恋のアレグレット
木管とホルンが二小節の和音を鳴らした後、ヴィオラとチェロが静かにリズムを刻んでいく。タータタタータとこれが旋律かと思わせる単調さだが、数度の変奏を経て流麗な調べに変わっていくのだ。私は両腕で自分の肩を抱き、深夜の闇の中でひとり静かにその時を待つ。
ベートーベンの交響曲第七番、通称ベト七の第二楽章アレグレット。
初めて訪れた潤の部屋で聴いたこの曲が、迸る第一楽章を終えてこの部分にさしかかった、あの時のように。
曲想の変り様に驚き、つい無口になってしまった私の肩を、何を勘違いしたのか潤の長い手が引き寄せた、あの時のように。
そして、それを拒むことなく受け入れた私の中で、単調だった潤の動きがやがて官能的に躍動していった、あの時のように──。
梅田の法律事務所で働く私は、友坂潤のいる銀行のM&A案件を専従でサポートしていた。リーダーの潤とは会議中、時折ぶつかる視線が気になる程度で、仕事以外に会話らしい会話もなかった。
だけど銀行の女子会に誘われたその日、会場に向かう途中で誰か洩らした「あれが友坂調査役のマンションよ」の一言で私のスイッチが入った。
会がはね女の子たちと別れると、私の足はためらいながらもその単身者マンションに向っていた。
その日を境にして、日常が一変した。会議中、「友坂さん」と呼ぶべきところ、「潤」と口にしかけて慌てることがあった。マーカーを持ちホワイトボードの上を優美に動く潤の指が、夜の時間の待ち遠しさを募らせた。
だが、そんな日々が長く続くはずはない。
やがて、M&Aで実績をあげた潤は東京本社に栄転が決まった。
東京には病弱な夫人が待っている。
これで潮時にしようと自分自身に言い聞かせていたのに──。
さっきかかってきた電話で潤はこう言った。
「本社は一時待機なんだ。来期からロンドンのシティ(国際金融街)に赴任するんだよ。妻は来ない」
ついてきて欲しいという意味に聞えたのは、電波の乱れだったに違いないのに、私のスイッチがまた入りそうになる。
そう、潮時はまだ早い。
ベト七は「のだめカンタービレ」のテーマ曲に使われて若者たちに広まったが、なぜかドラマでこの第二楽章は使われなかった。ドラマにならない楽章に身を委ねる私の、第二楽章は果たして──。
曲はいつの間にか第三楽章に入っていた。