読書 Ⅰ 短歌⑥(前)
読書の秋。今年の秋は短い気がする。向日葵は一瞬で姿を消し、月はすぐに冷える。
〈前〉
①フラワーしげる『ビットとデシベル』(2015、書肆侃侃房)
②土岐友浩『Bootleg』(2015、同上)
③嶋田さくらこ『やさしいぴあの』(2013、同)
④鯨井可菜子『タンジブル』(2013、同)
〈後〉
⑤山田航『水に沈む羊』(2016、港の人)
⑥佐藤涼子『Midnight Sun』(2016、書肆侃侃房)
⑦原田彩加『黄色いボート』(2016、同上)
⑧笹井宏之『八月のフルート奏者』(2013、同上)
→https://note.mu/jellyfish1118/n/n13fb0ecb6b61
(以下作品感想を述べるとき、短歌は太字、そのあとに章題、にしました)
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① フラワーしげる『ビットとデシベル』
アイスは少し溶けたくらいが美味しいように、定型がほろほろと崩れた自由な作品が良いと思うことがある。そして自分で意図的に作ろうとすることもある。けれどなかなか難しい。
この歌集はその自由なリズムや不思議な音律で流れていく、へんてこで、でもひたすらに凄い作品集だと思った。
そして、こういう作風なんだなと思って読んだし、自由律が好きだからというのもあってまったく気にしていなかったが、最後あとがきで、読者から見た自身の作品たちに関して「その風変わりさは何らかの野心からきたものではない。これは伝統からきている。」と作者自らが言うことに驚いた。
伝統から来ていると敢えて言い直す理由は分からないが、この作者が歴史や知識を汲んで、自身の作品たちのルーツを考えながら作っているのだという深さや豊かさが思われて、すぐに再読に手が走った。
性欲を汚いものと言う性欲から生まれたじつに魅力的なあなた(死と暴力 ア・ゴーゴー)
中高の保健の授業のときにふと思ったりした感覚をそのまま思い出した。子が生まれたということは、両親が出会い、生んだということ。そんな中で「性欲を汚いもの」と言ってしまう「あなた」に一抹の哀しさを感じる。「じつに魅力的な」と、性欲をもってして得たような表現も。
初読では、主体が本当に興奮している、という内容で読んでいたが、何度も読むと「じつに」がじわじわと広がってきた。人間って悲しい連鎖だな、と思ったりした。
桃太郎が桃を嫌いと言ったら、寂しいなあと、想像したりもした。
蝶のはこぶ象が人間を呼ぶ まだうまれていない子らの知恵を借りる(ビットとデシベル)
本当は未だに読み切れていない歌。それでもあまりに好きだと思った。
蝶が運ぶ象。その象が人間を呼ぶ。まだ生まれていない子らの知恵を借りる。要素としては結びつくのに、脳内でうまく映像が成立しない。
空想の世界であると仮定しても、「まだうまれていない子らの知恵を借りる」が、うまく納得出来ない。そもそも、この「子」は誰なのか。人間の、出生していないお腹の中の赤ちゃんたちなのか、今後世界に生まれくる子供たち全てのことなのか。人間ではなく蝶の、象の、子なのか。
他に、「知恵を借りる」とは、どこにかかるのか。「はこぶ」なのか、「呼ぶ」の方なのか。
うまく継ぎ接ぎしても、自分が納得する景に終着する気はしない。そして、そこが良いなと思った。人間にたどり着くまでに、人間の自分にはわからない論理で、何かの運動がなされていること。蝶や象という動物、さらに存在していないものたち、の応答。''擬人化''という言葉も醜く見えるような、うつくしい世界がここにあるなと感じた。
これからは生活をしなくてはいけない日傘のなかで日傘をたたむ(新しい心のテラス)
比較的定型に依った、前半の心情と後半の行為・光景が相まった切実な一首。
下の句の行為は、さらりと述べられているが、かなり鮮明に映る。日傘の中で、最後まで日傘に頼りながらたたむ。甘えたい気持ちと、これから切り替えないといけないという思いの狭間で揺れる一瞬が窺える。閉じる、ではなく、「たたむ」というのが、日傘、自分を守ってくれていたものへの感謝が現れている気がする。
上の句の「生活をしなくてはいけない」という言葉。「これから」ではなくこれまでだって、生きているだけでそれは生活になりうるのだが、つらいときは、本当につらい。生活、というものが大きくなって迫ってくる。正しい、一般の生活。
この歌の主体にエールを送りたいという気持ちでいっぱいになった。
〈他に好きな歌〉
海にすてる手紙をもつようにウエイターはコーヒーを下げていきぬ
背後で舌打ちされて思わず拳をふるいスピノザのいう無限というもの
きみの性器に顔をうずめてほかには何も考えないかというとそうでもない
夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている
② 土岐友浩『Bootleg』
表紙の青い服の青年が良く似合う歌集だと思った。序盤は安定してさらさらとうたいあげる歌が多く、すぐに入り込めた。そして終盤になるにつれて、安定からは離れ、色んなタイプの軽快な歌が続き、スピード感が出て、疾走して終わる。初出一覧を見ると、後半につれて若い頃の歌で、納得した。
後半のスピード感も良いし、前半のさらさら感も良いため、二度目は後ろから読んだ。すると一首目がものすごく味わい深くて、良い読み方を発見したなと思った。
空白について考えようとしてそのひとが立つ窓辺を思う(Ⅰ. WHITE ALBUM)
この作者は、距離を掴むのが上手いなと、歌集を通して思った。多すぎず少なすぎず、行き過ぎず留まりすぎず、丁度いいところで、ぽんと明るく照る光のような。
この歌もその一つで、空白について考えようと、自分が窓辺に立つのでは、少し詩的すぎる。しかし、それを考えようとして「そのひとが立つ窓辺を」、主体が「思う」。空白という概念に対しても、「そのひと」に対しても、その窓辺に対しても、うまく主体と距離を保っている。
「空白について考え」るのも、「窓辺を思う」のも、なかなか澄んだもので、ひとつの映像の中ででてくる登場人物たちがみな澄んだ気持ちの持ち主というだけで、愛しいなあと思う。
この二人の関係を思うと、自然と窓辺に僕は立っていた。
白鳥はなすすべもなく飛び去って川いちめんにお城がうつる(Ⅰ. Honey Cake)
一見、なんでもないような歌に見える。「いちめん」「うつる」という表記から、表現が幼かったり甘かったりに見える。
ただ、よくよく読むと、不思議な視点移動がなされていて、観察眼が鋭い歌だなと分かる。
俳句的、といってもいいかもしれないが、写生がうまく効いている。白鳥が飛びさり、水面にはお城がうつる。ただそれだけの変化を、ちゃんと書き留められたこと。
ここでよく見たいのは、「飛び去って」の効果。
白鳥が「飛び去って」と言われると、その飛び去る光景を絶対に想像する。川面からばたばたと羽を動かし、水を騒がせながら、空中に出て、空を飛んで向こうへゆく。
その直後、川面に城が映っていることが分かる。読者としては、川面→空→川面の順に、視点が動く。
しかし、この歌自体は、一首ずっと、川の水面のことを中心に詠まれている。視点は、その水面から、動いていないのではないだろうか。
「いちめんに」。白鳥がいなくなってようやく城が十全に映る。川にとってはこれまで水面を揺らがす邪魔な存在の白鳥。白鳥が飛ぶのが美しいと言っている訳では無い、ようやく白鳥が飛び去ってくれたのだ。もし、白鳥の様子の始終も映るようにするには、「飛び去って」の部分を、一度切れば良かったはずだ。
この川面を中心に城と白鳥を見ることで、「なすすべもなく」という感覚がようやく理解できる。白鳥も、なんとなく分かっていたのかもしれない。城を目の前にして。
一度飛び去ってまた水面に戻ったのではなく、ずっと水面を見ていて、そこに飛び去る白鳥が現れただけだったのだ。お城は最初から''うつっていた''のだ。「うつる」、まるでそれが変化のように捉えられたのは、白鳥のおかげだろう。川では色んなことが起こる。
この写生がうまく効いた歌として、
つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる(IV. by moonlight)
がある。よくこの歌集からこの歌が挙げられるのを見かける。言っていることはなんてことない。しかしその着眼点が良いのと、それを書き切る描写力があること、この二点でこの歌は光っている。光景がばっちりと決まるからこそ、時間差で、つま先をあげてメールをするなんてどんな嬉しいメールなのだろう、と想像がいく。良い。
しょこたんをたまに応援したくなるひとり暮らしのおしろいの花(IV. by moonlight)
こういう歌も詠めるのは強いなあと思う。読者としてこの歌でおお!と喜んだ。だいたい多くの歌集は読みながら疲れる。起伏がそんなに無く、一冊を読み終えるのにかなり集中力を要する。こういう、飽きさせないような、バラエティに富んだ歌たちを見ると、一冊の中で同居できてよかったね、とうれしい気持ちになる。
この歌、めちゃくちゃ絶妙で面白かった。しょこたんという人選(中川翔子さんに失礼かもしれないが)も、「たまに応援したくなる」のも。この感覚はなかなか奇妙なものだ。
オシロイバナは緑の割合が多くて、ハツラツとした花。赤とか黄色がよく映える。ひとり暮らし感も凄いする。花も絶妙。
しょこたん・したくなる・暮らし・おしろい、のしの音が連なるのも心地よい。
