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陣痛に耐えながらプリントゴッコ

 1993年7月18日、日曜日。

 日付が変わって2時間ほど経った真夜中2時ころに、私は突然バチッと目が覚めました。

 陣痛キターーー!

 そこで私が真っ先に思ったことは……、

「あぁっ! このまま入院してしまったら、書きかけの暑中見舞いのハガキがムダになってしまう!」

 ということでした。1990年に生まれた長男と、この時生まれた二男は、ふたりともそれぞれの予定日を5日過ぎて生まれてきました。私たち夫婦は、その頃はまだ私の両親と一緒に住んでいなかったので、長男と一緒に出産前から実家にいたものの、うっかりのんびりし過ぎて、暑中見舞いのハガキは宛名を書いただけで真っ白でした。

 夫は不治の「めんどくさい病」なので、私が入院してもこのハガキを印刷してポストに投函など、してくれないだろう。でもさすがに印刷をすっかり済ませて、投函だけならやってくれるかな。というか、それぐらいやってくれ。こっちはこれからまたあの痛い思いをして、1か月ぐらいは安静の身なんだから……。

 結果、投函だけはなんとか引き受けてくれました。

 私は真夜中、ごそごそと起き出し、当時暑中見舞いや年賀状の印刷に使っていた「プリントゴッコ」をスタンバイしました。

 1枚ずつハガキをセットして、地道にパシャ、パシャ、と印刷してゆくも、時々陣痛の波が襲ってきて「あいたたた……」と手を止めつつ、無事印刷を終えました。当時夫は義父の経営する会社で営業として働いていたので、その関係者の方へのハガキが多く、200枚ぐらいはあったと思います。

 夜が明けると雨が降っていました。1993年は、一度梅雨明け宣言をしたにも関わらず、気象庁が梅雨明けを撤回した珍しい年でした。8月の日照時間がなんと2時間ほどで、夏とは思えない肌寒い日が続き、作物に大きな影響があり、夏ならではの商品が全く売れませんでした。特に翌年の米不足は深刻で、ふだん耳にしたことのない「標準価格米」が出回ったり、海外からお米を輸入し、それが美味しくないとか、捨てられているらしいとか、いろいろなことがあった年でした。

 その、平成の米騒動みたいな時期真っただ中に離乳食を始めた二男はほとんどお粥を食べてくれませんでした。やだこの子、赤ちゃんなのにお米の違いがわかるのかしら? なんて冗談を言いつつ、食べてくれないのも困るので、よく食べてくれるうどんばかり食べさせていたら、大の麺好きな子に育ちました。

 その二男が生まれてすぐの頃から、根拠もないのに私は不思議と、

「この子はいつか遠くへ行ってしまう子だ」

 という確信のようなものがあったのです。今年の7月で二男も30歳になり、はたちの成人の時はまだ大人という気がしなかったけれど、2019年にめでたく結婚もして、そこそこ立派な大人になったではないか、と私も感慨深い気持ちでした。

「ようこそ、こちらの世界へ」

 なんていう、ふざけたLINEを送りました。

 その二男が来週、熊本県へ引っ越すことに。そこでの仕事に採用になったそうです。妻とふたりで、新天地での生活に夢をふくらませているようでした。聞けば「骨を埋めるつもりだとか、まだそこまで考えてはいないよ」とのこと。でも、なにごともふたを開けてみないことにはわからない。

 寂しさはないと言えば嘘になるけれど、この世に送り出してこの頼りない母の手でどうにかこうにか育ててきた記憶があるからか、遠くへ行ってもつながっているという不思議な感覚があるのです。


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