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もう背負わないっていう選択も、できるのだよね

「そんなもの、大切に抱えなくていいのに」と思うような言葉を、"背負っていく呪い" として、手放さずにいることがある。

ここ最近、そういう人から話を聞く機会が重なった。

例えば、子どもの頃に親から言われた「あんたはダメね」とか、昔の恋人から言われた「重過ぎてめんどうくさい」とか。それらの言葉をそのまま自分への呪いのように、頭のなかでリフレインし続けてしまうような。

話を聞きながら「わかるなあ」と、わたしはひとり、こっそり思う。

実は最近、わたしも長らく自分への呪いを握りしめていたことに気づいた。

昔から、人より背も体も大きい子だった。

小学6年生で身長は158cm。背の順はうしろから2番目。肩幅も広くて肉付きもよく、男子に混じってキックベースをやれば、助っ人外国人的なパワーヒッターを担っていた。

当時のわたしはそれが楽しかったし、周囲も好意的に受け入れてくれていた。自分の背格好が大きいことも、特に気に留めていなかった。

しかし中学に入ると、世界のルールが急変した。突然「見た目」が重視される世界になった。「可愛い」「ぶす」「太ってる」「スタイルがいい」とか、そういう言葉で人をラベリングする人たちも出てきた。

そして結果中学生のわたしは、「でかい」や「太っている」という言葉を死ぬほど浴びるのである。

そう言ってくるのは主に男子で、いじめというよりは、わたしが「うるさいな」と反撃してくるのを楽しんでいるというか、当時もかまって欲しいだけなのだろうとは気づいていたのだけれど、相手に喝を入れながらも、ちゃんとわたしは傷ついていた。

そしてわたしは、その「でかい」や「太っている」という言葉をしっかりと、自分への呪いとして握りしめてしまったのである。

それ以来、自分の見た目にすこぶる自信がなくなってしまった。それまでなんとも思わなかった身体も、醜いような気がしてしまう。誰かから不快だと思われているんじゃないか、一緒に居たくないと思われているんじゃないか。そんな被害妄想まで、繰り広げながら。

高校生になっても、大学生になっても、そして社会人になっても、わたしはずーっと呪いを握りしめたままだった。自分に自信がなかった。背の高さを隠すように猫背になり、体のシルエットが出ないような服を選んだ。

もうあの呪いを受け取ってから20年も経っているのに、それでもまだそれらの言葉を、わたしは握りしめていたのだ。

そんなことに気づいたのは、つい先日、友達に撮ってもらった写真を見たときだった。

「あれ、わたし、なんか結構いいかも」

と、素直に思えたのである。自分が持っていたセルフイメージよりも、ぜんぜん良い自分だったのだ。

スタイルが良いとか、そういうことではない(そうじゃないことは自分でもわかっている)。

でも猫背じゃない方がキリリとしていて清々しいし、まるみのある二の腕もやさしい雰囲気でいいじゃない。隠すことに注力するのではなく、好きな服を着ている自分も、結構いい。

もちろん、切り取り方が上手で、写りの良いカットだけを選んでくれていることもあるけれど。それにしても。

そこでようやく、気づいたのだ。

わたしは、ずーっと呪いの言葉を握りしめていたのだなと。

頭のなかで繰り返し「自分は人を不快にさせるビジュアルだから、気をつけねばならない」と言い聞かせ、自分を傷つけ続けていたんだな、と。

でも、よくよく考えれば、わたしは中学生の頃のわたしとはもう違うし、それにあれは「太っている」だの「でかい」だの笑ってきた奴の、ただのイチ意見である。

そんな言葉を大事に背負っている必要って、あるのか?

これからもわたしは、その言葉を背負っていたいのか?

自分が自分にかけている呪いに気づくこと。

そして、もう背負わないっていう選択もできると気づくこと。

いつだって、これからの自分は自由。
縛り付けているのは自分自身。

過去にとらわれるのではなく、フラットな自分で、楽しく心地よいこれからを、自分で選びとっていけるように。


|   Photo   |   
taken by kiko   /   retouched by me

おわり
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じぶんジカン松岡
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