀にもわたって。 同時に、和解プロセスはウクライナとポーランドの大統領だけの問題ではない。できるだけ多くの人を対話に参加させることが重要です。 (…)残念ながら、双方に殺人事件があったと言えます。しかし、この事実を認めることは、もちろん、ウクライナ人による殺人の事実を正当化したり、軽視したりすることを意味するものではない。

アントン・ドロボビッチ氏、ウクライナ国家記憶研究所所長
2年前、ヴォルィーニ虐殺の次の記念日の前夜、ウクライナ国家記憶研究所所長はこう強調した。 すべての犯罪者は有罪判決を受けなければなりません。私たちはまだその途中にあります。つまり、私たちの無知が政治家の憶測や敵意の肥沃な土壌にならないように、専門的な研究と出来事の評価に特別な注意を払わなければならないことを意味します。ポピュリズムや口論のない、誠実な科学的議論、調査、アーカイブの研究こそが、私たちの国に欠けているものなのです。

イホル・ハワヒダ、歴史家、グダニスク大学歴史学部教授、国家記憶研究所研究員
昨年のインタビューで、ハワヒダ教授は政治家に対し、この問題に取り組まず「パラダイムを変え、被害者に注目を集める」よう呼び掛けた。 ポーランドでは、1939年から1947年にかけて少なくとも10万人がウクライナ人の手によって死亡したと公に言われている。ポーランド人(6万人を含む)ヴォルィーニで。同時期に、ヴォルィーニでの1~2,000人を含む1万人のウクライナ人が殺害された。しかし、これらの数字を最後まで実際に検証した人は誰もいません - それはウクライナの歴史家にとっては庭の小石です - そしてそれが今、私たちがヴィスワ川に散らばったポーランド人の犠牲者の数を目にする理由です:12万人、15万人、20万人…。その一方で、ポーランドではウクライナ人の犠牲者の話題は公の場にほとんど掲載されておらず、当然のことながら軽視されている。 (…) 私たちが本当に何かをしたいのなら、両側の犠牲者の名前を集めて、数えて、彼らの墓を探しましょう。人々は単に死んだ、多くの場合全く無実の人々が死んだので、彼らを忘却から救ったという事実に注目しましょう。

ラファウ・レスキェヴィチ氏、ポーランド国民記憶研究所(ポーランド)広報担当
唯一の期待と要件は、宣言的にではなく実際に探査活動の開始に同意することです。 (…) ウクライナで進行中の戦争は、ポーランド人とウクライナ人の団結力と自然に助けようとする意欲を示している。歴史的文脈において、重要な意思表示であるが、宣言ではなく事実の領域においては、ヴォルィーニの犯罪の犠牲者の捜索と発掘作業を開始することに同意することになるだろう。 (…)ウクライナ側とポーランド側の両方に犠牲者がいた。私たちはまた、ポーランド人を助けた約1,200人のウクライナ人の犠牲者を覚えている。また、ポーランド人を擁護し、UPAの手でポーランド人とともに亡くなった隣人である彼らにも敬意を表する。 。これは共同記念とさらなる協力にとって良い機会です。

ヴォルィーニ虐殺に関するポーランドとウクライナの対話
残念ながら、ヴォルィーニ人の虐殺に関するウクライナとポーランドの関係における対話は非常にゆっくりと進んでいる。 8年前、ウクライナ国家記憶研究所とポーランドの間の交渉の結果、歴史家の共同グループ、いわゆる歴史対話フォーラムが設立された。この専門家グループは、1939 年から 1947 年という最も困難な歴史的時期の分析を担当しています。このグループは双方6名の歴史家で構成されており、年に数回会合を持ち、死者数を含む新たなアーカイブデータや事実を調査することになっている。このような専門的な対話は、歴史的事実について可能な限り多くの共通の視点を見つけることを目的としています。 2015年、「20世紀におけるウクライナ独立戦士の法的地位と記念に関する法律」はポーランドで大きな反響を呼び、UPAの活動の非難を禁じ、ヴォルィーニにおけるポーランド国民の殺害を規定した。そしてポーランド占領に対する民族主義勢力の地下戦争の結果としてのガリシア。しかし、ウクライナは、ポーランドのUPA集団墓地の記念銘板の破壊や、ソ連NKVDとの戦闘で死亡した反​​乱軍兵士の記念碑や墓の冒涜に対して鋭く反応した。誤解が深まった結果、ウクライナ側はポーランドの機関によるウクライナでの発掘作業を禁止した。 