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ひとりぼっちを怖がらない

ひとりぼっちを怖がらなくなったと思う。以前よりも。

昔のわたしはというと、「友達がいないやつ」になることを恐れていた。

それゆえに、自分と合わない人との関係も一生懸命繋ぎ止めようとした。ノリが合わなくなった旧友や、きっとお互い「なんか違うな」と思いながら付き合っていた会社や仕事関係の人たちなど。

もともと友達が少ないので、「この人たちとの関係がなくなってしまったら、本当に誰とも関わらなくなってしまう」という恐れが働く。

つまりは、ひとりぼっちになるぐらいなら、「なんかちょっと違うな」と思う場所に居続けた方がいい、と思っていたのだ。

「友達がいないやつ」になることを恐れる思考は、たぶん学生時代に築かれた。休み時間にひとりぼっちになること、班を組むときに自分が余ること、教室移動や登下校で一緒に歩く人がいないことを、本気で恐れていた。それらを「良くないこと」として捉える空気があった。

(とはいえ、高校3年の頃からはひとりで休み時間を過ごしたり、大学時代なんかはもはや開き直ってひとりベンチでお弁当を食べる日々だったけれど)

徐々に「ひとりぼっち」を怖がらなくなっていったけれど、それでもなお、心の奥底に残る根深い恐れ。社会人になっても、フリーランスになっても、根底にはなんとなくずっと流れているように思う。

しかしここ数年、もはや「合わないのに繋ぎ止めている関係」を維持することに疲れたのだろうか、わたしはどんどん「ひとりぼっち」を怖がらなくなってきた。

なんか違うなという場所から身を引き、ノリが違うなと思う人に自分から連絡することをやめた。そうした結果ひとりぼっちになってしまうのだとしても、それはそれで良いのだと思った。合わない人たちとの関係を繋ぎ止めることにエネルギーを注ぐよりも、家族や自分が大切にするもの(人間以外も含めて)との関わりを大事にするほうが豊かなはずだ。

しかし、ひとりぼっちを怖がらなくなってみると、逆に「自分と合う人」との出会いが増えた気がする。

そういう人たちとの関わりは、深く心地よい時間でありながら、さらりと爽やかでもある。繋ぎ止めあうような粘り気はなく、お互いを遠くから見守っている感覚。そして時には勝手に刺激を受けたり、タイミングが合えば会って話をしたりするような。

そうして思うのは、自分が「合わないな」と感じている関係を繋ぎ止めていると、「合う人」と出会える機会を見逃してしまうのではないか、ってこと。合う人と出会えないから、合わない人との関係を繋ぎ止めようとする悪循環にもなってしまうのかも。

その悪循環から抜け出してみると、そもそも必ずしも友達がいなくても豊かな日々は過ごせるし、それにこれまで以上にいい出会いの機会もあるのだと知る。

人間関係は、お互いの歩む道の交差によって生まれるものだとわたしは思ってる。

道が交差したり、たまたま重なって並走したりするときに、自然と関係が維持される。ライフステージや環境が変わって、道が離れていけば疎遠になることもある。でもひょっとしたら、また道が交差するかもしれない。もちろん、しないかもしれない。そういうものだと思う。

だから「合わない人」に合わせることは、自分の道を捻じ曲げることになる。相手の道に頑張って並走させていくイメージ。それはなんとも不健全で、お互いにあまり良いことではないのだろう。

自分の道を進むこと。
道が重なる人との、その時々の時間を楽しむこと。

楽しく自分の道を歩んでいれば、ちゃんと必要な人との出会いがあって。でももし一時的にひとりぼっちになったって、歩み自体を楽しめばいい。

ひとりは怖いことではない。

豊かなひとりを過ごせばいいのだから。


おわり


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じぶんジカン松岡
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