神への悔い改めは恵み
悔い改めさえ、神が下さるものです。
だから、悔い改めは恵みだと書かれています。
神へ悔い改めることにより、はじめて罪が赦されるからです。
そして神と共に人生を歩むことが出来るようになります。
〈証〉
こんな汚い自分、醜い自分が変われる訳がない。
他の人が、外から見たら解らないけど、どうしてもコントロールできない
醜い部分があるのを、私は知ってる。
でも何をしても、そういう自分は変われなかった。
調子の良い時はあまり問題ではない。好きな友達といる時は楽しい。
でも、コロコロ変わる人間の気分によって、自分や他人の人生がこんなにも波嵐のように左右されるのを、絶望的な思いで見ていた。
外から見たら、よくいる普通の若い女の子だったと思うけど、内面はそんなだった。
仏教も信じてみた。
四柱推命もやった。
でも何も変わらない。
専門学校で、技術も磨いた。
「社会に出るために必要だ」と言われることは大体やった。
まともな人間と、外から見たら思われたでしょう。
でも心の中では、死にたいほど絶望していた。
希望なんてないと思っていた。
恋人には振られ、受験には落ち、弟も荒れていたため実家にも住めず。
むしろ、どんどん悪い方向へ行き、精神安定剤まで飲んでいた。
あらゆる賢い人のカウンセリングも受けた。
哲学書も読んだ。
でも人には人を変えられない。自分さえも。
他の人だって、見て。もうどうしようもないじゃない。
世界が罪だらけ、悪の支配下にあるように見える。
どうやっても無理。
でもこのまま生きていくのが辛い。
誰であれ、気分によって、いじめっぽい状態になる、くだらない学校生活にもうんざりだった。
コロコロ、気分で変わる、友情。恋愛。
弱ってる人を励ます代わりに、むしろライバルが減ったように感じ、人を人として見做さない人間の醜い習性を、どこに行っても嫌でも目にする。
職場?それどんなの?学校よりはましなの?
動悸がする(よくパニック発作をおこしていた。今思えば、薬の副作用の方が地獄だった)のに、正社員なんかなれるの?
時折、良い友人もいたけど、引っ越してしまえばまた一人になる。
友情って?そして、本物の愛、結婚や恋愛なんて、本当にあるのだろうか?
神様、あなたが、本当にいるなら答えて。
誰も教えてくれない。だから聞きます。
これが祈りかは解らないけど、もし本当におられるなら、私にあなたの存在を教えて下さい。
宗教だろうが、そこに本当の神がいるなら、その神にだけ会いたい、宗教抜きに出会いたい。
神様がいないなら、その結果を受けて、どう生きていくかを考えなければいけない。
神様がおられるなら、その結果を受けて、真摯に向き合いたい。
だって、神様だもの。無視するわけにいかないでしょう。
というかワクワクする気持ちもある。だって神様でしょう。
私には、何も解りません。だから教えて下さい。
そう祈った事があります。25年位前です。
そして、疑い深い私は、「答えを下さるなら、宗教書以外から、普通の出版社の本から、答えを下さい。直接聖書や神道や仏教の経典などを読みたくないです。人間の改ざんがあるといけないから。もうなにが真実で正しいか、見分ける余力も能力もありませんから」と祈った。
「人の手、人の息のかかった宗教からは答えは要らない。絶対に一般書から答えて下さい」と言って。
宗教のなんぞやも一切知らなかったけど、とにかくその祈りは答えれた。本屋で手に取った一般の雑誌(PHP)を読んでいたら、そこに答えとなる体験談と聖書の記述があったのだ。
その人はすでにクリスチャンで、聖書も学んでいたけど、どうしても抜け出せない疑問と苦しみから、真理を必死に聖書に求めて、ついにこの聖句に出会ったと言っていた。彼の通った絶望と、答えを見つけた時の安堵が、良く伝わる記事だった。
私にすれば、約束通り一般の雑誌からの答えでもあり、にわかに信じられなかった。
でも日本の一般の雑誌なのに、クリスチャンだという人が投稿してるのを見るのは初めてだった。
そして、その人が求めていたというその聖句と、彼の苦難からの脱出の証が、私の求めていたものだった。
「人間の手垢がついたこの世のものに、たとえ聖書や経典の中にも、真理なんてないだろう」という絶望の訴えを覆すものだった。
「善悪なんて、人が良いように作り替えられるでしょ?だから一度この世に出て来たものは、良い物などあり得ない」という私の考えを、聖書そのものによって、完全に打ち砕くものだった。
それは旧約聖書の伝道者の書というものだった。
