見出し画像

長すぎる日記2024.5.1-3

 思ったことや思い出したことを、書きたい分量つぎつぎに書いているので、読者へのサービスが存在しないことだけは先に書いておきます。
 見せることを前提としながら、読まれることは前提としていないので、読まずに、眺めるくらいが良いと思います。



5月1日

 中学一年のころ、国語の先生によく思われたくて、「『破戒』の、ですか?」って言ったことを思い出した。あのことを今も後悔している。島崎藤村の名前が一瞬出たときに、いかにも知っているというふうに口にして、そのあと「読んだの?」って驚かれたのにも、「ま まあ……」と読んだふうに濁して返した。今思えば、「知ってるの?」じゃなくて、「読んだの?」だったのは、先生が信頼してくれていたからなのかもしれない。だとしたら尚更、ミスった。

 そのあと先生がおすすめしてくれた山本有三『路傍の石』も、なんでそんなの と思って読み始めて、当然に普通に飽きて、最初の50ページくらいでやめた。だから、破戒も読まなかった。それからその先生に会うのが申し訳ない気分で、そのときのことはもう思い出すのも苦しい。
 それからその方向には見向きもしないで推理小説ばかり読んでいたが、それはそれで正解だったから、あのとき調子に乗ったことが、結果的に得になったような気もしなくはない。

 ○

 ようやく、桜が葉桜に変わったと思えば、今度は八重桜が咲き始めた。〈関山〉というサトザクラ系の品種で、ソメイヨシノよりも咲くのが遅い。オオシマザクラを基にしているから、花が葉と同時に咲く。八重だから丸々としていて、卒業式のとき胸に付けさせられた花のコサージュみたいだと思う。それがいっぱいあるものだから、卒業式の気持ちになる。


分かりにくいが、左上から、右下に向かって枝垂れている。空のことが好きすぎるあまり、空も映したくて、結局しだれ感0の写真になった

 花のことを知らなかった頃の自分は(今もまだ全然知らないけれど)、桜→菜の花→紫陽花→向日葵みたいな認識でいた。プラス、季語に入っている花のことを知っている、くらいのもので。
 職業柄、今はだいぶ花と木のことは知ってきたつもりではある。でもそれでも、(だからこそ?)、未だに春の''いっぺんに来る''感じには慣れない。むしろ引く。愛みたいで引く。

 桜前後に咲く花があまりにも多すぎて、そんないっぺんに来られても迷惑だ くらいに思う。でもそれは人間側からの話で、暖かくなって昆虫が冬の眠りから覚めて動き始めるのに合わせて、植物が一気に受粉を目掛けて咲く、ただそれだけのシステムであって、そりゃそうなる。
 辛夷と白木蓮の頃から、ちょうどエリゲロン(ハルジオンとかヒメジョオンとかそのあたりの属。ちなみにハルジオンは多年草で茎が空洞、ヒメジョオンは一年草で茎の中が詰まっているという違いがある)が立ち上がってきて、紫木蓮が開くその頃まで、がちょうどいちばん楽しい。水仙と雪柳が廃れて、ぎりぎり山吹が咲いていて、くらいの(阿木津英『紫木蓮まで・風舌』というタイトルのことを、何故か少し理解した)。

 ○

 よくよく見ていたら、森には、桜が咲くまでの''つなぎ''が意外に充足していることが分かる……。俗にいう「スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral)」のことで、カタクリ、フクジュソウ、キクザキイチゲ、エンレイソウとかその辺の花が可憐に咲いてくれている。
 特にカタクリに関してはとても好感を抱いている。あの花は咲くのに7-8年かかるのに、いざ咲くときは、隕石みたいな咲き方で咲く。

花びらが上の方に向かって反り返る。
隕石とその尾みたいに見える

 反り返る、で言えば、エキナセアとかルドベキアの花弁もそうで、あれは空に向かっていく方向で、カタクリの逆。
 学名のエリスロニウム・ジャポニクム(Erythronium japonicum)も、なんか、eryth-のところがかっこよくて良い。初めに見たときに、死後の楽園とされているエリュシオン(elysion)に見間違えて、なぜか勝手に楽園のイメージを抱いている。実際はerythros(赤色)が語源らしいが、園芸品種でもあるE.pagoda の方は花が黄色で(キバナカタクリ)、それはそれで光の花火みたいで可愛い。

