自信についてと、「そんなの無理だよ」への抵抗
「カフェをつくろうと思っていて」
と言うと、わりとよく「コーヒーだけでは難しいよ」「お菓子もつくったら?」「ご飯も出さないとお客さん来ないんじゃない」と心配される。
そのたび苦笑いで「やりながら、お菓子やご飯も考えてみます」と返す。ここで反論しても良いことがないってことは、三十数年間生きて、さすがにわかっている。
誰しも親切心でアドバイスをくれているのはわかる。けれどわたしは偏屈なので、「わたしの人生なのだから好き勝手やらせてほしい」と思ってしまう。仮に失敗したとしても、それだって人生の味わいだしさ。
そんなことを考えていて、気づく。わたしは基本的に、誰かが何かをやりたいと想いを語っている時に「そんなの無理だよ」と思うことがほとんどない。なぜなら、もし一般的に難しそうな事柄だったとしても「この人が言うのだから、きっと何かわたしの知らない方法があるんだろうな」と考えるから。
思えばわたしはずーっと自信がないまま生きてきたので、「みんなすごいな」という気持ちがベースにある。他人のすごいところを見つけるのが得意なのは、そういう理由なのかもしれない。
でもそれで「みんなすごいな」から「わたしなんて」になってしまうと健やかではないので、わたしはその「みんな」と比べようもない、自分オリジナルの道を進むことで「みんなすごいな」でも「わたしはわたし」と、あたかも自信があるような心持ちで生きられている。
話を戻すが、カフェを生業にするのが難しいことは、わたしも重々わかっている。
もう5年以上前から「いつかカフェを」と思い始め、いろいろと調べていく中で「カフェだけで生計を立てるのは自分には難しそうだ」と思い、そうではない道を選んだ。具体的に言えば、物販事業でちゃんと柱を立ててから、お店づくりに移ったのだ。そこまでは話していないから、「難しいよ」と言う人たちはその経緯を当然知らない。だから仕方がないとも言えるけど、逆に背景を知らないまま「難しいよ」と言えてしまうのも不思議でならない(偏屈発揮)。
その人が、人生をかけて、何かをやろうとしている時。
きっと、たった今ほんのすこし表面的に聞いた自分には、わからないことがたくさんある。もちろん自分の経験から何か言える時もあるだろうけど、それだって相手が必要としている時にだけ差し出せばいい。万が一上手くいかなかったとしても、致命的な失敗でない限りは、その人の人生の味わい深さが増すだけなのだから。
ちなみに、「カフェをつくろうと思っていて」と言っても、「それはいいね!」と返してくれる人もたくさんいる。わたしのことを良く知ってくれている人はもちろん、初対面の方でも。「おもしろそうだ」と思ってくれているのが、表情から読み取れることも多い。
そういう人達の中には「枠」が無いのだな、と感じる。「カフェはこうあるべき」だったり、「こうでないと商いは成功しない」だったり、そういうもの。自分が知らない世界への柔軟性。世界が広いと、知っているということ。
結局のところ、わたしは誰かに「そんなの無理だよ」と言われてちょっと落ち込んでしまうぐらいのメンタルなので、「それはいいね!」と人生をおもしろがっている人達になるべく囲まれて、折れやすい心を励ましながら、自分の道を進んでいけたらいいなと思う。
おわり
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