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栗ごはんと自由

 思い返すと母はあまり料理が好きではなかったのかもしれない。

 今のようにコンビニもなく、惣菜を売る店も少なく、種類も少ない時代。山を切り開いた住宅団地には飲食店もほとんどなく、食事は家で作らざるを得なかったから、毎食作っていたけれど、料理番組などを積極的に見たり、新しい料理にチャレンジしようということはあまりなかった。(新しい味を父や私があまり歓迎しないことが多かったからかもしれないが(笑))

 そんな中でも、母の作る栗ごはんは好きだった。「美味しい」とされる栗ごはんは他にもあるかもしれないが、秋になって家で栗ごはんが出てくると嬉しかった。

 数年前、心臓疾患を抱える母の定期的なチェックのために通院していた病院の待合室で、母が急に話し始めた。

 「この間、栗ごはんをたくさん炊いたので、〇〇さんにお裾分けしたのよ。」

 その頃の母は意識障害なのか認知症の一種なのか、過去の記憶や世界が混同したストーリーを話すことが常になっていた。

 「〇〇さん」とは10年以上前に引き払った私の実家の斜向かいに住んでいた方で、私も実家にいた頃は挨拶程度のお付き合いはあった方。世代的には母より少し年下くらいだっただろうか。

 いずれにせよその方と母とは、母が施設に入って10年以上会っていない。もちろん栗ごはん自体も母はもう10年以上炊いてはいない。

 「〇〇さん、栗ごはんなんて炊いたことがないって言っていたわ。「好きなことだけやってここまできちゃったから」ですって。」

 そこから少しの間を置いて、遠くを見つめるような目で、でも明らかにそこまでとは違った強さではっきりとつぶやいた。

 「うらやましいなあ。好きなことだけやってきたなんて」

 昭和一桁生まれの母。波瀾万丈の人生ではなかったとしても、「好きなことだけ」やっているわけにはいかなかっただろう。

 結婚して子供ができても女性が仕事を続けること自体が珍しかったし、自分の実家は遠方で自分の親にすぐにサポートを頼める状況ではなかった。

 父も昔ながらの関白亭主で、定年退職後はずっと家にいて、毎日の食事は作り立てを自分が座ったらすぐに食べ始められる(ご飯もお味噌汁も熱々のものが目の前によそってある)状態であることが当たり前だと思っているようなタイプだった。

 お花のお稽古をしたり、地域の子供会や団地自治会の世話役をしたりと、それなりに生活を楽しんでいるようには見えたが、本当はもっと自分の好きなことに打ち込みたかったのかもしれない。

 父も亡くなり、自由に行動できるようになった時には身体の方が不調となっていて、文化的なイベントや講座にも行きたいと思えばずっとアクセスしやすい都市の施設に入居したというのに、結局は自由に外出することもままならなくなっていた。

 それでも施設の周辺の散歩や施設内のイベント、好きな編み物などを楽しんでいた母。

 今となっては、本当のところはどうだったのか、聞くすべはない。

 施設入居した最初の頃に、プロの写真館の方が出張撮影に来てくれた時に撮った、窓辺で少し上の方を見上げる写真が、遺影として私の家の一角で静かに微笑んでいるだけである。



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