【余談 はじまり】

……エリュシオンといえば、プトレマイオスが書いた『ゲオグラフィア』で地図には島として書き込まれていて、「至福者の島」(マカロン・ネソイ)の別名でも知られているという。(アリストテレスがこれに絡めて何か言っていたと、今読んでいる古田徹也『不道徳的倫理学講義』に書いていた。この本は分かりやすくて楽しい。ただこの辺は、マカロンってあの美味しくてカラフルなマカロンと同じかな〜と思うくらいには流し読みしていたので、あまり言及できない)

……プトレマイオスといえば、『ゲオグラフィア』と『アルマゲスト』というイメージだが、書名だけで既に綺麗で凄そうなのは羨ましいなと思う。数千年前の存在でも、本のタイトルだけでかっこよくなれるのは、人間の希望そのものだと思う。世界史で習ったものでいうと、プルタルコス『対比列伝』とか、コペルニクス『天体の回転について』、ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』、バンヤン『天路歴程』、他には『皇輿全覧図』とかイブン=シーナー『医学典範』とかも良タイトルだと思う。和訳にもよるけど。自分も近い未来本を出すことを考えると、タイトルって難しいけど凄くわくわくする、一番楽しい娯楽かもしれないと思う。

……エリュシオンといえば②、数ヶ月前に「ヴァルキリー・プロファイル エリュシオン」(ps4)をクリアした。DSの「咎を背負う者」から入って、それはそれは小学校のとき友だちと一緒にやりこんで、本当に楽しかった(ストーリーの分岐も良かった)記憶があって、だからこそ、ちょっとがっかりした。ストーリーがすかすかで、オチも全部初めから分かりきっていた。映像は綺麗だったから良かったけど。
 言葉として、エリュシオンは、神に愛された戦士の魂(エインヘリャル)が行くところとされていて、その意味をゲームでも踏んで、ヴァルキリー(戦乙女)が愛すべき戦士の魂を回収する。その上で、そんな愛すべきヴァルキリーを連れて、神であるゼウスが更に行こうとする新しいところってどんなところなんだろう……という、鰻重みたいな階層構造は、素敵だと思ったけど、フェンリルのくだり含めてあまりにも北欧神話過ぎて、うーん。セラフィックゲートもあんまりわくわくしなかった。これを面白がれなかったのは、自分が、つまらないものを面白いと信じて時間を浪費できるほど、暇ではなくなったからなのかもしれない。もし、そうなんだとしたら、少し悲しい。

【余談 おわり】

 で、カタクリの話の続きをすると、むかし俳句で既にカタクリを詠んだことがあり、

片栗の花サーカスのはなれわざ〉(「めまい」、帚、2021.2)

 わりとこの句のことは気に入っている。漢字とカタカナと平仮名の共存と遷移も上手くいったし、花も本当にサーカスみたいだし、ちょっぴりクリスティアナ・ブランド『はなれわざ』も想起させるし、お得要素もある。

 サーカス、最後に行ったのはいつだろう……。竹みたいなので出来た球体、の中をバイクで駆け回ってる人がいて、会場は湧いてたけど、普通に危なすぎて、こっちにどうして欲しいの? と思って見ていた(危ないことするから見てて、って、とても男性的な娯楽なような気がするけど、どうなんだろう)。あれがたぶん小学生中盤の頃。

 ○

幸福について

 暇なとき、自問自答する癖がある。それは、できるだけ早く答えられた方がいい、というルール付きで為される。初めは簡単なものから出していく。例えば、好きな食べ物は?とか、好きな色は?とかの質問をして、ぱっと答える。そういう、昔からそんなに変わっていないものを自問すると、すごいスピードで自答できて満足できる。
 慣らし走行が終わると、「何故生きているのか」みたいな、抽象的な問いを立てて、しばらくそれについて考える。