この歌も、面白い方に行き過ぎず、下の句の留め方が上手い。バランス感覚が相当優れていると思う。
〈他に好きな歌〉
なにもわかってない、あなたは。というのを思いがけずほめ言葉でつかう
あの島で食べた魚のからあげを思い出すとは思わなかった
ひとすじの光をまとうはんの木はかつて棺を燃やすための木
尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみをすずらん畑
③嶋田さくらこ『やさしいぴあの』
題通り、章題や、時に挟まれる記号から音楽を感じる。この歌集が長い一曲の楽譜のような。
また、「やさしい」というのも読んでいたらとても伝わってくる。優しさが溢れている。基本的に恋愛の歌が多いが、初雪のようにぽんぽんと連なっていて読みやすい。
個人的に、何度か中に引かれてあるロベルト・シューマンの言葉が好きだった。音楽の言葉だけれど、そのまま短歌の創作に繋がるなあと思った。
存在を確かめあったあの日さえなかったならと思う日もある(Ⅰ. 鍵のない窓)
たしかにそういう日もある、と頷いた。久しぶりに再会でもしたものなら、その人のことがずっと気にかかってしまって……。
「存在を確かめ」あうという言い方は、なかなか大げさなものだが、おそらく素直な表現で、主体自身の中では、「存在」としてどんどんと迫ってくるような人なのだ。今どこで生きてて、何をやって生きているか、分かってしまったらもう、始まってしまうような人。
「なかったならと思う日もある」ということは、そう思わない日の方が多いということだろう。あの日があってよかった、くらいに思っているかもしれない。だから、悔しい、とも読めるし、嬉しい、とも読める。
最初、共感も含めてかなり切実な歌だなと思ったが、何度か読んでイメージが変わった。明日は晴れがよかったのにな、くらいの気持ちで言っている気がする。このテンションで主体が「思」っているのがなんだかいいなと思う。
発表会にだれも来なくて先生は今日がいちばんよかったって言う(Ⅱ. やさしいぴあの)
少し泣きそうになる歌。誰も来なかったという情報と、先生の言葉の二つだけで、ここまで映像が迫ってくるんだなと感動した。
せっかくの発表会なのに誰も来ない。もうこの時点で切ない。観客は先生だけなのだろう。ほかの生徒も見ているかもしれない。でも先生は一番生徒の努力をわかっている。発表会だけ、結果だけ見に来るような親とかとは違って、過程をしっかり見ている。
「いちばん」って、いいなと思う。こう、なんというか、一番いい、って、断言できることが素晴らしく思う。この先生の表情を考えるとなかなか込み上げるものがある。
この主人公の生徒は、先生がそう言う、と認識したまでであって、そこからどう思ったのかというのは述べられていない。嬉しいかもしれないし、誰もいないのに、とぽかんとしているかもしれない。僕がこの頃の生徒だったら、喜びきれないだろうと思う。だって誰も聞いていないのだから。
でも、今になってこの作品を読めば、「だれも来」ていないけど、先生がちゃんといることが分かる。保護者がいない中で「いちばんよかった」と言い切った先生の愛情も感じる。
僕がまだ児童であったころとそれほど離れていない歳でこの歌を読めたことに喜びを感じる。
この主人公の子にとって、いつかこの発表会を思い出すとき、きっと良い思い出になっていることだろうと、きらきらする気持ちでいっぱいになった。
水底を這うようにして六月に咲く花の色ぜんぶ、くるしい(Ⅲ. 青と銀と金の夜想曲)
夜想曲、にはノクターンとルビが振られている。また、その中の「銀」の中に入っている一首。
この歌には思い入れがある。短歌をまだ始めていないころ。僕が俳句だけをやっていたころに、Twitterでこの歌を見かけて、見た瞬間に何かが閃いた。あまりに自分の中にぴたっと来て、ああ短歌はすごいなと思った。そしてこの歌が好きだという旨をツイートしたとき、ちょうど作者のさくらこさんからいいねが来た。短歌はすごいと思わせてくれた歌でもあり、作者に思いが伝わったという稀有な経験のある歌でもある。
今改めてこの歌を見たときに、すこし、「ぜんぶ、くるしい」が、感覚に流れすぎているような気もする。その部分まではかなり明確に連なっているのに対して、急にひらがなに崩されて、「くるしい」と。
ただ、この気持ちが痛いほどわかる。「ぜんぶ、くるしい」と言ってもなお言いきれない苦しさがあるような、耐えきれずふと言葉に出てしまったような感覚がある。
おそらく、僕がこの歌を好きな理由は、この「ぜんぶ、くるしい」にある。ほかの人の短歌を見ていて、自分が恋愛して苦しいとか、人生が辛いとか、自分に世界が寄り添っていったうえで、自分の感情を吐露する、というものが多いような気がする。しかしこの歌は、自分だけではなくて、六月に咲く花をみな背負って苦しんでいる。この主体の優しさというか、過ちというかが、悲しくて良い。
