「自分のため」から広がる世界
「人のため、社会のために頑張れない自分が嫌で……」
という悩みを、友人が話していた。
それを聞いて、とても驚いた。なぜならわたしは、人のためや社会のために頑張ったことが、たぶん、ない。自分にまったくない視点だったから、驚いたのだ。
これまでの人生を振り返ると、あまりの一貫性に笑ってしまうほど「自分のため」に生きてきてる。
一見「誰かのため」にやっているように見えることも、ほとんど自分のためだったり。中学で生徒会長を勤めたのも、学校のためじゃなくて自分がやりたいからだった。塾講師のバイトで時間外労働をたくさんしたのも、生徒のためというより自分がそうしたかったからだ。いま運営している『じぶんジカン』だって、自分のためにやっている。
わたしは、「自分のために頑張ること」を "ダメなこと" だと思ったことがない。
もちろん、人のためや社会のために何かを頑張ることも素敵だと思う。
ただ「人のため」と「自分のため」というモチベーション自体に、優劣をつけて考えたことがないというか。
わたしの場合、どんなこともだいたい「自分」から始まる。
自分が楽しむためには、心地よく生きるためには、何をするのが良いだろう?って。
「それは、自分さえ良ければいいってこと?」と眉をひそめる人もいるかもしれない。でもたしかに、究極のところはそうなのかもしれない。自分が楽しく心地よく生きるのが、一番だいじだ。
ただし、ひとつ重要なポイントがある。
わたしが日々を楽しむためには、周囲の人々にも楽しい気持ちでいてもらう必要がある。心地よく生きるためには、社会が心地よい場所である必要がある。
つまり「自分」は、自分ひとりで完結できない。
わたしは特に周囲の人や環境に影響を受けやすいから、周りの人がイライラしていたり、苦しんでいたりしたら、自分も日々を楽しめない。
だから、周りにいる大切な人たちに喜んでほしい。楽しんでほしい。みんなが楽しんでくれたら、わたしも楽しいから。
根っこが「自分のため」であっても、結局矢印は自分と他人両方に向く。自分は「自分のため」に働いても、それが巡り巡って誰かのためになることだってある。
自分のために何かをすることが、ただ自分にだけ矢印が向いたものになってしまうのは、競争のなかで考えたときのような気がする。
比較の土俵のなかで、自分の優越を確保するために。誰かよりもすごいと思われるために。自分だけが選ばれるために。
それは、「自分のため」というより「自分の体裁のため」だ。
たぶん、そうやって自分の体裁のために何かをしても、「自分」は心地よさを得られない。つまり最終的には、「自分」のためにはならない。
そういう意味では、純粋に「自分のため」に何かを頑張ること、つまり自分の幸福のため、楽しさのため、心地よさのために何かをすることは、「自分の体裁のため」とはまったく違うような気がする。
仕事や人間関係や生活において、なんとなく日々を過ごしていると、本来は手段だったはずのものが「目的」になってしまったりする。
お金を稼ぐことが目的になっていたり、損得で考えていたり。そこから「自分の体裁のため」に繋がってしまうのだろうな、と思う。
だから時折、根っこの部分にある「自分のため」つまり「自分が心地よく生きるため」というのを、思い出す。
そして自分のためにも、まわりにいる大切な人達を喜ばせたいということ、楽しんでほしいということ、幸せになってほしいということを、思い出す。
この軸がブレないように。この循環を忘れないように。まっすぐに。
おわり
「じぶんジカン」では、自分と向きあう時間をつくるノートをお届けしています。
もっと心地よく自分を生きるための一歩目に、よかったらどうぞ。