 だいたい、だらだらしてきて、暫定的な答えを出すか、答えを出すこと自体を諦めるかして、さっさとこの自問自答フェーズを終了しようとする。
 でも何故か、今回立ててしまった「幸せとはどういうことか」にはかなり手間取って、ここ数日かけてずっと内心考えていた。

 結局暫定的な答えが出た。幸せとは、
①状態であり、かつ、物の名前である
②獲得するものというよりは、遺失するものである
③その上で、自分以外の手によってそれを遺失する可能性が限りなく低いこと(誰にも邪魔されない状態)である
 という回答になった。

 ①は、悲しい/悲しさ、のように、形容/形容動詞でありながら名詞でもある類のものということ。今自分が幸せである、とも言えるし、幸せを手に入れる、的な言い方もできる。
 ②は、よく「夢を掴む」みたいな言い方で、幸せという物は目指されて、それを手に入れた瞬間幸せになる、みたいな言い方がなされる。でも、多分そうじゃない気がする。もしそうなら、手に入れてない時間の自分自身は、いったいどんな状態なのか。ずーっと不幸せが継続していて、ようやく手に入れてそこから幸せが始まる? それはだいぶ悲観的な見方だと思う。外がいい天気とか、ご飯が美味しいとか、良い音楽を聴いているとか、かなり幸せポイントは多いはずなので、まるで幸せを手に入れるまでは完全な不幸せだったとする言い方は、だいぶ勿体ないし、見落としが多すぎる。

 だから、おそらく、無いから獲得するものというよりは、有るから遺失するものなんだと思う。常に幸せというものは把持していて(気づかないくらいそれが微量だとしても)、一応ずっと幸せの方には針は振れているんだと思う。遺失というか、失権というか。ときどき失くして、分からなくなって、失くしたものが手許に返ってきて、ようやく幸せに戻る。この「手許に返って」くるのを、切り取って、獲得と捉えることも出来るが、このときでさえ、獲得というよりも「思い出す」に近いやり方だと思う。
 そして③については、自分にとっての幸福は、誰にも遺失・失権されない/させられないことで、すなわち他者に邪魔されない状態のこと、すなわち不幸せになるなら自分の手によってのみ為される状態のこと、だと結論づけた。

 高齢者が悪意なく暴走して車で人を殺すとか、ストレス発散で相手が誰でも良かった犯罪とかを見てると、もうろくに大勢の中には繰り出せない。今私は電車通勤をしているが、この中に異常な行動を起こす人が一人もいませんように といつも本気で願いながら(クラス替えのときの祈りみたいに)乗っている。誰かが発狂してナイフで刺しまくりだしたら、もう最悪だし、予期しない高齢ドライバーが突っ込んできて即死したら終わりだし。
 すれ違う人間が、すれ違ったあとで方向を変えて自分についてきている可能性が、0では無い。(怖いから太字にした。)私は男性だから少しは戦える(?)と過信していたりもするけど、女性は、的にされる可能性が少しでも高まるかもしれないと思うと、またそれも怖い。

 そういう、あらゆる他からの危険性を気にしていたら、幸せな状態はどんどん見えにくくなってくる。家にいて、鍵をかけて、布団で眠っているときが一番、幸せをすぐそばで感じられる。(それでも、完全に怖い人が、バールとか持って窓やドアを破壊して入ってきたら、もうこちらには、ただただ殺されるか、包丁で刺し違えるかしか方法がない。
 もし不幸せになるなら自分の手によってのみ、である状態が気が楽でいい。死ぬとしても自殺か病気によるもので、誰かによってみだりに殺されたくは無い。

 これを気にしだすと、さっきの話に繋がるが、自分の幸せのためだけではなくて、他者の幸せをどれくらい阻害しないか、という問題が出てくる。だから、自分が、あなたの幸せを奪うこともなければ、失くさせることもしないよ、というアピールを、相手に事前にしておかなければならない。じゃないと、自動的に、相手の幸せは減じる。この人は私にとって危険足りえない、と思ってもらう必要がある。この塩梅が難しい。

 高校の時にやった倫理の授業で、J.S.ミルが同じことを言っていたのを覚えている(Harm Principle, 他者危害原則)。個人の自由が制限されるのは、他者に対する危害を防止するためのみに限られる、という内容で、要は、基本的に人は自由だけど他者に危害を与えない状態で過ごしなさいということで。