ウクライナ国立追悼研究所のアントン・ドロボビッチ所長は最近のインタビューで、ポーランドにある破壊されたウクライナ人の墓がまだ修復されていないため、キエフはウクライナ領土内で殺害されたポーランド人の掘り起こしに同意できないと述べた。 ukraina.pl ポータルが poznasci.wp.pl を引用して伝えたところによると、ポーランドのパウェウ・ヤブロンスキ外務副大臣は、犠牲者の遺骨の発掘と尊厳ある再埋葬に関するいかなる条件も不適切であると答えた。 犯罪の犠牲者は追悼されるべきであり、彼らには埋葬される権利がある(…) この問題がウクライナのEU加盟前に結論づけられ、解決されないとは私には考えにくい。個人的には想像もつきません。

ウクライナとポーランドの教会が和解を求める
ヴォルィーニの悲劇から80周年を迎える前夜、ウクライナのギリシャ・カトリック教会(スヴャトスワフ・シェフチュク)とポーランドのローマ・カトリック教会(スタニスワフ・ガンデツキ)の指導者は、80年前の犯罪を非難し、和解と和解を求める共同アピールに署名した。ウクライナとポーランド国家間の統一。 UGKCの責任者が指摘したように、それはすべてを忘れたり正当化することではなく、過去の悪を克服し、私たちを団結させるものに焦点を当てることです。 今日、ブツ、イルピン、ホトムルで集団墓地が発見されて以来、私たちは皆、加害者を明確に指名し、犠牲者を掘り起こし、適切な埋葬と人類の記憶に対する彼らの権利を尊重することがいかに重要であるかを理解しています。 スヴャトスラフ・シェフチュクは、教皇ヨハネ2世をポーランドとウクライナの和解の道の守護者と呼び、ポーランドとウクライナの国民の接近を後援した。 ポーランド聖公会会議のスタニスワフ・ゴンデツキ議長は演説の中で、犠牲者の遺体の掘り起こしを必要とする虐殺のすべての犠牲者に敬意を表するよう努力するよう両国の大統領に呼び掛けた。


ほとんどのポーランド人はヴォルィーニ人の虐殺に対するウクライナ大統領の謝罪を待っている
2023年6月5日から18日にかけて世論調査センター(CBOS)が実施し、その結果がPAPによって発表された調査によると、ポーランド国民の大多数は、現ウクライナ大統領ヴォロディミル・ゼレンスキーはポーランド人に公式に謝罪すべきであると信じている。 80年前にヴォルィーニで犯された犯罪に対するウクライナ人の代理として。調査によると:
ポーランド人の回答者の50%は、彼が謝罪すべきであることに何の疑問も抱いていない。 また、28%はウクライナ大統領が謝罪すべきだとしているが、これは戦後にできることだ。 ポーランド人の13%は、ウクライナ国家元首が謝罪すべきだとは考えていない。 9% はこの質問に対する正確な答えを持っていません。
同時に、ポーランド国民の53%は、ポーランド人とウクライナ人の共通の歴史がむしろ両国を分断していると信じている(反対の意見を表明したのはわずか31%)。しかし、ポーランド人の78%はポーランドとウクライナの現実の和解に信頼を表明した。
ウカシュ・アダムスキーはラジオ・ヴォルノシッチのインタビューで次のように強調した。

ポーランドは少なくともウクライナが、ヴォルィーニ州とガリシア州のポーランド人が一部の「緑の小さな男たち」によってではなくUPAによって殺害されたことを認めることを期待している。これまでのところ、ヴォルィーニに関するウクライナとポーランドの言説には、この犯罪の加害者や作者を示唆するようなウクライナ国家の行為は一つも存在しない。それは相互殺害に関するものであり、ウクライナとポーランドの地下組織が互いに戦っていて、そのために残念なことに民間人が苦しんでいるという事実についてのものであり、この解釈はかつてUPA指導者自身が彼らの犯罪を軽視するためにでっち上げたものであった。 したがって、ポーランドの歴史家は自信を持って次のように述べています。

ウクライナが国家としてヴォルィーニでの行動に責任を持つことはそれほど重要ではない。彼女が責任を持ってこの犯罪の状況を正直かつ正確に伝えることが重要です。そして、ドイツ人には法的責任があることを思い出しましょう。占領者として民間人に対する盗賊の攻撃を許可し、占領国の治安を確保できなかったのはドイツ人だったからです。

ウクライナ人はヴォルィーニ虐殺の悲劇をどう受け止めるべきでしょうか?

