褒め方と批判について思うこと
始めに
「他人の価値観を否定してはいけないなら『他人の価値観を否定するという価値観』を否定することが許されるのは、辻褄があってないのではないか」
ということに気付いてから2年。
「細いですね。も言っちゃいけないんだって。」
という言葉に衝撃を受けて1年。
日本も以前よりは多様性が尊重されるようになったと思う。
しかし、まだまだだと思うことも多いしもやもやすることも増えた。
そして何より、自分が誰かを傷付けていないか不安になる。
今日はそんな、「多様性」とか「価値観」に関する考えやもやもやを吐露していこうと思う。
尊重の境界線
私は、自身がマイノリティの立場であったことも、そのせいで被害を被った経験も少ない。
しかし、誰かの多様性が認められていない発言を聞くと、自分の自由すらも制限されているような気がして嫌になる。
誰も排除されない世界の中で、あえてそこにいることに意味があると思う。
自分がマジョリティかつ傷付けられない立場にいたとしても、その外で排除されている人がいたなら何も嬉しくない。
誰しもが尊重されるべきなのだ。
ただ、この理論でいくと、誰かを否定することもいじめることも尊重されるべきであるはずだ。
しかし、道徳的に考えたらそれらは許されない。
では、多様性や価値観が尊重される範囲と尊重されない範囲の境界線はどこなのだろう。
数カ月前、その答えに辿り着いた気がする。
「当事者が被害や不利益を被るか。」
これが判断基準になると思う。
否定をされたら傷付く。
だから価値観や多様性は否定しないほうがいい。
多様性を認めない会社。
認めてしまったらどこかに不利益が生まれるから。
もし、どこにもデメリットがないなら尊重されない多様性なんてないと思う。
認められて、肯定されるに越したことはない。
ここで覚えておきたいのは、私自身が排除されたとしても、相手は私を排除することよって不利益を生まないようにしてるかもしれないということ。
だから自分をないがしろにしろとか我慢しろとかという話ではない。
だから人間には言葉があるし、話し合いができるのだと考える。
相手と自分のメリットを最大限に、デメリットを最小限にできるよう歩み寄ることが大切だと思う。
特別
「みんなが特別」みたいな考え方や褒め方に賛成できない時がある。
「みんな特別で私も特別。」
こういった考え方をして、自己肯定感を自分でコントロールする方法があるのは分かる。
「みんながみんなそれぞれの意味で特別。」
この考え方で自分も相手も尊重していくことの大切さも分かる。
「みんなが誰かにとっての特別。」
では、身寄りがなく孤独に生きている人は「特別」ではないのか。
「みんな」の中に含まれていないのか。
「みんな特別」なのであれば「特別」という言葉がそれとして機能しなくなる。
私の中で「特別」とは憧れの対象である。
なぜ特別なものに憧れるかって、それがそこらには無くて希少性があるからだ。
80億も人口がいて、延べ人数で言うともっといて、生命の数で考えると数えきれなくて…。
そんな世界で、慈愛の精神を持ちながら「みんなが特別だ。」と言い続けるのは無理があるように思える。
もしそれができるならそれは人ではないのかもしれない。
特別ばかりで溢れている世界なら、特別なのが普通になってしまう。
数えきれない程の生命があって、それらは自分にとって取るに足らないものばかりで、そんな中で「特別」に出会った。
だから自分の「特別」という存在が輝くのではないだろうか。
美の基準
「日本と海外では美の基準が違うから、留学や旅行では気を付けたほうがいい。」
「外見に対して言及しないほうがいい。」
なんて話を聞いたことがある人もいるだろう。
「外見とは生まれ持ったもので変えられないから、センスや考え方などの内面を褒めるといい。」
この話もよくついて回る。
これを初めて聞いたときに不安になった。
それでは、努力が誰にも認められないのではないかと。
私が必死に可愛くなったとして、それは誰も認めてくれないのだろうか。
それも私の立派な選択であるはず。
もちろん、何らかの理由で自分の外見に対する選択ができない人がいるのは理解している。
であれば、内面も同じなのではないだろうか。
外見も内面も生まれ持ったものであり、変化させることはできるけど、あらゆる要素(内的要因も外的要因も)が関係するから簡単ではないケースが多い。
努力の過程や結果を褒めたって、それは努力できる身体と精神を持って生まれたから。
できないこともやろうとしてないことも責められない気がする。
だって、そうやって生まれてきてそうやって育ったから。
生まれ持ったものだから外見について言及してはいけないなら、内面についても言及できないはずだが、そうやって発言を制限していった先にあるのはなんだというのだろう。
誰も傷付かないけど、誰も喜ばないのではないか。
期待をするのは間違いかもしれないけど、他人から褒められることで得られる喜びは偶発的なものである。
美の基準だけに限った話ではない。
良いと思っているものを良いと言えないのはすごく苦しい。
良いと思っているものを共感してくれる人が全くいないと悲しい。
だったらいっそ、同じ価値観の人だけでコミュニティを作って何世代も続いていけば今私が感じている悶々とした気持ちは解消されるのではないかと考えたこともある。
しかしそれでは、化学変化のようなことが起きにくい。
それに新たな価値観に出会って感動することは減ると思う。
世界をいくつかに分けるわけだから、最初の内は上手く回ったシステムでも、いつか争いが起こって今よりもひどい世界になるかもしれない。
じゃあこのままであることが最善かもしれない。
でも、今の世界とこれからの世界で何が褒められて、何が美しいとされて、どこまで発言が許されるのか私には分からない。
終わりに
・価値観を否定するという価値
・みんなが特別じゃないから特別になりたい
・自分が思う美しさ
改めてこれらについてアウトプットしてみたら、想像以上の分量になってしまった。
どれも、自分の満たされたいニーズやこだわりがあって、それが社会の流れや現状とは違うから、消化しきれていないのだと思う。
今後も考察を続けていきたい。
では、また。