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「毒樹の果実」の法理から考える―意図的な無知がもたらす公正さの確保―

法律の世界には「毒樹の果実」(Fruit of the Poisonous Tree)という重要な法理が存在する。違法な手続きで得られた証拠(毒樹)から派生して得られた証拠(果実)もまた、法的に無効とされるという考え方だ。スティーブン・ピンカー著「人はどこまで合理的か」で論じられる「合理的な無知」は、この法理と通底する深い洞察を含んでいる。

ピンカーは、知識の獲得が必ずしも最善の選択とは限らないケースを説得的に提示する。例えば、陪審員が公平な判断を下すために事件の周辺情報を知らないでいることや、遺伝子検査で将来の疾病リスクを敢えて知らないでいることなどが、その典型例として挙げられる。これらは「知ることによる汚染」を避けるための賢明な選択といえる。

この観点から、兵庫県文書問題調査特別委員会(百条委員会)における判断を見直してみよう。前西播磨県民局長の「倫理的な問題」について、奥谷委員長と岸口副委員長のみが内容を確認するという申し合わせがなされたのは、まさに「毒樹の果実」の法理に通じる慎重な配慮であった。不適切な情報の拡散による判断の歪みを防ぎ、同時にプライバシーの保護を図るという二重の意味で、合理的な選択だったといえる。

しかし、片山安孝による委員会での暴露行為は、この慎重な配慮を台無しにする暴挙であった。これは立花孝志の行為と同様、意図的に設けられた「合理的な無知」の防壁を破壊し、違法な形で情報を拡散させたという点で、明確なプライバシー侵害として立件されるべきものである。

この事例は、「毒樹の果実」の法理が示唆するように、情報の取得と共有には適切な手続きと制限が必要であり、時として「知らないでいること」が公正さを担保する重要な手段となることを改めて示している。

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