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サッカーアルゼンチン代表をワールドクラスにした男

 先月、2024年5月5日アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスから訃報が届いた。アルゼンチンサッカー協会からの物である。
 亡くなったのは、セサル・ルイス・メノッティ氏。(85歳)
 ご冥福をお祈りします。

 アルゼンチンサッカー界に多大な貢献をした人物である。1970年代半ばまでのアルゼンチンのサツカーは、荒々しくラフプレイも多く、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ→クラブワールドカップの前身の大会)では、欧州王者のクラブが対戦拒否をする事が多々有り、アルゼンチンのサツカーに関しては、世界的にも良いイメージが無かった。
 ワールドカップドイツ大会(1974年)の翌年に、アルゼンチン代表監督に
35歳の若さで就任。次回1978年大会が母国アルゼンチン開催と決まっており、折しも軍事クーデターで出来た政府から国威発揚の意味も含め、優勝の十字架を背負わされる事になる。周囲のサッカー大国ブラジルやウルグアイには、ワールドカップ優勝経験が有るのに、アルゼンチン代表にはそれが無かった。軍事政権は全面的な支援を約束し、国内選手の欧州移籍を禁止した。
 メノッティ監督は、それまで慣例だったブエノスアイレスに本拠を置く
クラブ中心で、スター選手優先の選考から地方のクラブまでスカウティングし、若手を中心に据える代表チームの骨格を作る。オズワルド・アルディレス、ダニエル・バレンシア、レオポルド・ルーケ、ダニエル・パサレラ(主将)、ホルヘ・マリオ・オルギン、ダニエル・ベルトーニ、アルベルト・タランティーニ、ルイス・ガルバン、アメリコ・ガジェゴ、それに前回大会経験者のGKウンバルト・フィジョール、ハウスマン、唯一の海外組マリオ・ケンペス(CFバレンシア)らを招集した。
 メノッティー監督は、国内で入念な合宿を敢行し、代表メンバーの結束を図ると共に、クリーンで攻撃的なサッカーを浸透させた。常に頭を使うインテリジェンスの高いサッカーを志向する。
 その間、当時17歳のディエゴ・マラドーナが頭角を表し、代表合宿に招集されるも「その逸材をプレッシャーのかかる本大会で潰す事は出来ない。」として最終的に22名の代表選手から外れることになる。メノッティは「彼はまだ若い、次のチャンスまで待とう」と語った。(ハンガリー戦のケガも原因)また同氏は、後に「マラドーナは、わがアルゼンチン・サッカー史を一身に体現している男だ。なぜなら、46年代のタレントと近代サッカーを両有しているからだ。」と述べている。
 本大会をブエノスアイレスのエスタディオ・モメンタルで迎えるが、イタリア、フランス、ハンガリーと同居した1次リーグでイタリアに0対1で敗れ、移動無しでブエノスアイレスで戦う事が出来なくなった。
 二次リーグはグループBに入り、ブラジル、ポーランド、ペルーと同居。
ロサリオでポーランドに2対0で勝利。続くブラジル戦は、0対0のスコアレスドロー。しかし、2試合を終了した時点で、B組で1位になり決勝に進出するには、3戦目のペルー戦で4点差以上で勝利することが義務付けられた。得失点差で、ブラジルを上回る必要があったのだ。1978年6月21日19:15、ロサリオのエスタディオ・ヒガンテ・デ・アロジートでキック・オフ。
アルゼンチンのゴールラッシュで、6対0で勝利。決勝進出条件の4点差を
上回るゴールで、初の決勝進出を果たすことになる。
 決勝では前回準優勝のオランダと対戦。ヨハン・クライフは欧州予選のみの出場でピッチに居なかったが、大会を通してレベルの高いサッカーをやっており、決勝にふさわしい相手だった。結局、延長までもつれ込み3対1でオランダを破りワールドカップ初優勝。エスタディオ・モメンタルは、白い紙吹雪に覆われ特別な瞬間を迎える。
 但し、ペルー戦に関しては黒い噂等諸説有り、はっきりしていない。
 当初、2次リーグもブエノスアイレスで戦うプランだったが、今となっては、メノッティ監督がロサリオ出身だった事から縁起が良かったのかもしれない。
 この後、メノッティ監督は、Uー20代表監督にも就任。第2回ワールドユース選手権(現:U-20ワールドカップ)東京大会でマラドーナ、ディアスらを擁した攻撃サッカーで、2連覇を狙うソ連に3対1で勝利。フル代表とユース代表で2年連続で世界制覇を成し遂げる。
 メノッティ監督は、前年のフル代表とワールドユースのチームの融合を図り、次回1982年スペイン大会でのワールドカップ制覇を企図する。
(1978年大会優勝している為、本大会出場は確定。)
 しかし、アルゼンチンは開幕戦を0対1で落とし、2次リーグではブラジル、イタリアと同居。初戦イタリア戦を1対2で落とし、続くブラジル戦も1対3と敗れ、前回優勝国のアルゼンチンは2次リーグで姿を消す事になる。
イタリア戦、ブラジル戦共に、マラドーナへのマークは厳しく、ブラジル戦では報復行為を行ったことにより、ピッチを去ることとなる。
 これをもって、メノッティ氏は監督を辞任。7年に渡る代表監督の座を
後進に譲る事になる。
 その後は、ビッグクラブの監督を長らく勤めていた。
 ヘビースモーカーだったメノッティ氏は、今も天国でタバコの煙をふかしているであろうか?
 心よりご冥福をお祈りします。


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