ポーランドとウクライナの歴史の中で最も悲劇的なページの一つとして今日に至るまで残っているヴォルィーニの虐殺は、ポーランド人とウクライナ人の関係を悪化させることに関心のある勢力によるプロパガンダと操作の「お気に入り」のテーマであり続けている。したがって、この問題が両国レベルで論理的に解決されるまでは、この傷は癒え始めることさえできないことを理解しなければなりません。それには、悔い改めと許しだけでなく、出来事に対する共通の評価を発展させることが必要です。

ウクライナの著名な歴史家ヤロスラフ・ダシュケヴィチは1994年に次のように書いている。
1942年から1944年にかけてウクライナ西部のポーランド人に対するテロがあったことは疑いの余地がない。たとえポーランドの悪事への復讐という考え、ドイツとロシア側からの挑発、両国の協力によってそれを正当化しようとしても。共産主義ロシアとの国内軍[...]などは厳しく明白な非難に値する。

今日、ポーランドは独立戦争においてウクライナ国民に対して前例のない支援を示しています。ヴォルィーニ人の虐殺問題が非常に重要である民族主義者界ですら、ウクライナとロシアの戦いについては圧倒的に肯定的だ。したがって、今日のウクライナ人、特に現在ポーランドに住んでいる人たちは、ヴォルィーニ虐殺をめぐるポーランド人の感情に同情すべきである。結局のところ、この悲劇を自ら目撃した人、あるいは虐殺で愛する人を失った人がまだ生きているのです。したがって、ウクライナ人には確かにその権利があり、当然である彼ら自身の愛国心の表明において、ポーランドとウクライナの歴史の依然として存在する痛ましい点を思い出す価値があります。そして、並外れた思いやりと繊細さをもって彼らに接します。







 ~~~ 責任転嫁 ~~~

↑の ポーランド人とウクライナ人の
有識者や学者達のそれぞれの見解

これらの文章の読むと、
特に加害者側が
ソ連ドイツせいにする箇所が見られる。
気持ちとして分かる、
自分達がした事を恥じているはずだ。

・・・が潔く認め、謝罪し、
後に伝えていくべきだと思う。

決めたのも、実行したのも、
OUNであり、UPAであり、ウクライナ人である
 という事実を変えることはできないのだから。


ただ、
もしかすると 心の中では
あくまで正しい事をしたまでだ、
と思っている可能性はある。
それは、
現在でもネオナチが活動して
いる事を見れば想像がつく。

現在の対象は、
東部ドンバス地方のロシア系住民に変わってはいるが。











ポーランド人の大多数は、ウクライナとゼレンスキーは第二次世界大戦中のヴォルィーニ虐殺について謝罪すべきだと考えている

2023.7.12
新たな世論調査によると、ポーランド人の53.1%が、ウクライナとウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ウクライナ民族主義者によって10万人以上のポーランド人が殺害されたヴォルィーニ虐殺について謝罪すべきだと考えている。世論調査では、「あなたの意見では、ウクライナとウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ヴォルィーニ虐殺についてポーランドに謝罪すべきですか?」という質問が出された。
肯定的に答えた回答者の53.1%のうち、34.2%が「絶対にそう思う」、18.9%が「どちらかといえばそう思う」を選んだ。一方、36.2%は異なる意見を持っており、そのうち19.3%が「どちらかといえばそう思わない」、16.9%が「絶対にそう思わない」を選んだ。さらに10.7%の回答者は「わからない」と答えた。

7月11日、ポーランドは「ウクライナ民族主義者が第二ポーランド共和国の市民に対して行った大量虐殺の犠牲者」を追悼する国民記念日を祝った。1943年のこの日、ヴォルィーニ虐殺の頂点とも言える、いわゆる血の日曜日が起きた。

