やりたいことがありすぎる
もさおです。この度、99%留年することになりました。
しんどすぎる。それもこれも自分の怠惰が招いた結果なのですが……。
とはいえ、ここで1年間猶予ができることは悪いことばかりではない。むしろ、自分のことを知るためにはちょうどいいのかもしれない。
まあ親の前ではとてもじゃないけどそんなこと言えないので、せめて文章にすることによって、思想を少しでも有益にしようと思う。エッセイみたいになったら、世の人の暇つぶしくらいにはなる気がしない?
さて、今回話したいのは俗に言う「やりたいこと探し」のこと。
残念ながら就職活動をやり直すことになったもさおは、これを機にもう一度つきたい仕事について考えてみることにしたのだ。
やっぱり自分の興味のある仕事がやりたい。そう思って、やりたいことを探しているのである。
「私には、やりたいことがない」。
昨年就職活動をしていた時に、何度も繰り返し思ったことだった。
自分の中で何かがくすぶっている気配はしていたが、何度やりたいことを考えてみても、「何もしたくない」「何にも興味がない」という結論に陥ってしまっていた。
さて、では冒頭の「やりたいことがありすぎる」とはどういうことなのか。
私は「やりたいことがない」とつらつら書いてきた。ありすぎるなんて一言も言っていない。そのくせこのタイトルは何か。
先日友人に、進路について質問した。
「どうしてこの仕事をやりたいと思ったの?」と。
彼女は、「自分の人生を自分で使いきれる気がしないから、人に使ってほしいと思った」と答えた。だから人のためになることがしたい、と。
それを聞いた時、私は心底驚いた。
というのも、私は全く逆のことを考えていたからである。
自分の人生は自分ひとりには足りない、短すぎる。そう思っている自分に気が付いたのだ。
つまり、私は一度の人生では足りないと思える程度にやりたいことがあるということなのではないか?
これに気づいたとき、友人への感謝があふれた。
というわけで、とりあえずやりたいことを思いつくだけ書いてみることにした。
巷に言う「やりたいこと100のリスト」的なものである。
お金と時間と自分の能力にとらわれず、思いつくだけ書いてみた。
するとやはり、やりたいことがたくさん出てきた。なんなら100個に収まらず、110個以上も。
書いたリストを見て、私は安心した。夢も希望もない歯車だと自分を卑下していたが、私が思っていたほど、私の未来は暗くないらしい。
せっかく書いたものなので、見直してみることにした。自分で作り上げたものを見るのは、何であっても気分がいい。
そして私は、あることに気が付いた。
やりたいこと100のリスト。
1.絵を習いたい
2.芸術系の大学に行きたい。
3.声の演技を習いたい。
4.楽曲分析について教わりたい。
……
勉強したいこと多くない?
そう。私の「やりたいこと」は、「人から教わりたい」「勉強したい」に偏っているのである。
そりゃあ就職活動に向けて自己分析したところで、何かが見つかるはずもない。
だって、社会に価値を提供することに全く興味がないのだから。
私の「やりたいこと」は、仕事ではないのである(しかも、そのすべてにかなりのお金がかかる)。
もちろん誰かに教わるのではなく、独学するという選択肢もある。実際それで成功している人は何人もいるし、独学もできないようではそれこそ未来は真っ暗だ。
しかし私は、人に物事を習いたいと思ってしまう。
だって、技術の向上を独学で補うのはリスキーじゃん。
変な癖がついてしまい、向上が止まるかもしれない(これは経験済)。間違った練習法のせいで、何かを為せるほどの技術が身につかないまま一生を終えるかもしれない。
また、他のことをメインに据える(例えば仕事中心の生活を送るなど)と、いつの間にか独学するだけのエネルギーがなくなって結局何もしなくなるかもしれない。
そんな残念な事態には、私は絶対に陥りたくないのだ。
しかし、これらをすべて教わろうとすると、莫大な金と時間がかかる。
ちょっとした趣味でやる程度なら時間は問題ないという見方もあるが、どちらにしろ金がかかることに変わりはない。
それに、私はあくまで学びたいのであって、それを使って生み出したい価値などまったくない。そりゃあ仕事になったらいいかもしれないけど、そうなるためにはたくさんの研鑽が必要で、それこそ金と時間がかかる。
残念ながら私は、そこまでお金持ちじゃない。
また、やりたいことリストに書かれていた他の項目は、「こんなジャンルの音楽を生で聴きたい」だの「牧場でバターづくり体験をしたい」だの、所謂お金のかかる娯楽ばかりだった。それこそ金がかかる。
これらに関しては、仕事にしたいかと言われると話は別だ、という感想しか出ない。
だったらお金をためて好きなことを勉強し、それを仕事にすればいい。そういう人もいるだろう。
しかし考えてみてほしい。
そこらへんで働いているサラリーマンの皆さん。あなたたちの若いころの夢って何でしたか?
もちろんサラリーマンにも生き生きと働いている人はたくさんいるが、そうでない人もたくさんいる。
彼らが昔持っていたはずの夢は、多忙で厳しい現実に疲れていくうちに失われていったのではないか。バタバタしているうちに夢があったということも忘れ、お金の使い道についても思い出せなくなり、死んだように生きている人間のなんと多いことか。
それ自体は悪いことではない。むしろ賞賛できることだ。
だって、社会のために身を粉にして働く根性と体力と器用さを身に着けている(というか、それらを身に着けるために努力している)のだから。
しかし考えてもらえば分かるように、「お金を貯めてからもう一度学校に通って好きなことを学ぼ! それを仕事にしよ!」なんて思い続けられる人間はほんの一部である。
思い続けられないことは意志が弱いことと同義なのだろうか。若者特有の甘えなのだろうか。
分かっているのだ。甘えだということくらい。
本当にそれが欲しいなら、何を犠牲にしてもいいと思える強さがあって然るべきだ。そんなに弱い欲求なら、持ったところで意味がない。
その一方で、こうも思う。
やりたいことひとつ追うだけでこんなに覚悟が必要なら、それを追いかける道なんて選べないじゃないか。
お金を稼ぐためには、働く必要がある。しかもやりたいことを実現する資金と考えたら、そこんじょそこらの収入じゃ足りない。でも高給取りを目指すなら、激務になることは必然だ。そこが分からないほど甘ちゃんじゃない。
でも激務をこなしていたら、いつか現実に飲み込まれてしまう。飲み込まれないと豪語できるほど私は強い人間じゃないし、本当に飲み込まれずに生きていける人間はほんのひと握りだ。
因みに私は現時点で何の技術もないし、今から新しく学校に通うお金もない。
独学はとりあえずしているけれど、現実との両立がすでにできていない(それが留年という結果である)。
やりたいことが仕事じゃない。
そんな若者たちに、大人はどんな声掛けをするのだろうか。
やりたいことは趣味にとどめて、安定した仕事に就いた方がいいって?
それに強烈な違和感を抱いているから、今この時間を使って考えているんだろう。
やりたいこととやるべきことを完全に切り分けられるほど、私は器用じゃない。いや、正確に言えば、切り分けられはするけれど、社会から求められる「やるべきこと」の水準は極めて高い。それをクリアするためには、やっぱりやりたいことを犠牲にすることは避けられないのだ。
それは絶対に嫌だ。
人生100年あるとしてもなお、やりきれないほどのやりたいことがたくさんある。やりたくないこと・やるべきことに割いている時間なんて全く無い。
やりたくないことを極力減らす生き方を、誰か教えてくれないか。
完全にゼロにするのは不可能だ。だから、せめてできる限り減らす方法を、選択を。
それを求めて、私は考え続けている。