初心者用の哲学① ヨーロッパ編
どうも!ハリーです。更新遅れてすみません。今回は「ヨーロッパの哲学」をみていきます。いつもの通りスライドはインスタグラムで活用したものなので、今回は順番はあまり関係ありません。では参りましょう!
哲学ってなんぞや
そもそも哲学とはどういう学問なのでしょうか?哲学とは「答えのない問いに答えを編み出すこと」とされています。あまりぱっとしませんよね。僕はこう考えました。「人を理解することで、自分の生き方・世界の見方を変える」ための学問ではないでしょうか。つまり様々な人々が異なる世界観や考え方をもっています。なので今回は自分と似た世界観を探しましょうというわけです。
哲学の歴史
古代ギリシャにて哲学のもとは完成しました。当時の人々は「神が世界を創造した」という考えが常識でした。これに違和感をもった人が後の哲学者と呼ばれるようになります。
また彼らが成長したもうひとつの理由は「民主主義」でした。古代ギリシャはポリスと呼ばれる都市国家がたくさんありました。アテネやスパルタが有名です。古代ギリシャを構成するポリスでは民主主義な政治が利用されました。この民主主義、聞こえはいいですが、ネガティブな点があります。「弁論の上手い人」が人気者となるので、国民に人気な人が政治を担う形になっていました。つまり「喋りが上手い」=「行政権を得ることができる」なのです。皆が「弁論術」を学ぼうとした天才たちがソフィストといい、哲学者のことだったのです。
有名な3人を紹介しましょう。1人目はソクラテスです。ソクラテスは神からのメッセージとして「ソクラテスが一番賢い」という啓示を受けました。彼はその啓示に疑いをもちました。そして自分の賢さを証明するために他人を論破し続けました。ある弁論者に「勇気とは何ぞや?」と聞き、答えに困ったことで相手に「無知」を痛感させました。これを続けることでソクラテスは神の啓示の証明より大切なことを学びます。「賢者になるためには自らが無知なことを自覚するところから始めるべき」だと考えたのです。これを「無知の知」といいます
さて2人目です。プラトンという名の彼はソクラテスの教え子でした。プラトンは独自の考え方「イデア」を推進していました。「イデア」とは概念という意味です。難しいので詳細は割愛しますが、とにかく彼は物の概念は同じだと説きました。例えば「赤いリンゴ」と「腐ったリンゴ」は見た目は異なっても「リンゴ」というイデアは変わらないというものです。頭が痛くなってきましたのでプラトンにはここで退出して頂きましょう。
3人目はアリストテレスです。聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。彼はかの武人 アレキサンダー大王の家庭教師でした。そんな彼はソクラテスやプラトンの熱心な学びとは異なり、「やりすぎは良くない」「ほどほどにしよう」という控えめな人でした。
さて世界史では中心がギリシャからローマに移ります。ローマ帝国といえばキリスト教です。哲学とキリスト教が交わるようになります。皇帝 アウグスティヌスはプラトンのイデア論とキリスト教を混ぜることで、聖書で矛盾していたり、説明しきれない部分をイデア論に任せました。アリストテレス哲学もキリスト教と混ざることもありました。つまり宗教の補佐として哲学は位置づけされることとなりました。ルネサンス以降、哲学は宗教と混ざった「神学」と宗教と切り離した「自然科学」に分類され、学問として認知されるようになりました。
ルネサンス以降、ガリレオなどの科学者により科学が発展していきました。聖書で神が行ったとされることも科学で証明されるようになります。哲学も「世界の見方」よりも「人のこと」に立ち返るようになります。このあたりでみんなが想像する哲学っぽさが生まれることになります。
ここでも3人紹介します。まずはデカルト。僕の大好きな哲学者です。彼は「疑う」ことで自分を探すことにします。つまり聖書では神の操り人形とされた人間から自我・理性がきちんとある生き物だと証明しようとしました。この理性や自我を証明するために「疑うこと」を用いました。彼は「不確実なもの」をなくして残ったものこそが「自分」だと考えました。五感は必ずしも正しいとは限らないので、感覚よりも理性を重視しようという考えがデカルトの主な思考です。ちなみに彼は数学者でもあり、みんなの使う4つの象限から成るX軸・Y軸を発明しました。
2人目です。ロックです。彼は簡単に言うと「人の経験」に関して考えていました。つまり聖書では神から与えられたとされる知識・経験も人が独自に生み出したものです。ちなみに知識と経験の論争があることは知っていますか?知らなかった!という人は「メアリーの部屋」と検索してみてください!
3人目です。カントですね。彼はロックやデカルトを批判しました。彼曰く「理性が感覚を構成するから、君らは逆だよ」と。どっちやねん!って感じです。
近代の哲学者はまだまだ紹介しきれないほどくせ者がたくさんいます。簡単に紹介します。
ヘーゲルは「人との関わり」を重視しました。これはカントの哲学と知り合ってからの時間の経過から考えたとされています。つまり趣味嗜好が異なる人同士が交わることで新しい価値が生まれるのだと言いたいわけです。この2つのものを掛け合わせて新しい価値を生み出すことは「弁証法」または「アウフヘーヴェン」と呼ばれます。こっちの方が有名だと思います。弁証法の具体例はたくさんあります。みんなも普段やっていることです。
A君「やきそば食べたい」B君「俺はパン食べたい」→「焼きそばパン」
簡単に言うとこんな感じです。
こんなヘーゲルですが批判も多々あります。マルクスやニーチェから叩かれるわけです。「時間は存在しない」「理性は存在しない」など。正直信じたいことを信じれば?と思います。
そして20世紀以降の哲学ではアメリカの哲学者が参加したり、自分の意見が重視される風潮となります。寛容になったわけです。
キルケゴールは「意識」こそ大事だと考えました。「自分という認識を自分自身が意識している間だけ自我は存在する」と考えたわけです。キルケゴールにとっての「絶望」とは「自分が自分を理解できていないこと」らしいです。現代人にも響きますね。
ソシュールは「比較」から「違和感」は生まれると考えました。「社会から見た自分」という考え方を持っていました。これも現代人に響きますね
比較しないという点ではアーレントも面白い考え方を持っています。彼は自分のために生きることが良しとしており、集団のために生きることはNGだと考えています。やはり20世紀以降の哲学者は我々と思考が似ていますね
哲学者への質問コーナー
今回は以上です。人と異なることが良いことだと感じるようになりませんか?投資家 ジムロジャースも哲学は学ぶ必要があると言及しています。これをきっかけに東洋哲学やヨーロッパ哲学に興味を持っていただけると幸いです!
かなり省略した部分もあるので詳細が気になった人は僕のインスタへ↓↓↓
http://Instagram.com/jiao_qing.hai