これはウクライナ民族主義者が実行した反ポーランド民族浄化であり、大量虐殺と特徴づけられた。ヴォルィーニだけでなく、ポーランドの東ガリツィアを構成するリヴィウ、タルノポリ、スタニスワフフの各地域、および西のルブリンおよび北のポレシェの隣接地域の一部にも影響を及ぼした。

7月7日、マテウシュ・モラヴィエツキ首相はウクライナのオストロヴェク村を訪問し、犠牲者に哀悼の意を表した。ポーランド首相はろうそくに火を灯し、祈りを捧げ、村の住民の子孫とともに木製の十字架を立てた。

7月9日、アンジェイ・ドゥダ大統領はウォロディミル・ゼレンスキー大統領とともに、ルーツクの聖ペトロ・パウロ大聖堂で虐殺の犠牲者に哀悼の意を表した。

ポーランド共和国大統領府とゼレンスキー大統領のツイッターアカウントは、同時に同じ投稿を投稿し、政治家たちは次のように書いた。「私たちは共に、ヴォルィーニのすべての罪のない犠牲者に哀悼の意を表します! 記憶が私たちを結びつけます! 一緒にいれば、私たちはより強くなります。」








ポーランド外務副大臣「ヴォリン事件の犠牲者の遺体掘り起こし問題を解決しない限り、ウクライナはEU加盟を考える理由はない」

2023年11月  ~ ”TOP WAR”

ポーランド外務省は、ウクライナの欧州連合加盟申請の承認要件の一つについて語った。 ポーランド外務省のパベル・ヤブロンスキー次長によると、まず第二次世界大戦中のヴォリンでの事件で死亡したポーランド人の遺体の掘り起こしの問題を解決する必要があるという。

ヤブロンスキー氏はポーランドのラジオ局とのインタビューで、ヴォリン虐殺事件の捜査がワルシャワによるウクライナのEU加盟申請承認の基礎となると述べた。






ポーランド新政権の行方、ドゥダ大統領は法と正義に政権樹立を命じる

2023.11.8
選挙後もポーランドとウクライナの関係はぎくしゃくしたまま

(中略)
さらにポーランドのヤブロンスキー外務次官は7日、ポーランドのEU加盟協議に関連して「ヴォルィーニの悲劇で死亡したポーランド人遺骨の発掘問題が解決しない限り、ウクライナはEU加盟を夢見ることは出来ない。同問題の解決なくしてウクライナとの長期的な和解はあり得ないことを断固として強調する」と述べた。

出典:Jwdys/CC BY-SA 4.0 ヴォルィーニの悲劇を追悼する行進

ポロシェンコ大統領はウクライナ蜂起軍(UPA)の記念碑をポーランドが取り壊したことを受けて「国内でのポーランド人遺骨の捜索・発掘」を禁止、これをゼレンスキー大統領が解除して2019年11月に「ポーランド人遺骨の捜索」が再開されたものの、次回の捜索許可に「冒涜されたUPA兵士の墓を修復すること」を要求、ポーランド側は破壊された墓を修復したもののソ連軍との戦いで戦死した兵士の名前はなかった。

今年10月にポーランド側は新たな捜索許可を要求したが、ポーランド人の大多数はヴォルィーニの悲劇に関する「無期限の捜索・発掘許可」を望んでおり、この問題を解決しない限り「ポーランドはウクライナのEU加盟を認めない」と言っているのだ。

ハンガリーも「ウクライナ西部に住むハンガリー人約8万人の扱い」を理由にウクライナのEU加盟を阻止する構えで、欧州諸国は「ウクライナのEU加盟は相当厳しい」と見ている。






ポーランド政府がウクライナによる虐殺の歴史を見直し(書き換え)


2024年2月17日

https://twitter.com/sputnik_jp/status/1758667182161219642

     ↓
   同様に

2024年2月のロシア・ウクライナ関連の安斎育郎さんのページの③でも触れられている

❸ポーランド政府がウクライナによる虐殺の歴史を見直し、SNS で猛反発(2024 年 2 月 17 日)
ポーランド教育省は、学校の教科書からウクライナ民族主義組織による「ポーランド人の虐殺」や「#ヴォルィーニの虐殺」といった表現を削除し、「ポーランドとウクライナの紛争」に置き換える提案を行った。
