日本人は無責任なのか?
以前、仕事の合間に 外国人の上司とコーヒーを買いに行く道中、こんなことを聞かれました。
「なぜ日本人はミーティングで何も発言しないのか。」
よく外国人が思う ”日本人あるある” だと思います。
上司の意見はこうでした。
・日本人の文化がそうさせるのか。
・はたまた無責任なのか。
私はう〜ん、、と少し考えて、「多分どっちもあると思う、、、」と少し自信無く答えました。
上司は、続けました。
「わかった、無責任なのは最終的には個人的問題もあるとして、
文化的な背景は何なのか。文化が理由の一つなら、なぜそう考えるのかが知りたい。」
怒っている訳ではなく、単純に彼女の中で腑に落ちない様子でした。
“日本人あるある” な質問ですが、実際に具体的な説明を日本人として聞かれると、一言で説明するのは難しいですし、その質問を受けて私なりに何から起因するものなのか考えてみました。
以下、私の考えです。
(あくまでも一個人の意見なので悪しからず。)
・日本の学校教育では大半の局面で、 “全員一緒” が基本
・”自分の意見” より “一般的に良いとされる意見” が正解
・物事の捉え方を◯か×の二択で考えがち
・目上の人や、立場が上の人への意見は遠慮しがち
・自分の発言に対して意見を受けることをネガティブに捉えがち
・以上の項目に何の疑問も抱いていない。もしくは見て見ぬふり。
ざっと書いてみましたが、もちろんこの全てが悪い意味としてだけ捉えている訳ではありません。
が、ミーティングで発言をしない背景には、上記で述べた項目がほとんどの日本人には染み付いているからな気がしました。
これ以外にも色々あるでしょうが、私的には最後に書いた、
“疑問を抱かないところ” “見て見ぬふり” が最大のポイントです。笑
私は日本の学校教育でしか育っていないので、比較した話は少し偏りがあるかも知れませんが、
日本の教育はしっかりとカリキュラムに沿って行われているイメージがありますし、
中高大学と上がるにつれ学校のレベルの差はあるとしても、学業のトータルで見て、“最低限学べるレベル” は世界的にも高いと思っています。
ですが日本の学校で同じくらいしっかり学ぶのは “空気を読む” こと。
話はズレますが、私は英語を喋れます。
ネイティブスピーカーのように完璧にペラペラな訳ではありません。
うまく言えない時は単語だけを繋いで説明することもたまにあります。
ですがある程度の映画は字幕無しでも大体の理解はできますし、自分以外全員外国人のミーティングにもついていけてると思っています。
でも日本人に “私は英語を喋れます” と言うと、もうネイティブのようなペラペラスムーズに話すレベルだと思われがちですし、
逆に言うと、完璧レベルまで達した人のみが “英語を喋れると公言できる” くらいハードルが高い気がします。
それ以外に置いても、”完璧主義” の日本人は、色々なシーンでハードル設定は高いのですが、
その高さに届くためのプロセスがどうも苦手な人が多いように感じます。
(その高いハードルに行き着く人達は、日本で言うところの “職人レベル” なんだとも思います。)
英語を例にしましたが、「英語を話せるようになりたいけどなかなかできないんだよね〜」という話は、私の周りでも多分何百回と耳にしたことがあります。
それに関しては、話せるようになるレベルを最初から高く置きすぎているからなかなかできないだけでは?といつも思います。笑
そんな “空気を読む” であったり “完璧主義” の思考はがあるからこそ成り立ってきた素晴らしいものが日本にはたくさんありますし、それが日本の持つ美しい国民性でもあります。
物事は何でも表裏一体なので、良い面もあれば悪い面もありますよね。
日本はしばしば、悪い面を見て見ぬふりするところがある気がしていますが、最近は日々の様々なニュースを見ながら、長年 “空気を読んで見て見ぬふり” をしてきた部分が表面化されてきたのかなと思っています。笑
結局のところ “見て見ぬふり” が行き着く先は “無責任” になってしまいます。
私が上司に答えた「どっちもあると思う。」を今度は自信を持って言い直しました。笑
無責任じゃないのに、結果的にそうなることはとても残念なことです。
対外国人だから、、ではなく、日本人同士に置いても意見を発言することは本当に大切だと改めて思います。
ちなみに彼女は日本が大好きで、もっと国民性を知りたいが故のこの会話だったのでした。
外国人目線ではきっと日本人は色々と謎に包まれているのだろうと思います。笑