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考えるのが得意だと「やってみる」が不足するから

頭でっかちになって、自分のなかで思考を巡らせてばかりになってしまうことが、多々ある。

そういうとき、必ず登場するのは「これはこうなるはずだ」という自分勝手な試算と断定。その根拠は過去の自分の経験だから、とてもとても狭い範囲のイメージ。

考えることが得意で、なおかつ臆病であればあるほど、頭のなかだけで結論を出そうとする。外の反応はいつだって怖い。頭のなかだけであれば、傷つくこともないのだから。

そんなこんなで、圧倒的に「やってみる」が不足していくのだと思う。

職業柄、人の悩みや抱えている課題のはなしを聞かせてもらう機会が多い。それでやっぱり、よく出逢うのが、自分のなかだけでぐるぐるしている悩みだ。

当人は「考えるのが足りない」と思っていたりするのだけど、他人であるわたしから見ると「考える」はもう十分に足りていて。それ以上ぐるぐると頭のなかで悩みを循環させても、きっと同じ景色しか見えないぞ、ということが多かったりする。わたし自身が、よくその現象に陥るからこそ、その気持ちもわかるのだけど。

「やってみる」は、自分のなかにあるイメージを外に放って、世界の反応を見ることだ。想像とは違う反応が返ってくるかもしれない。恐怖がともなうから、勇気がいる。でも本当は、その勇気が欲しいんだって気づけないと、ずっと同じところをぐるぐる回ることになる。

つまりは、ぐるぐる回っているのなら、たぶんそれはもう「やってみる」のタイミングなのだと思う。

自分だけの想像だったものを、世界に放つこと。

それは「自分だけの物語」から「自分と世界の物語」に変換すること。

「これをやってみようかなと思ってて」という話をすると、理由や目的を聞かれることが多い。それはきっと「この人が何かやるからには、なんらかの勝算や考えがあるからなのだろう」と信頼してもらっているからなのかなとも思う。

でもわたしの場合は、冒頭に書いたように頭でっかちになりやすいので、「やってみる」を意識的に大事にしているだけであって、たいていの場合はたいした理由や目的がなかったり。「やってみたら、何かわかるかなと思って」ぐらいの、そんな動機。

実際のところ、やってみて見えた景色はたくさんある。一方で「自分が立てた仮説は全然ちがったな〜」なんてことももちろんある。そんなことを重ねるうちに、「頭のなかで考えるだけでは結局見えないことだらけなんだな」と実感する。思考だけでは、本当の意味では "自分なりの結論" すら出せない。

自分が体験したことがないことも、画面をのぞくだけで情報が手に入る世の中で。頭のなかには絶え間なく「見聞きしただけの情報」が流入するから、頭でっかちになりやすい。

だから「考える」がぐるぐる同じところを回っているなと気づいたら、それはもう「やってみて、どうか」という次の階段を登るとき。

「やってみる」を大事にしすぎるくらいで、ちょうどいいんだと思う。頭でっかちになりやすい、わたしのような人は、なおさら。「やってみる」に理由や勝算なんていらない。「やってみたら、何かわかるかな」ぐらいでいい。

自分を守る心地よい殻をやぶって、外に出るとき。世界の反応を、相手の反応を、見てみるとき。それはたしかに怖いことだけれど、必要なんだって、自分もどこかで気づいているはず。


おわり


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じぶんジカン松岡
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