🔸「ヴォルィーニの虐殺」は 1943 年から 1944 年にかけて発生。#ナチス・ドイツ が占領したウクライナ西部のヴォルィーニで、ナチス側に協力した #ウクライナ蜂起軍 (#UPA)が最大で 10 万人のポーランド系住民を虐殺したと言われる。
🔸ウクライナの歴史では「ヴォルィーニの悲劇」と記述されており、「虐殺」の文言は使用されていない
ため、今回の提案はウクライナ側に配慮した形となっている。
🔸政府の取り組みについて、ポーランドの SNS ユーザーからは批判の声が上がっている。
💬「兄弟」が我々をノコギリでバラバラにし、熊手で突きさし、目をえぐり出し、舌を切り落とした。新生児はドアに釘付けにされた。後になって誰がそれを信じるのか。
💬私たちが歴史を尊重しなければ、誰がそれを尊重するのかわからない。
💬まだ(ポーランド教育省は)ヨーゼフ・ゲッペルス記念人民啓蒙省に名称変更していませんか。 ☝️
なお、この虐殺ではユダヤ人やソ連兵の捕虜も犠牲になったと言われている。

         ー  ー  ー

安斎育郎さんはウクライナ情報を連載されている









   ー   ー   ー

 --- 小さく まとめると ---

最近のここまでの流れを見ると…

(ここに至るもっと段階で、
ポーランド系住民はウクライナ人に比べて比較的裕福で、富農には小作人か農奴扱いをされていた場合もあった。その為、恨み劣等感のような感情もあったのではないかと思う。
他に、この土地一帯では国境が常に変わっていた、という事も原因だと思う。)

・2000年代から”ヴォルィーニ虐殺”を公にし始める。
ポーランド側は、実は虐殺を根に持っていても殆ど沈黙。
(敬虔なカトリック教徒であり、”許す”事を重要視している)

・2014年、マイダンを皮切りにウクライナ紛争が始まり、
ウクライナ・ナチズムの活動が拡大する。
(ポーランドは懸念)

・2016年 ポーランドで血の日曜日を国民の日として制定。

・ポーランドとウクライナとの関係がギシギシし始める。

・2022年 ロシアがウクライナに軍を出したのをきっかけに、
ポーランドとウクライナの歩み寄りが始まる。

・2024年 ポーランドが、ヴォルィーニ虐殺はなかった?ような歴史改ざんを始める。
(政治と国民感情は、日本でも同様だが 必ずしも同じではない。)







   ー   ー   ー


他、これまでの追加分を含む


2022年7月 (”ポーランド・アメリカ・コングレス”のページより)

ヴォルィーニ虐殺79周年にあたり、公式謝罪が必要です。 「血の日曜日」として知られる事件から79年が経ちました。この事件は、ヴォルィーニの村や町に住むポーランド人住民の殺害の頂点でした。ポーランド議会の決議に従い、ウクライナ民族主義者がポーランド第二共和国の市民に対して行った虐殺の犠牲者を追悼する国民記念日として、毎年7月11日に記念式典が行われます。





2013年1月6日のブログ
「ポーランドの痕跡をすべて消し去れ」:1943年ヴォルィーニ虐殺記念日

「ポーランドの痕跡をすべて消し去れ。カトリック教会とその他のポーランドの祈祷所の壁をすべて破壊せよ。中庭の果樹園と木々を破壊し、そこに誰かが住んでいた痕跡を残さないようにせよ。ポーランドの痕跡が残っていると、ポーランド人が我々の土地を狙うようになるという事実に注意せよ。(後略)」

2013年1月8日のコメント
私のポーランド人の母はウクライナ人を憎んでいました。戦争中、彼らは彼女の家族を殺しました。数年後、彼女は今ウクライナにある自分の村に戻り、そこに何があるのか​​を見ました。彼女は家に行き、そこで殺されたポーランド人を覚えているか人々に尋ねました。
ウクライナ人は、ポーランド人はそこに住んでいなかったと言いました。

その後、彼女は村中を捜索し、殺されて集団墓地に投げ込まれたポーランド人のために墓石や墓碑を建てた人がいないか調べました。
墓石も墓碑もありませんでした。






記憶を失ったウクライナ住民たち…!? このけだもの達のことを決して忘れないで!

