存在感は重さで測るものではない・・呼吸のワーク日記
この連休、お天気も良いのに運動不足過ぎて体がバリバリ。
オンラインで話しながら硬い体を伸ばそうと色々伸びをしてみる。
そんな私に画面越しの先生から「体の表面をいろいろ触ってみてはどうですか?」との声。
「伸ばそう」と力を入れて引っ張るよりも表面に丁寧に触れていく方が体が伸びていく。
顔から首、腕、足とゆっくり触れていく。片側ずつ丁寧にゆっくり...。右側だけ充分にやってみると体の右半分が充実した一体感。声も変わっている。
その後、別の動き方で今度は左をゆっくりと。腰掛けた姿勢が体の中の流れを少し滞らせてしまう気がして立ち上がってみる。足元から頭の上までが真っ直ぐに一つにつながる気持ちよさ。
「さっきとはまた違った声になっていますよ。」と先生。さっき右側が充足したときの声よりも明るさが出ている、良い意味で軽さが出てきたとのこと。
根っこがなくなったわけではなくきちんと根は張っている。根が張っているからこその軽やかさが出てきたということ。
「存在感は『重さ』ではない」。
重量を測るものではなくて、軽やかだけど確かな存在感を持つものがある...。そこに優劣はないのではないか。このところ別の分野で考えていたこととも繋がってくる。
外はいいお天気だけど強い風が吹き荒れていて、本当は窓を開けて外の空気を入れながらワークしたかったけれど、風が強すぎて家の中の間仕切りなどがバタバタしてしまうので時々開けたり閉めたりを繰り返す。
体の声を聴いていると、外の風の音に混ざって鳥の声、車の音など様々な音が聞こえる。それがみんな自然の中に存在しているのだなあなどとぼんやり考えていると自分の呼吸も一つの自然の中にあるものとして、不規則な風のリズムと合ったり離れたりしながら存在しているのがわかる。
先生が提案する動きが一部うまくできなくて、でもそこで無理して形を同じにしようとせずに、今この動きでやろうとしていることは何か、自分に無理のない動きでやろうとしている本質に近づくものはないかと自分の体で試行錯誤する。
「型に合わせる」ことが目的ではなく、自分の体が今求めるものは何かを自分で探っていく。その営みでいいのだということが心から信じられることがこのワークを続けてきたことの成果。
言葉でのやりとりも交わしながら、ほんの少ししか動いていないのに、体はすごくすっきりしている。