妻に振られた男


井上は今日も眠れず悶々としていた。使っていた睡眠導入薬には手をつけまいと心に決めていたのだが、結局また飲んでしまうのだった。眠れないのにはいろいろある。最近の彼の仕事が自身の能力を超えているということもあるが、それよりも何よりも彼の心を乱しているのは、妻からの突然の別居宣言なのであった。数日前、些細なことで諍いになった際、妻は、もういい、出て行くと彼に言い放った。彼は激しく動揺したが、身勝手な自尊心やらが大いに邪魔をして、すぐに謝ればいいものを、どうしたものか、迂闊にも、逆に、ああ、出ていきなよ、なんて返してしまったのだ。妻は荷物を纏めて家を出ていってしまった。突然、モノが少なくなった我が家を見て、彼はああこれで清々した、自由でいいや、これからはゆっくり寝られるなんて言っていたのに、その日から眠れなくなってしまったのだ。心を落ち着かせ、暖かいパジャマを新調し、布団まで羽毛に切り替えたりした。寝酒は良くないからと、それまで習慣にしていた寝酒のウイスキーも絶ち、天井の灯も消して読書灯で本を読むようにした。それでも頭が冴え続け一向に眠るようなモードに入らない。仕方なく布団から出て部屋でぼんやりとしている。ある日などは、夜中に近所を散歩して、気づいた時には隣町までたどり着いていた、なんてこともあった。それでも眠れない。妻の一言が頭の中でリフレインされている。 「もうあなたとはやっていけない。もう家を出る」初めて聞く言葉だった。世間一般的には「ありふれた?」言葉なのかもしれない。だが、初めて聞く言葉にしては、これまでの過去20数年の重みが違った。20数年聞いたことがない言葉を初めて聞くのだ。
だが、致しかたない。気を取り直していこう。そう思い直して、なるべく気にかけないようにして過ごすこととした。普段の日常を取り戻すのだ。日々のルーティンを取り返すのだ。朝起きて軽食とコーヒーを取って仕事に行き、一応仕事に没頭する。夜に仕事を終えて帰宅して、食事と風呂をすませ寝る。妻が居た時は朝食も夕食も風呂も妻任せだった。日々の何気ないことがいかに大事なことか改めて身に染みる。
考えてみれば、妻以外の女性と付き合ったことなどなかった。結婚する前、その場限りのことはあっても、きちんと交際した女性は妻以外にいなかったのだ。出会い、デートを重ね、お互いがどんな人間なのかを少しずつ見極めていく。そして、この人ならと、お互いに納得した上で、結婚する。結婚した後もそれはいろいろあるだろうが、時には深刻な喧嘩もあるだろうが、それでも最後まで添い遂げていく。それが当たり前のことだと思っていた。「自然に」そういうことが出来るものだと思っていた。でも、決して自然にできるようなことではなかったのだ。「自然に」とはなんと調子の良い言葉だろうか。自分の努力等顧みることなく、勝手に良い方向に流れていくとでも思っていたのであろうか。今さらながら馬鹿な人間だと、つくづく自分のことを思う。井上の一人暮らしは何ヶ月も、いや何年も続いた。一旦やめたはずの酒も大いに飲むようになっていた。今夜もコンビニで買ってきた総菜をつまみに、誰もいない家で一人ビールから飲み始める。缶ビールを2本ほど空けたら焼酎を湯で割って呑む。それを3~4杯いったら次はウイスキー、そして日本酒までいく。気づけば時間は過ぎ。。井上には持病があった。妻がいた時には、必ず制してくれていたので、こんな飲み方はしなかった。そもそもあまり飲んでいなかった。それが一晩に普通にボトルを空けるようになるとは。。だんだん、井上の意識がぼんやりしてくる。と、その時だった。玄関が開いて、聞き覚えのある声がした。懐かしくもなじみのある声だ。その声は帰宅を告げる日常の言葉を放っていた。ただいま。何とありふれた言葉であろうか。この世界のあちこちで告げられる、人をほっとさせる言葉。なんだぁ、帰ってきたんだ。井上は妻にそう言葉を発した。見ると、妻が立っている。それも結婚式の時のような純白な光に包まれた姿で。キラキラしている。いや、いつも通りの妻だ、よく見たら普段着だ。普段着なのにどうして輝いているんだ?その服は白の絹のようだ。白い絹だから日の光をよく通す。日の光と絹が白い肌をより鮮明に映し出している。真っ白な雪。あぁ、そうだ。結婚式は冬だった。朝は快晴だったのに午後から雪が降り始めたのだ。雪と純白のドレス。透明な白がくっきりと脳裏をよぎる。彼女は優しく微笑んでいた。純白のドレスの裾を少しだけひらひらさせながら、くるりと右の肩から向こう側へ振り返って歩き始めた。大きく開いた背中が眩しい。光と雪とに包まれてより一層輝き始める。大人の女性なのだが、まるで生まれたばかりの赤子のようにも見える。その位眩いのだ。その時、彼女の髪の毛から足元に至るまで桜吹雪が舞い始める。。ん?雪と桜?と井上はぼんやりしたままで見上げた。

数日後、地元の警察署から派遣された警察官3名が井上宅の呼び鈴を押した。何度も何度も押した。だが、応答はない。こうした事態を想定してあらかじめ同行していた管理人が鍵を開けた。管理人と警官3名が井上宅に入っていった。訝しんだ近所の人達が遠巻きに見る。と、その中の1人が少しだけ勇気を出して管理人に聞いてみた。管理人はただ顔を横に振るだけだった。その足元に1枚の桜の花びらが舞ったことなど気付くこともなかった。



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