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日本とフィリピンの架け橋になるような弁護士になりたい


プロローグ

いつもアウトサイダーだった僕は日本人の「血」を引いていることを意識しすぎ、フィリピンの「家族主義」に翻弄された。
「完全な家族」の一員であることが幸せな人生を送る前提条件ではないことを僕は証明したかった。僕は人生を成功させるために崇高な理想を持ちすぎていた。
ある時、僕は気づいた。
人生の成功に国籍や何人の血が入っているなど関係ないことに。
僕が僕である所以は人間性にこそにあり、他のどんな枠や区別よりもはるかに価値があるのだと、、、

セリナさんの生い立ち

 1979年10月、ミンダナオ島のダバオ市でセリナ(仮名)さんは生まれました。生まれて間もなくセリナさんは両親から育児を放棄され、その状況を見かねた祖母がセリナさんを引き取り育てました。セリナさんの両親は祖母に養育費を払わなかったため、セリナさんと祖母の生活は本当に大変でした。セリナさんは小学校を卒業しましたが、ハイスクールに通うお金がなく、学費を稼ぐために働き始めました。貯めたお金で高校を卒業し、大学に進学し秘書科で学びましたが、途中で学費を払えなくなり大学を中退し、海外へ出稼ぎに行くことにしました。

仕事を求めて日本へ

 セリナさんは友人と海外出稼ぎに行くためのエージェントを探しました。探し当てたのは日本へ働きに行くエージェントでした。歌手としてのトレーニングを重ね、日本行きのテストにも合格しましたが、セリナさんは当時17歳だったため、21歳以上という条件を満たしておらず、他人名義のパスポートで来日をさせられました。

 2001年、セリナさんは初めて来日し、九州地方にあるフィリピンクラブに配属されました。そのクラブのマネージャーである加賀見氏とはその時に知り合いました。日本で働くのは初めてだったため、日本での生活のルールもわからず、セリナさんは日本語を独学で必死に学びましだ。6か月の契約終了後、フィリピンに戻る予定でしたが、プロモーターから再度契約書に署名をするようにと言われ、署名をして再び来日しました。

 その後、セリナさんは3回来日し、同じ職場で働きました。4回目の来日の際、加賀見氏から誘いを受け、一緒に外食をしたのをきっかけに彼からその後、頻繁に誘いを受けるようになりました。セリナさんの誕生日には豪華な贈り物と高級なレストランで食事をご馳走してくれました。九州をめぐる旅行にも連れて行ってくれました。加賀見氏には妻子がいると人づてにセリナさんは聞いていましたが、彼にプライベートなことを聞く勇気がなかったため聞けずじまいでした。

 2005年、セリナさんはフィリピンに帰国しました。その後の再契約はなく、日本に戻ることができませんでした。その理由は、セリナさんが使っていた偽名の本人から名前の使用をやめて欲しいと言われたからです。そして、セリナさんは本名でパスポートを作る手続きをしました。

 2006年、セリナさんは自分の名前のパスポートで来日し、同じクラブで働きました。

セリナさんの妊娠

 2006年2月、セリナさんは体調不良を感じて病院で検査をしたところ、妊娠がわかりました。加賀見氏はセリナさんの妊娠をとても喜び、男の子だったら自分と同じ名前にしようと言いました。その後、加賀見氏がマネージャーをしているクラブが倒産してしまったため、仕事の契約は更新されず、セリナさんはフィリピンへ帰国しました。セリナさんの帰国後しばらくは、お腹の子どもの様子を伺うために連絡をしてきて、1度だけ3万円とチョコレートを送ってきましたが、その後は送金もなく連絡も途絶えてしまいました。セリナさんはこのままだとお腹の子どもを一人で育てていくことができないと思い、サリサリストア(小さな雑貨店)を始めることにしました。

 2006年10月、セリナさんは出産の日を迎えましたが、かなりの難産となり、このままだと母子ともに命の危険があると判断した医師は子どもの父親の連絡先を聞き、加賀見氏に連絡を取りました。幸い、加賀見氏と連絡がとれた医師は状況を説明し、「母親と子どものどちらの命を助けたいか」と加賀見氏に聞きました。彼はどちらの命も助けて欲しいと医師に懇願し、その後、セリナさんは帝王切開で男の子を無事に出産しました。子どもの名前は加賀見氏が希望した通り、リョウタ(仮名)と同じ名前を付けました。

 無事に母子の命は助かりましたが、高額な出産費用が残りました。しかし、その費用は加賀見氏が全額払ってくれました。加賀見氏はフィリピンに来ることはなかったので、リョウタくんの出生証明書に父としての署名をしてもらうために国際郵便で書類を送りました。