悲しくて良い、なんて意地悪だけど、他者の悲しさを分かってあげられる主体の心が素敵だと思う。
この歌のおかげで、紫陽花の季節になると、自分が今水底に居るような感覚になり、傍に行って思いを寄せるようになった。寄せられるようになった。
〈他に好きな歌〉
狂おしく咲くさるすべり八月のなんでもない日に会いにゆきたい
冒険が終わった先を記さない本の作者のような恋人
点点点点点点点会いたさで誰かになろうとする点描画
こんどからこうしようって提案を部長みたいにしないでほしい
④鯨井可菜子『タンジブル』
不思議な空気感。tangible、触れられるもの、確かにあるもの。と、言いつつも、もうすぐ触れそうでなかなか触れられないような歌が溢れていて。その距離感が良いなと思った。
今どこにいるのだろう、と戸惑うと、手を伸ばせばそこに扉があって、すぐに出られる。ああここに出口はあったのか。じゃあ自分はどこから入ってきたんだろう……?──という気持ちに何度もなった。迷ってないのに迷っている気になる。何なのだろう。
好きな歌の中で、よくTwitterなどで見かけるものは後に挙げるとして、敢えて語りたいものを語りたい。
ワンダーランドという言葉 その気持ちわるさに震え切符は燃えた(Ⅰ. 夜明けの虹)
後半の畳み掛けの勢いで何かを見過ごしているような気にもなる。ワンダーランドに隠れる「気持ちわるさ」を鋭敏に感じとり、「震え」る。ここまではなんとなく分かる。
「切符は燃えた」で少し悩む。自分が、ワンダーランドが気持ち悪くて、すると持っていた切符(ワンダーランドまで行くものだろうか)が反応して燃える。この読み方も出来るし、むしろ切符自体が、ワンダーランドを拒否し、震え、自ら燃えた、とも読める。
童話というか、高い視点から書いているような書きぶりからして、後者の読みが適っているのかな、と思う。切符は燃えても、ワンダーランドはその気持ち悪さを隠匿したまま存在し続ける。奇妙だし、これこそ気持ちわるさがある。
ディズニー版の不思議の国のアリスなんかを見ていると、奥底から湧いてくるような気持ちわるさがある。意図的なんだろうが、心理的に受け付けないものがある。ヤング・オイスターのところとか、特に。何なんだろうなああれ。
草むらに光は満ちてキャンピングカーだったものたちの恍惚(Ⅱ. 海洋性)
うつくしい。光満ちたなかに零れる頽廃とその享受。「だったものたちの恍惚」の調べがうつくしい。
天上の光をまとう面影を描き終わってぬちゃぬちゃの筆(Ⅱ. 夏待ちの水)
前半のうつくしさを引き連れたまま、一気に現実に流れ出す。「ぬちゃぬちゃ」とはなかなかにぬちゃぬちゃな表現だ。視点移動がリアル。油絵だったのだろうか。
うすい鍵の銀色にぶく真夜中に思い出すこうもりの飼い方(Ⅱ. ジョンソン/クリプトンQ)
この発想の飛ばし方(こうもりだけに)は好き。「思い出すこうもりの飼い方」、演劇の作品名でありそう。「うすい鍵」という表現がさらっと為されているが、言えないなあと思う。うすい鍵という細かい描写が、こうもりの羽や肌のうすい、血の透けた赤色を思わせる。「にぶく」というのも、歌全体を暗く、しかし実感のあるものにしている。
「飼い方」で意表をつかれた上に、主体はそれを「思い出」している。既に知っていたのか。
知らなかったので調べた。許可があればペットとして飼育可……。こうもりは飼えるのか……。たしかに真夜中に思い出しそう。
今日食せしもの唯一の緑なる小松菜そうだがんばれ小松菜(Ⅳ. 小松菜)
「そうだ」で気づく主体。唯一の緑、よっしゃがんばれ!という勢い。「食せしもの」という背伸びした文語が、後半に効いてくる。自分から小松菜にぐっぐっと寄っていくそのスピード。
小松菜からしてみれば、何を頑張れと言うのか、という感じだが、たぶん主人公自身も何をもってがんばれと言っているのか分かってない気もする。なんかよく分からんががんばれ!という感じで。緑色!がんばれ!
こう言っては小松菜に失礼だが、まさに小松菜だなと思う。おひたしとかみるともうくたくたな小松菜が横たわっているし。そうだがんばれがんばれ小松菜!
〈他に好きな歌〉
風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない
妹は遥かな部屋に恋人と木を育てゆくように暮らせり
海を慕う国道の上すこしずつ敬語に戻る朝のドライブ
A4のコピー用紙の包装を剝いている胸つまらせながら
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