私は、このむなしい人生のすべてを見てきました。正しい人が若死にし、悪人がたいそう長生きすることもあるのです。だから、正しすぎたり、知恵がありすぎたりして、自滅してはいけません。かといって、悪人になりすぎるのも、愚か者になるのも考えものです。自分の時が来る前に死んではいけません。 任せられた仕事は、どんなことがあっても手放してはいけません。神を敬っているなら、必ず神からの祝福を期待できるのです。
神が、人というものをとことん解っていることが解った。
正しい振りをするのと、正しさの違いを教えてくれた。
悪い振りをするのと、悪さの違いも。
宗教では覆い隠せない真実が、ここにはある。
真理を求めてさまよう人は、私だけじゃなかった。
神と人間の違いを見せられた。
そしてこの教えの実践的なことに驚いた。
「私が正しいと思うこと」をするのが善じゃなく、善は善、悪は悪。
そしてそれをどのように扱うかを教えている。
悪を手放すなという意味ではなく、神の物ではない人間の知恵があり過ぎる事について、わかりやすく説いている。
何と深い教えだろう。
正しさのなんぞやも示せないのに、正しさを強要する、神は、そんな方ではなかった。
神は、現実的な、現実の神だった。
善悪の捉え方と、善がなんであるかも教え、生き方の実践方法まで示すことができるのだ。
この記事を書いた人は、キリスト者なのに、本当に善悪なんてあるのか?と悩んで、悩み抜いて、この聖句に答えを見つけたという。
その彼の苦しみをも用いて、この雑誌を手に取った私に、悩みにいま一番答えてくれる聖句を、私の願った通りに一般書から、神は示して下さった。驚きだった。
あんな状態で、あんな祈りと言っていいかわからない祈りなのに、神に祈った祈りが答えられたからだ。
神はおられた。でも頭がぼんやりしていた私は、ここからもっと神のご性質を知るまで、数年が掛かった。
その旅路の証は、また別に機会に譲るとします。
でも、こんなに的確に、納得いく答えを貰ったのは、初めてだった。
神はいる。でもどうすれば会えるのか。
私は、どうすればいいのか。
薬なども飲んでいたし、ぼんやりした頭であったけど、そうした求道が始まった。
自分に罪があって、その罪がある限り、清い神とは出会えないと知るまで、もう少し時間が掛かった。
宗教嫌いと人嫌いが禍いし、キリスト者(人)に出会う機会や、人を信頼する事を、遠ざけていたからだ。
危ない精神状態だったと思う。今考えても。
でも神様は、ものすごい憐みと恵みを下さっていた。
いつも。
振り返れば、いつも、どこででも助けようとして下さった。
私が振り払わない限り、いつでも神の助けがあった。
(その方がイエス・キリストであるというのを、また知るようになるまで、時間が掛かった。)
〈悔い改めについて〉
「だから、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」マタイ3:8
神がご自身のほうにその人を引き寄せられるのでなければ、誰も悔い改めて神のもとへ来ることはできません。ヨハネ6:44
そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。使徒5:31
人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。使徒11:18
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。ローマ2:4
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。2ペテロ3:9
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。2コリント5:17
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。ガラテヤ5:19~24
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
ヤコブ2:14~26
神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。 モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。 サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。
使徒3:18~26
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?