尾ひれにぶら下がっていたもの

3月31日から自主的に在宅仕事のみに切り替えてから
2か月が経とうとしている。

お世話になっている比重の大きい編集部が運良く在宅に対応したこともあり
その他の取引先からの依頼は若干の減少はあるものの、
仕事はなんとか続いている。

近くからは「明日から以前と同じように出社だ」、
「6月からは通常通り」といった声も聞く。
わたし自身は、ひとまず6月いっぱいは現状の在宅作業となりそう。


都内に住んで、はや十数年。
東京近郊から通学・通勤していた時期もあるので
満員電車というものは「生活に必要なものなのだ」と割り切っていた。
職住接近で自転車通勤をしていたこともあるけれど、
基本的にはラッシュの中で通勤してきた。

でも、今回図らずも混雑と無縁の生活をする機会に恵まれて
こんなにも心持ちがちがうものなのかと、戸惑っている。

仕事が終わってから、好きな本を読んだり、映画を観たりすることさえ
これまではままならなかった。
それが、休むことに徹していた節のある休日も
読書だけにとどまらず、自転車を走らせて運動をしたり、
友人に手紙を書いたり……なんというか、
いわゆる「実りある休日」のようなものを過ごす自分に出会った。

1か月のうちの繁忙期の労働時間は変わっていないので
仕事の減少を考慮にいれても
この差は人混みと接することによるものなのだと自分では認識している。

わたしは、そんなに人混みに疲れていたのか、と実感すると同時に
当たり前だと思っていたとはいえ
自分が無自覚でいる事柄への向き合い方が変わると、
暮らしがこんなにも大きく変わるのだということに
今更ながらに驚いている。
正直にいえば、慄いている、といったほうがしっくりくる。


それと同時に
自分の中を占める「外食(というか外飲)」の立ち位置も
微妙に変化していることに気づく。

これまでは毎週好きなお店に行き
それなりの量のワインを飲み、その場を楽しむ時間の裏で
日々の生活で尾ひれにぶら下がってしまったものを
篩い落とさんとしていたように思う。

でもその「尾ひれにぶら下がっていた」はずのものが、今はほとんどない。
ワインを飲む量も減った。
家でひとり、グラスで2、3杯飲むだけで満足(というか寝落ち)する。

外で飲むのは好きだ。
家で飲むのとはちがう楽しさがあることは、よく知っている。

ただ、これからはこれまでとは同じように外で飲むことは
微かな違和感を伴うだろう。
たとえ、3月以前のような日常が戻ってきたとしても。
その違和感の正体は、まだうまく言語化できないけれど。

“新しい生活様式”が世間に流布しているけれど
この違和感はそんな様式の有無に拘らないところから
じわじわと染み出しているような気がする。


…そんなことを考えながらも
夏が過ぎるころには「そんなことを思っていた時期もあったっけ」と
あっけらかんとする自分がいるのだろうか。
もとの日常を取り戻して。

そんなことを思う、緊急事態宣言解除当日。


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