2014 年 2 月 26 日
上の写真は約70年前に撮られたものです。写真の子供は、クティ村(西ウクライナ、イヴァノ・フランキウスク地方、コシウ地区)出身の2歳のチェスラヴァ・ハジャノフスカヤちゃん。天使のような表情をした子供がカメラのレンズを覗き込んでいます... これが彼女の最後の写真です。 1944 年 4 月、クティ村がバンデラに攻撃されました。眠っているチェスラヴァさんは夜、ベビーベッドの中で銃剣で刺殺された。何のために ? — 彼女はウクライナ人ではなかったからです。
   ・
   ・
   ・
(後略、閲覧注意)





タデウシュ・イサコヴィチ・ザレスキー、本名タデウシュ・ボダン・ザレスキー

ポーランド系アルメニア人アルメニア語ラテン語の儀式のカトリック司祭、障害者牧師、財団理事長。アルバート兄弟社会活動家、アルメニア・カトリック教会の牧師[4] 、ポーランド人民共和国時代の反共産主義野党の長年の参加者、作家詩人広報担当

国境地帯での大量虐殺を追悼

2008年、彼はポーランド当局に対し、ヴォルィーニにおけるOUN - UPAによるポーランド人虐殺ヴォルィニ人の虐殺)と小ポーランド東部におけるポーランド人虐殺リヴィウ、タルノポリ、スタニスワフフの各県における民族浄化を非難するよう訴えた[28]。長年にわたり、彼はこの犯罪の犠牲者を追悼しようと努めた

2009年7月1日、ルブリン・カトリック大学によるヴィクトル・ユシチェンコへの名誉博士号授与に反対してルブリンで抗議活動を組織した[29]。彼はポーランドを通過する「バンデラ集会」に対する抗議活動に貢献し、これがウクライナ民族主義者らによる殺害の脅迫につながった[30]。 2010年2月5日、当時辞任するユシチェンコ大統領がバンデラをウクライナの国民的英雄として認めたことと、この問題におけるポーランド当局の消極的な態度に関連して、彼は抗議活動を共同組織した。この日、ワルシャワのウクライナ大使館とポズナン、ヴロツワフ、クラクフ、ルブリン、グダニスクの総領事館前でピケが行われた[31]

彼はまた、自身が設立したクレソワ財団「メモリア・エ・ベリタス」の会長であり、国境地帯に関する知識を競う毎年の学校大会の主催者でもあり[32]、記念碑「ヴォルィニアン虐殺」の建設のための名誉委員会の委員長でもあった。 、教授によって彫刻されました。Andrzej Pityński 、ポドカルパチェのヤロシンコミューンのドモスタワ村にて[33]。また、「ヴォルィーニからポウォンツキへ」というスローガンのもと、「コミュニティと記憶」協会のキャンペーンも支援した[34]

2022年と2023年、彼とポーランド共和国のアンジェイ・ドゥダ大統領との間で激しい論争があり、OUN-UPAによって殺害されたポーランド人の埋葬に関する2015年の選挙公約を守らなかったと彼を非難した[35] [ 36]。 2023年7月8日、ワルシャワのメトロポリタン大聖堂前およびポーランド聖公会の記者会見中に、彼はウクライナにおける虐殺犠牲者の発掘と埋葬の禁止に抗議した。抗議活動は教会当局の呼びかけによる警察の介入により終結した[37]

(後略)







volhyniamassacre.eu サイト(歴史や解説の資料あり)
 フォトギャラリー






口絵(カバー)写真はこちらから

かつてポーランドの村だったマリア・ヴォラの空き地に立つゾスカという女性。

ニューヨークタイムズ 2019年5月21日 こちらより

1943 年東ヨーロッパでの虐殺の記憶を取り戻す マクシミリアンとマグダレーナ・リガモンティは、第二次世界大戦中のヴォルィーニ虐殺で亡くなった人々のために、遅ればせながら記念碑を建てました。

ウクライナ西部の草原に、かすかな雲が漂っている。その下には葉のない木が一本立っており、その下にあるもの、つまり私たちには見えないものが、この写真の核となっている。 ポーランドの写真家マクシミリアン・リガモンティは、かつてはトルピエ・ポレ(「死の野原」)として知られていたポーランドの村を何度も訪れた後、この写真を撮影した。当初、彼は言葉にできないことをどう表現したらよいか分からなかった。彼は、1943年8月にウクライナの民族主義者が約300人、主に女性と子供を殺害した場所の近くに立っていたのだ。 彼はこの雲を、集団墓地の場所を示す方法とした。

1943年から1945年にかけて、ウクライナ反乱軍のメンバーは、ナチス占領下のポーランドにあり、現在のウクライナの一部であるヴォルィーニ地方で何千人ものポーランド人を虐殺した。ポーランドの歴史家は、死者数は10万人に上る可能性があるとしているが、ウクライナ人は2万人から3万人だと主張している。2016年、ポーランド議会は殺害をジェノサイドと認定したが、ウクライナはこの用語を否定している。
(後略)





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再び、第1回で紹介した

映画 ” ヴォルィーニ ”

主人公の姉の結婚式
姉の結婚式での場面

