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実現する夢がある。
全ての人が、自由意思をもって生きられる社会。地域、共同体。理想郷をつくる一助になること。

輪郭がぼんやりしていて、全然具体的じゃなくて、相手が大きすぎて、でも、私は今の社会システムが壊れた先に、そんな素晴らしい世界がきっとくると信じているから、今日も目の前で起きていること、自分がすべきことに本気で取り組む。

不安に駆られる人たちに、安心を届けられる、繋がりを感じられる、相手のすべてを肯定し続けられる、そんな仕事をする、価値提供をする。
そう決めました。

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6日間のお盆休みを明けて、日常に帰ってきた。
朝から短時間で特養で介護の仕事。約1週間ぶりの現場。自分がお盆休みに入る数日前に未経験で入職したスタッフの食介が、1週間前とは比べものにならないくらい雑になっていた。人って1週間でこんなにも変わるものなのだろうか。初日か2日目、利用者さんの目を見て話かけ続け、飲み込みを急かさずに待ち、(相手が認知かなり進んでいて、会話が出来なくとも)「◯◯ですよ」と料理名や食材名を説明して、丁寧に介助していたのに、それじゃいくら時間があっても足りないことを悟ったのだろうか、「はい、ちゃんとモグモグして!飲み込んで!寝ないでよ、起きて!」何かに追い立てられるように、すげースピードアップしてスプーンを口元に運んでいた。気づけば、それを横目に、自分も他の利用者さんを追い立てるように食介していた。「はい!そうゴッくんして!お願い、お茶も飲んで🙏水分が足りてないって看護に言われてるの🥶」

他のスタッフの言動をみて我が身を振り返る。自分は丁寧に出来ているだろうか?安全に過ごしてもらえるよう配慮出来ているだろうか?技術が足りているだろうか。イラついていないだろうか。

本当はもっと丁寧にやりたい。でも、9時半までには朝食を片付けたい。その後に10時の水分、排泄、入浴、昼の配膳、、少しでも滞ればスタッフの休憩まわしが出来なくなる。時間がない。丁寧にやりたいは理想論だ。丁寧でゆっくりと雑で早く、どっちをとるかと議論をした末、丁寧に早くという結論になったが、それが出来るならとっくにやってるよとなって謎の会議が終わったという話を聞いたことがある。改善し続けなくてはいけない。みんなわかっている。テキトーでいいだろうなんて、本来は思っていなかったはずだ。どんな状況でも最善を尽くすのが、プロ。分かっている。だけど、時間に追い立てられる現実の中で、利用者さんの行動をこちらが制限してしまう、自由意思を奪ってしまう瞬間を、一日のうちに何度も見るし、気がついたら自分もしていることがある。「◯◯してもらえる?」そう言われた時、「ちょっと待ってください。いま順番にいきますから。」と言ってしまうことがある。

立ちあがればセンサーが鳴り「危ない!」と言われ、歩行器に腰かけていれば「そこは座るところじゃない!」と言われ、利用者さんが床に座って寛いでいた状況を目撃した暁には「床に座っていた」という内容の事故報をあげなくてはならない。

介護職として現場に入るようになってから、色々な矛盾を感じている。誰も悪くない。けれど、何かが根本からおかしい。

午後、訪マで行った施設の入居者さんが言っていた。「コロナが終わったら散歩に行って、外の空気が吸いたい。」買い物に行きたいとか、外食がしたいとかですらなくなっていた。ただ、「外の空気が吸いたい」そんな願いすらつぶされる現実がある。もともと転落対策で数センチしか開かないようになっていた居室の窓を開けて外の空気を吸おうとしていたところを見つかり、「風が強いからだめ!」と言われたそうだ。「冷房ついてるんだから、窓は開けないでいい!」そう言われたらしい。「閉じ込められている、こんなはずじゃなかった。」利用者さんの気持ちに寄り添う、その程度のことができたとして、現実は何も変わりはしない。話を聞くこと、共感すること、「ルールが厳しすぎるよね」そう言ってあげるだけで、何が救われるのだろうか。

もともと高齢者は耳が悪い方が多い。マスクだけで口元が見えないので、スタッフが何を言っているかわからないことが多々あるという。「でも忙しそうだから。聞き直すと悪いからわかったふりをする。適当に頷いておく。」そんな話を何人もの利用者さんから聞いた。それに加えて、利用者さんにもマスクをさせはじめたなら、それはもう虐待ではないだろうか。

おかしな世の中だ。部屋から一歩出たら「コロナ流行っているんだから余計なお喋りはしない!」と言われる始末。マスクをしていても会話をしないよう通達がきているらしい。「第7波」以降、みんなが集まっても食堂がシーンとしているんだという。「喋るなって言われ続けて、頭がボーっとしてくる。ボケてきた気がする。」そう話す利用者さんの表情が、会話がこんなにも厳しく制限されてはいなかった1ヶ月前と比べて、明らかに乏しくなっているのは気のせいではない気がしてしまった。「感染対策」としてマスクをさせること、会話を禁止すること、席替えをして仲の良かった人たちを敢えて遠くに座らせて利用者さん同士の接触を断つこと、、施設側もやりたくてやっているわけではないことは分かる。だけど、感染を過剰に恐れるあまり、人としての本来の在りようが失われていく。そんな現実をみて、自分が特に何も出来ないことが今はとても悔しい。

恐ろしい世の中だ。すべての施設がそうというわけではないけれど、「普通の」生活をさせてもらえない状況を目にして、あらためて何かがおかしいと感じてしまった。

個人的には「コロナウイルス」というものが飛沫感染する、という一般論を信じていない。施設側に見つかったらブチ切れられるだろうが、利用者さんの部屋で施術に入っているとき、結構な確率で顎マスクで喋っている。耳の良い悪い関係なく、口元や表情が見える方が利用者さんは明らかに安心した表情になる。認知のある人に、(マスクを外したいけど他のスタッフに見られた時ヤバいから)顎マスクで話かけた時の方が、明らかに反応が良い。認知がすすむと、会話が出来なくなる、通じなくなる。利用者さんはこちらの動きや雰囲気や空気感で笑ったり、不穏になったりする。利用者さんを安心させるなら、顔をちゃんと見せた報が良いのは明白だ。

陰謀論とかじゃなくて、息苦しいから、そして相手を安心させるために、マスクを外して仕事をしたい。どうやって伝えたら、マスクを本気でしている人達にそれが伝わるだろうか。誰とも闘いたくはない。けれど、意図的に人々を分断させようと仕向けられている今の社会情勢で、もういちど人々が繋がりを取り戻すには、コミュニケーションを取ることが必要で、それにはどうしたって会話が必要で、そのためにはマスクしなきゃねーの常識をそろそう本気で疑って、考え直すべきタイミングがとっくにきているのではないだろうかと思うのです。

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「〜したい。」ではなく、「〜する」と書くこと。願いは現実化すると信じること。自分自身を疑わないこと。目の前の相手は自分の写し鏡。
だから自分を否定的にみてしまう人は他者のことも低くみてしまう。そして対立や争いや見下しなどのマイナスなエネルギーが生まれてしまう。
だから、まずは自分自身が自分を信じること。愛すること。自分を救った上で、他人を助けにいくこと。

大丈夫。もう怖くない。

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