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イギリスの歴史(6)イングランド「王と議会」の対立‼🔥
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「イギリスの歴史シリーズ」の6回目です。
イングランド議会との対立を深める王ジェームズ1世の続きです。
前回はこちら。
1,ジェームズ1世と議会のその後…
王ジェームズ1世は、
ブリテン島の統合や金銭問題などで自分に協力してくれない議会に不信感を募らせ、しばらく議会なし💦で政治を行います。
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関係ないですが、足細過ぎ。何等身?スタイル良過ぎ…笑💦
ジェームズ1世は、
プロテスタント勢力である長女夫妻の援助のために、
三十年戦争に参戦しようとし、議会を招集します。
「三十年戦争」とは??🤔
主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として、
1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称。
「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ、
ドイツの人口の20 %を含む800万人以上の死者を出し、
人類史上最も破壊的な紛争の一つとなった。
1648年にヴェストファーレン条約(ラテン読みでウェストファリア条約)が結ばれ、戦争が終結。
人口の20%ってヤバすぎ…。
※ジェームズ1世の長女の夫は、
プロテスタント勢力の指導者であるプファルツ伯爵です。
プファルツ伯爵夫妻は、
スペインらカトリック勢力によって、領土を失い、
流浪の身となっていました💦
王は議員に「言論の自由」を保証していましたが、
戦争・外交については「国王大権」(王の政治的な特権)として、
除外することが当時の慣例でした。
しかし、庶民院は
「国家の一大事は王の専管事項ではなく、全議員にとっての生得権である」
と主張し、王の大陸への介入についても審議できるよう希望します。
これは国王大権を奪うことになります💦
王と議会の対立はさらに激化🔥することになりました…。
結局、王は財政的余裕がないため、
大陸での戦争に介入できませんでした。
仕方ないので、ジェームズ1世は、
皇太子とスペイン王女の政略結婚により、
娘夫妻が失った領土を返してもらおうとします。
しかし、カトリックのスペインとの婚姻には議会の大半は反対しました。
※今までの経過を考えるとそれはそうですよね…😥💦
その後の、スペインとの交渉もうまくいきませんでした。
皇太子や側近は、
反対にスペインとの戦争に方向転換するよう王に進言しました。
このように、ジェームズ1世の時代に、
ピューリタン革命が起こる諸要因である、
①王権と議会と対立
②宗教問題
③経済問題
が醸成されていきました…💦
2,チャールズ1世と議会
ジェームズ1世の次、息子のチャールズ1世が即位します。
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教科書で見た覚えがある気がする。
チャールズ1世は、前王と同じく王権神授説を信望していました。
王権神授説とは??🤔
王権は神から付与されたものであり、
王は神に対してのみ責任を負い、
また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の
何人によっても拘束されることがなく、
国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない
とする政治思想のこと。
う~ん、王権神授説もだいぶ極端でヤバイ考え方だな…
チャールズ1世は、前王への対抗心からも強権を頻発します💦
議会の同意のない外交や臨時の課税を強行したり、
ジェントリらに公債を強制的に買わせて献金を強要し、
拒むものは不当に逮捕・投獄しました😭💦💦
また、三十年戦争に参戦するもフランスに大敗し、
戦争続行のための特別税も議会に拒否されてしまいます。
ジェントリが大半の議会(貴族院と庶民院)は、1628年に、
議会の同意のない課税や不当な逮捕・投獄の禁止を訴えた「権利の請願」✨
を王に提出します。
王に特別税と引き換えにこれを受け入れるよう願い出ます。
「権利の請願」は
「王といえども主と自らが定めた法には従わなければならない
(法の支配)」
と主張したエドワード・コークが作成しました。
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エドワード・コークとは??🤔
イングランドの法律家・政治家。
コモン・ローの法思想を理論化し、
近代の法思想として継承させることに成功し、
「法の支配」という憲法原理を確立した。
英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。
なんかすごい人だ😊
チャールズ1世は「権利の請願」にいったん同意しますが、
翌年に議会と対立し、破棄します。
これが革命の契機となりました💦💦
※権利の請願は、その後、復活・廃止を繰り返しましたが、
現代イギリスにおいて憲法の一部となっているようです。
ここから、王と議会の対立がますます激化🔥します。
王は議会をその後11年間(!!)停止します💦💦
王はフランスからカトリックの王妃を迎え、
親カトリック政策を展開し、ピューリタンを弾圧しました。
このことは、王がカトリックの復活を意図しているという疑惑を深めました。
このような状況の中、
一部ジェントリや商人やピューリタンを結ぶ王反対派のネットワークが形成されていきます。
そもそも王の常備軍や官僚組織がない中、
イングランド王が「絶対君主」になることなど不可能だったのです…。
3,チャールズ1世治下での複合国家解体の危機
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チャールズ1世治下で、
イングランドを中心とした複合国家は、解体の危機に陥ります💦
※「複合国家体制」ってなんだ?という人は、前々回のnote ↓ を見てね😊
前王ジェームズ1世の時代に、
宗教の棲み分けが決まっていたのにも関わらず、
チャールズ1世はスコットランドに国教会を強制します💦
王による強硬な宗教政策に対して、
1637年、スコットランドで反乱が勃発します。
スコットランドの長老教会主義の堅持と、
王権からの教会の独立を誓った「国民契約」が成立し、
30万人のスコットランド人が著名したそうです
※人口90万人なのに!😦…ホントかな?💦
彼らは「契約派」と呼ばれます。
チャールズ1世は、アイルランドにも強行な支配を押し付けました。
アイルランドでは、民族や宗教問題が複雑な状況となる中、
王側近の専制政治による不満が高まり、
王側近は長期議会にて処刑されます💦
またアイルランドで「カトリック同盟」が結成され、
反乱が拡大していきます。
このように、スコットランドやアイルランドとの関係も悪くなり、
複合国家体制の危機が深まっていきました💦
ジェームズ1世からチャールズ1世の急進的な政策により、
イングランド内外の不満が高まります🔥
革命の機運が高まっていきます…!🔥🔥
今回は、ここまでです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、清教徒革命勃発からクロムウェル登場!です😊
国王と議会、財政問題の視点も取り上げていこうと思います😆
今回の発表や、江崎道朗先生・蔵研也先生のコメントは以下の動画です。
よかったら見てくださいね😆
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