事件の概要を知った今、映画 ” ヴォルィーニ ” を もう一度見てみた。ポーランド語もウクライナ語も解らないが、俳優も女優も子役達も自然に演じていて(上手)、実際の人物を見ているように感じた。

主人公の女性は2度も 見つかり危険な目にあったが、不思議と見逃されている。
虐殺を行っていたのも、ウクライナの民間人だった。子供を抱く若いポーランド女性を手に掛けるのには忍びない、と思ったのか、加害集団の男がひるんでいる (演出がされている)。加害者達も集団心理を利用されて駆り出されただけだったのかもしれない。(被害者に そんな事は関係ないが。)







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https://jedynka.polskieradio.pl/artykul/2165918,Czy-na-wsp%C3%B3%C5%82czesnym-Wo%C5%82yniu-istnieje-pami%C4%99%C4%87-o-wydarzeniach-lat-40
https://muzhp.pl/wiedza-on-line/wolyn-80-lat-od-tragedii
https://www.rmf24.pl/fakty/polska/news-morawiecki-o-rzezi-wolynskiej-nigdy-nie-pozwolimy-na-zaklama,nId,5352290#crp_state=1








ここまで数カ月間
調べをして、沢山の記事を読んできたが、
この事件は、積極的に語られていなかったし、
国際的に見てもあまり触れたくない出来事のように感じた。
同時期に起きたユダヤ人に対するジェノサイドとは違い
マスコミは話題にすることはなく、
逆に、ほぼ封印されてもいた。

これからも、他に責任転嫁したりもしながら、
当事者のみがちょこちょこ話題にはするだろうが
今後 忘れ去られていくのだろうか。


犠牲者の方々の無念や苦しみを思い、
哀悼の意を表します。




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ジェノサイドとは


”ヴォルイーニ虐殺”は、
ウクライナ人の
対ポーランド人についての民族浄化だが、
ウクライナ人の
対ユダヤ人ホロコーストも同様で酷かった。


が、
ホロコーストは記述もかなり多く
有名であるので、今回は触れていない。

「genocide」(ジェノサイド)という言葉は、1944年より前には存在しませんでした。これは非常に特定的な言葉で、あるグループの存在を抹消することを目的として行われる暴力的な犯罪行為を意味します。





ジェノサイド繋がりで…

マイダネク強制収容所跡博物館


ポーランド東部の
マイダネク強制収容所跡博物館を訪れたことがある。

”・・・戦後、ポーランド側発表によると、さらに下方修正されて約36万人以上が死亡したと主張した、その発表によるとマイダネクの死者で一番多いのは、ポーランド人であり、ユダヤ人ロシア人と続くとされた。 2024年6月現在、マイダネク博物館の公式発表では、さらに下方修正されて、犠牲者数は8万人であり、うちユダヤ人は6万人とされている”


1993年暮れに 自分が 訪れた時、
雪の積もった日の夕方に訪れたので訪問客も少なく、日も落ちた4時頃から職員が後ろについて回って鍵を掛けていた。(今は知らないが、東部のポーランド人はロシア語を話せると聞いていたので) 挨拶して、「もう閉めるんですか?」と尋ねてみた。「閉めますよ」と、久しぶりにロシア語を発音するのか、口が回りにくそうに言った。

「ここでは大勢のユダヤ人が亡くなったのですね?」と問うと、目を丸くして「どうしてユダヤ人はいつも自分たちの事しか言わないんでしょうね。ここではポーランド人もロシア人も沢山 亡くなりましたよ」と答えて表情を曇らせた。



それまで自分は、アウシュビッツも含めた強制収容所では、ユダヤ人だけがジェノサイドされていたのだと思っていた。
ユダヤ人ってなんてかわいそうな人達なんだろう、聖書では神に選ばれた人達と書かれているのに、祖国を失って散らばされてしまった。自分は音楽が趣味だが、有名な音楽家もユダヤ人に多い。
もちろん ”アンネの日記” も読んでいたし、TVのドキュメンタリーでもホロコーストに関しても、それまでも沢山見ていた。



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この時から 少しずつ世界を見る目が変わり始めた

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どんな歴史も
都合のいい事しか言わない。
利用する為に広める、覚えさせる。
改ざんする。
・・・・・という事があり得る、と知り始めた。























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