父親と息子の初対面

 2007年3月、リョウタくんが生後5か月の頃、加賀見氏は友人と一緒にフィリピンを訪れ、初めて息子と対面しました。加賀見氏はセリナさんとリョウタくんが暮すダバオまでは足を運ばず、マニラのホテルに滞在しました。セリナさんとリョウタくんがホテルにいる間、二人は外出を禁じられたが、加賀見氏は頻繁に部屋を出て行きました。セリナさんは加賀見氏の様子がおかしいなと感じていました。別れ際、加賀見氏はセリナさんに「あなたを愛している。そして私の息子を愛している。」と言って去っていきました。

 後になり、加賀見氏の友人から、彼には婚約者がいて、マニラで結婚をしたことを知らされました。その事実を聞いたとき、加賀見氏のおかしな行動に納得がいきました。彼がフィリピンを訪れたのは結婚するためで、同じホテルに宿泊していた婚約者と過ごすために頻繁に部屋を出て行ったのだということを。

 加賀見氏が息子に初めて会ってから1年後、彼からの養育費は途絶え、連絡もなくなりました。セリナさんは一人でリョウタくんを育てていく必要があるため、息子を叔母に預けてマニラに働きに出ました。しかし3か月後、叔母から「息子は母であるあなたが育てなさい」と言われ、セリナさんはダバオに戻りました。ダバオに戻ったセリナさんは古着を売るビジネスや賃貸業も手掛け、リョウタくんを育てるために必死で働きました。

RGS-COWとの出会い

 2020年、セリナさんはダバオのRGS-COW(JFCネットワークの提携団体)へ相談に行きました。日本人の父親から見捨てられた子どもたちを支援する団体があるから相談に行ってみたらと友人から紹介をされたのがきっかけです。当時、リョウタくんは14歳。自分の父についてとても知りたがっていました。セリナさんは加賀見氏に一切頼らず生きて行こうと決心していたが、リョウタくんの気持ちを考え、息子のために父親を捜してあげたいと心に決めました。

 東京のJFCネットワークに書類が届き、弁護士さんにケースを受任して頂きました。

 書類の中にはセリナさんの陳述書の他、リョウくんのそれも入っていました。

「僕はリョウタ・カガミです。僕の友人たちは僕を“リョウ”と呼びます。僕は生まれてからずっとここに暮らしています。
 僕の両親は日本で知り合い、母が妊娠した時、父は僕にとても会いたがったと聞きました。僕の名前が父と同じなのは父が希望したからだと聞いています。僕がこの世に生を受けた時、父はそばにはいなく、医者が父に電話をしたと聞きました。僕が生後5か月の時に父はようやく僕に会いに来てくれました。マニラのホテルに3日間滞在し僕のベビーカーを買ってくれたそうです。しかし、その後、2007年のクリスマスの日を最後に父は「愛している」という言葉を残し、去っていき、僕を二度と訪ねて来ることはありませんでした。僕が父について知っていることはこれだけです。
 僕は母と2人だけで育ちました。本を読むことが大好きだったので、フィリピンの言葉よりも早く英語を覚えました。本は英語で書かれているからです。外でスポーツをするのも大好きですが、小さい時は身体が弱くすぐに体調を悪くしてしまうので病院に頻繁に言っていました。小学生の時にドラムをはじめ、バトミントンをやったのもこの頃です。デング熱と診断され3か月入院したこともあります。生死をさまよいましたが、神様のお陰で僕の命は助かりました。退院後はまた感染するのではないかという恐怖があって学校に通えなくなり家に閉じこもりがちになりました。この頃、僕の体重はとても増えてしまいました。
 小学校卒業時、肥満が原因の脂肪性心疾患で入院をしました。その後、中学生になるとダイエットのために格闘技を習い始め、その頃には僕は様々なことに挑戦できるようになり、勉強にも励みました。成績優秀でメダルもいくつももらいました。僕がこれまで困難を乗り越えられてきたのは何よりも一人で僕を育ててくれた母のおかげです。
 僕はいつも日本のことを考えています。日本はどんな国なのだろう。どんな生活をしているのだろう。僕にとって日本はとても魅力的なのです。小さい時から僕の夢は日本に行くことです。日本の国に足を踏み入れること。これは僕の人生における最大の一歩になるに違いありません。」

リョウくんの陳述書より

父親の拒絶

 2022年3月、第1回目の調停期日が入りましたが、加賀見氏は調停に現れませんでした。その上、「自分の子どもではない」と事実関係を争う答弁書を提出しました。

 同年4月、第2回調停期日が入りました。加賀見氏は出席し、DNA鑑定を実施し自分の子どもであれば認知すると言いました。そのため、DNA鑑定を実施し、父子関係があることが証明されました。

