影響とコピー
言いたいことが多い。
それは自分自身の価値観が変わってきたことへの戸惑いでもあるが、一番の理由は「天啓」もとい現実逃避である。
これまではこうした感情をTwitterで吐露することが多かったが、そんなことをしてもデメリットしかないのでnoteを久々に使ってみようと思った次第である。これが昨日からの流れ。
さて、今回は思想の話。
難しいことを言いたいわけではなく、単に「周りから影響を受けている」という気付きを得たというだけの内容である。
私はしがない文系大学生をしている。
文系の中でも特に「思想」を扱う学問に取り組んでいるのだが(専攻は一応社会学です)、勉強していく中で避けては通れないものがある。
教授からの影響だ。
厳密にいうと私の場合、ゼミ仲間からの影響をここ最近色濃く受けている。
特にこの思想が変わった!というわかりやすい事例はないのだが、冒頭で述べた価値観の変化はここから起こっているのだと感じた。
変化は悪いことではない。
人間である以上、経験や環境によって考え方が変わるのは至極当然のことだ。
しかし、それを肯定的に受け取れる人間は限られている。その対象が自分であっても、他人であっても。
私は高校を卒業してから、常に変わりたいと思って生きてきた。
思春期真っ盛りだったので、自分が嫌いだったのである(この話も気が向いたらしてみたい)。
だが、いざ自分が変わり始めてみると、それに対する拒否反応がどこからともなくわいてくる。
そりゃあそうだ。ひとたび変わってしまえば、それまで価値観が合っていた相手とかみ合わなくなってくるし、それよりなにより、自分がかつて嫌いだったものになってしまうことも大いにありうるのだ。
人と合わなくなるのは仕方ないとして、かつて自分が嫌いだったものになってしまっていることに気づいた時の恐怖というものは筆舌に尽くしがたい。
もちろん受けた影響そのものが悪いわけではないが、自分が自分の変化を受け入れられないのだ。
受け入れるための処方箋なんて知らない。
というか、言葉で知ったところで、体と感情で理解できなければ何の意味もない。
だから私は、どんなに影響を受けても、ひとつの思想に盲目的にならないようにしようと心がけている。
盲目的になっていいのは、自分が経験と感情と理性を以て自分の力で得た考え方だけだ。
言葉で聞いただけの考え方ではなく、それに対して腑に落ちるような経験と感情があってはじめてそれは自分の思想になる。だから、影響を受けたといって他人の意見を雄弁に語るようでは話にならないのである。
だから、言葉で聞いただけの考え方には盲目的にならない。
私が今受けている影響は、まだ自分のものになりきっていない感覚がある。
納得する経験がないわけではないが、それの反証となる経験と感情も同じくらい、いやそれ以上に自分の中にあるからだ。
それを「影響を受けた」と表現すること自体間違っているとは思うが、適切な表現が見つからないので許してほしい。
というところまで書いて、何を以て言葉が自分の思想になるか、という考え方そのものがまさに他人から得た思想であることに気が付いた。
人間は難しい。その文章全体の内容ですら、自分の思想ではなく他人の思想のコピーなのかもしれない。
自分で自分を理解することほど難しいことはない。人間である以上、自分のことも他人のことも100%理解するのは不可能である。
自分の言葉で語ることがどんなに難しいことなのか。
他人の意見を武器にしないためにはどうしたらいいのか、必死にもがいて生きていく必要がありそうだ。
人生、こういうところが面倒くさくて、面白くもある。
本文とは全く関係ないが、私も自分で表紙画像作ってみようかな。
人の素敵な写真やイラストを借りるのもいいけど、謎の罪悪感がある。
デジ絵と写真にチャレンジしてみるか~(また新しいことに手を出す……)