式内名神大社・葛城水分神社考 -貞観元年正月の「水越神」-
氏神に付いて過去にFBタイムラインに投稿した記事ですが(初投稿は2013/3/2)、一部加筆して此方に投稿させていただきます。
葛城水分神社
1. 祭神 天之水分神 国之水分神
1.『延喜式』神名帳に見られる祭祀 名神大社(水分社では葛城のみ) 月次祭・新嘗祭において官幣に預る
1.六国史終了時の神階 正五位下
祭神について
天之水分神:祈雨・天与の水を分ける神。
国之水分神:川・地与の水を分け配る神。とされています。
延喜式において大和の四水分社は天武天皇の御代から始まったとされる祈年祭において官幣に預り、臨時祭式・祈雨神祭においても
葛木水分社一座 都祁水分社一座 宇陀水分社一座 吉野水分社一座
が官幣に預った旨明記されています。
この様に“一座”とされている事から四水分神社の祭神は祈雨・天与の水を分ける神「天之水分神」一柱であり、現在吉野はじめ各社は天之水分神以外の神を様々祀っていますが時代が下って追祀される様になったと云う事で、原初的には水分社の主祭神は天之水分神一柱と思われます。
では、葛城水分神社において国之水分神が主祭神として合祀されているのは何時から、如何なる理由によるのでしょうか?
『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日甲申大和国条において大和の四水分社は揃って従五位下から正五位下に昇叙される記述に続いて、この日の大和国条の最末尾に 「無位水越神従五位下」 と云う記事が有ります。
「無位である水越神に、従五位下の官位を授けた」程度の記述ですが、当時の大和国には 「水越神」 という神社は存在せず(奈良市柳生の水越社は室町期後半に初めて記録が現れ従5位下の名乗りもしていない)、貞観の時点で位階を賜ると云う事は少なくとも奈良・天平当時に存在していた神・神社と思われます。
天平3年(731年)に編纂されたとされ、藤原定家の「明月記」にもその存在が記されていながら永らく住吉大社の秘中ノ書として秘蔵されていた「住吉大社神代記」に
(住吉の)大神、「賜える保木・上木の葉・サカキを集めて、土樋を造作りて水を越せ」と詔賜ふ。御誨の隋に遂に水を通して田に潤く。因りて、その地を水分の水越と云う。また、三輪に住む人をして水分を鎮め守らしむ。
(要約:川水は河内へ流下していたが、大和が農業用水不足を訴え引水を要望したところ住吉大神が之をお許しになり、施工法まで誨えられて流路を変更させて(水を越して)大和・葛城の田を潤したので、その地を「ミクマリのミズコシ」と云うようになり三輪に住む人(出雲系三輪・賀茂族)に水分を鎮守させる)
この一文は神代記において仲哀帝から神功皇后当時の事跡としての記述と思われますので、実際に金剛葛城山系の分水嶺・水分の地において旧来・河内に流れていた河の水を大和側へ越させた・水越と云う大事業がなされた。
すなわち、川・地与の水を分け配る神事が行われたのであり、その水分の水越に鎮座する葛城水分神社において正五位下・天之水分神と、従五位下・国之水分神・水越神が合祀されたのであり。他の水分社には無い特筆すべき水に係わる霊験が顕現した地である為、他の水分社とは異なりただ一社のみ名神大社に列する栄に浴したのではないか?”と考えます。
この点につき葛城水分神社の神事を司って頂いております葛城一言主神社の伊藤宮司様にお尋ねしたところ、宮司様は神代記、日本三代実録の記述については御存じ無かったのですが、
1.記紀に著された大和朝廷における葛城の重要性。
1.ただ一社名神大社に列している事実。
1.元禄水論の際、京都所司代が下した10:0で大和側に水利権ありと裁定した経緯。
から按ずるに、私の所論が至当ではないかとお応え下さいました。
水越神、実は他のところで名前が登場します。東大寺二月堂修二会で奉読される神名帳に於いて第417位でその名をあらわします。
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参考文献
国史大系・延喜式上編 住吉大社神代記(古代氏文集所載) 奈良市史 御所市史 日本神祇由来辞典