 同年10月、リョウタくんの誕生日が近かったので、次回期日に、弁護士から加賀見氏にリョウタくんとオンラインで会ってくれないかと相談してもらいました。

 しかし、リョウタくんのリクエストを加賀見氏は頑なに拒否しました。リョウタくんの「父に会いたい」という強い願いをよくわかっているダバオのRGS-COWのスタッフは、父がそれを頑なに拒否したことをどのようにリョウタくんに伝えればいいのかを考えるとつらいと悩んでいました。

 同年11月、調停で合意による審判でリョウタくんの認知が成立し、2003年5月、リョウタくんは日本国籍を取得し、漢字名を父と同じ「良太」(仮名)としました。

 良太くんは父から会うことを拒否されたことを知り、

「僕はもう父には何も期待しない。認知が成立したならそれでいい。お金はいらない。ただ、彼の息子として父を知りたい、という僕のアイデンティティを完成させるために父に一度は会いたかっただけだ。もういい。僕は、一度父を見て、『ああこの人が僕の父なのだ』と確認できれば、それでいい。話してくれなくていい」

と言いました。

「お金はいらない」と主張した良太くんでしたが、RGS-COWのスタッフと母を交えて話し合い、養育費請求は継続することになり、月に2万円の養育費の合意が成立しました。

息子と会って話したい

 2023年7月、良太くんから父に宛てた手紙を送りました。手紙を書いた数日後、加賀見氏から突然、事務所に電話がありました。話を聞けば、良太くんと会って話がしたいというのです。これまでは自分の子どもかどうかはっきりしなかったが、それがはっきりした今、息子としっかり向き合いたいとのことでした。将来のことも話し合ってみたいといいました。

 良太くんの夢は将来日本とフィリピンの架け橋になるような弁護士になることです。それを伝えると、フィリピンでしっかり勉強してから日本で日本語の学校に行って日本語を学ぶのがいいだろう、そのためのサポートはできる限りしたいと言いました。その後、加賀見氏からLINEのQRコードが送られてきた。加賀見氏は英語やタガログ語ができるので、良太くんとのコミュニケーションは問題ないといいました。  

 RGS-COWのスタッフも父の反応にとても驚き、嬉しい報告をすぐに良太君へ伝えました。

良太君のスピーチ

 2023年8月、フィリピン研修旅行の際、良太くんはRGS-COWのオリエンテーションでスピーチをしました。

「僕はフィリピンと日本の2つの異なる血を受け継いで生まれました。私がまだ赤ん坊のときに、父は僕を置いていってしまったので、僕は母にフィリピンで育てられました。父とは音信不通になり、それ以来、母は私を支えるために懸命に働いてきたのです。何をすればいいのかがわからないまま育ちました。フィリピン人は、家族の絆が強く、常に完全な家族を持つことを良しとしますが、僕は違いました。他人の目には、僕には将来がなく、貧困の中で腐っていくだけの、家族を持つことのできない劣った人間だと誤解されていたのです。だから僕は、彼らが間違っていることを証明したい、認めてもらいたいと思いました。小学生の頃、歌を中心にいろいろな活動に参加し、いつも歌のチャンピオンとなり、たくさんのトロフィーや賞をもらいました。中学生になると、ギター、ドラム、ピアノ、そしてパーカッションと、たくさんの楽器を習いました。楽器だけでなく、柔道、空手、バレーボール、サッカーなどのスポーツでも優秀な成績を収め、僕は学校でとても有名人になりました。中学校を卒業するときには、たくさんの賞をもらい、学校ではいつも優等生でした。高校に入ると、生徒会の役員に立候補して当選し、平和委員を務めました。また、校内最年少の指揮者として、校外のオーケストラ・コンテストで優勝したこともあります。全国レベルの科学と数学のクイズに出場し、環境科学で2位、科学史で4位に入賞しました。僕はフィリピンで最も優秀な生徒の一人として注目されていたのです。
そのような成績を収めながら僕はある時、悟ったのです。人生、成功するために常に完璧である必要はない、と。そして最も重要なことは、血や国ではないということを。夢を実現するために必要なのは、強い心と魂だと。そして、僕は気づきました。どんな時も僕を支えてくれていた母の存在に。僕は自分自身にもっと向き合う必要があります。
いつか日本に行ったら、弁護士となり、僕はJFCネットワークで働きたいです。僕と同じような人たちが、1つの国だけでなく、多くの国を越えていく機会を持てるように手助けしたいのです。僕のような子どもたちが、父親の過ちの結果に苦しむことのない世代を作ることができると信じています。」

良太くんのスピーチより


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