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不信者との結婚生活。

結婚当時、私はイエス信者ではなかった。自分がわざわざ本屋に赴いて聖書を買うなんてことも夢にも思わなかった。

イエス信者になった背景は今後語るとして、自分の信仰を夫に打ち明けた時の彼の困惑した顔と言ったらもう。カルト?洗脳されてんの?とイヤな物を見る様な目をして、「お前が宗教を……まさかこんな事で俺たちの間に距離ができるなんて全く考えてもいなかったよ!」と言われる始末。

夫の言っていることは痛い程わかる。私だって最近までは夫や不信者側だったし、神やイエスや聖書の事を一緒に嘲笑ってたこともあったもの。それが急に「イエスを信じる」となれば、そういう反応をされても仕方のないこと。

自分でもこんな誤算が生じるなんて思わなかったのと同時に——夫には申し訳ないけれど——とんでもない奇跡が自分の人生に起きてしまったと感動した事も本音だ。

幸いにも私の信仰生活(彼がイエスの救いをいつか理解してくれるという想いも込めて)を目を瞑っていてくれているのだけれど、これが難しい。コリントの信徒への手紙二の14節と15節にあるように「不信者と交わってはいけない」、その意味と理由を身をもって体験する日々。

14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

コリントの信徒への手紙二 新約聖書

ならば途中でなぜ私を信者にしたのですかと問うことも何回もあった。それは夫の為に側で祈って欲しい、夫にも目覚めて欲しいという御父のご意向を感じ取ったような気がする。私がこうしてイエス信者になったのもきっと、誰かが祈ってくれていたからかもしれないから。

これも試練の一つなのだろうなと思わされる日々である。


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