 だから、この自問自答の最終的な感想は、幸せ「になる」ことは意外に簡単で(なぜなら、既に幸せ「ではある」はずだから)、ただ幸せを維持することは、難しすぎるということ。特に、関わる人間が多ければ多いほど。だから、私が気にすべきことは、微量にも常にある(と信じている)幸せについて自覚的であろうとすることと、他者の幸せには危害を与えないということを、先んじて他者に信じてもらうような素振りとか、気配りをできるようにしたい、ということ。ふつうに、優しい人間であろうとすれば、それは自然に叶っているはずなので、優しく存在したい。

 〇

 他にも思うことがあるが、先に眠気が来たから今日はここでドロップアウトする。英語では居眠りとか眠りにつくことを fall asleep と表現するが、「fall」がしっくりくるときの眠気は、若干暴力的な感じがして好きではない。半身夢に浸かっている、みたいな眠気の時が、一番居心地よく眠れる。


5月2日

 Evernote の運営の動きが怖くて、メモを少しずつ移動する。急にサービスが終わりそうだから避難しておかなくてはいけない。基本的に別のメモ帳でメモを付けているが、evernoteでも、昔は日記を付けていた。なんとなく画面がクールで、筆がすすみやすい記憶がある。
 noteの方は、ちょっと文字の雰囲気が合わなくて、日記となるとそこまで気が乗らない。フォントを選べるようにならないかなと思っている。

 〇

 GWもほぼ仕事なので、特にふだんと変わらないことを考えながら仕事していた。

 〇


グーグルマップで、ヴェネツィアで、見上げた空

 自分が撮った写真を、休み時間にときどき見返す。そのときどきの気持ちを思い出して、一瞬違う流れの時間が自分の中に入ってくるようで、時間感覚がバグって良い。
 これは、大学一年のときぶりにパソコンを購入して、新しいパソコンですることといったら……と思ってとりあえずグーグルマップでヴェネツィアに行って、適当に見上げてみると、青が深めの空が広がっていて、撮った。
 ちなみに、同日、浅草に行ったところ、

動物が復讐してくるタイプのホラー漫画みたいな玩具店にたどり着いて、


''全身ポーチだモン''を見つけられて良かった。

 全身がポーチであることが嬉しいのは人間側の話で、モンチッチ(全身ポーチ!)とかなら分かるけど、これだと、モンチッチが「全身ポーチだモン」って言っているみたいで、(本人が''全身ポーチ''を望んでいる場合以外は)おかしな見た目だ。もしくは、店員がふざけているか。おおよそ、後者なんだろうけど。

 ○

労働と創作

 度々、第三滑走路(短歌で自分が参加しているユニット)では言っているが、私は大学生のころからかなり多作で、労働を初めてから作る短歌・俳句の量が減ると思われていたが、むしろ増える勢いで、労働に対する負の感情であったり、労働に時間を奪われているという感覚から、「その分を取り戻さないと」と思ってしまって、キープして作り続けている。これを言うと、その変さにいつもメンバーの二人に笑われる。二人ももう、それについて笑い慣れし始めている。
 twitterで、年下の学生歌人の(だった)方に、「働き始めて丸田さんの凄さに気づきました」みたいな旨のDMが突如送られてきたことがあって、ウケたことがある。未だにそのことを思い出す。別に凄いことではない、と思う。作ることが自分にとって負担ではないのと、作っている間は他の全部を忘れられるから、できれば作っていたい、というだけで。決して作品の多寡では何も決定されることは無い。
 ただ、この人は、働きながら多作であることを凄いと思ったわけで、基本的に作りたい人なんだなと思って、頑張って欲しいなと思った。それを凄いと思った時点で、あなたは作るのに向いている人だ と思う。

 とはいえ自分も、働くことによって何かを書く余裕もないという時は当然あって、そういう時は、逆にそのDMが自分の助けになっている。あの時ああ言ってくれたから、自分も忙殺されずに書くことで回復しないとなーと思う。助かっています。
 この人のことはあれ以来密かに気にしていて、穏やかながらしっかり作り続けているようで、非常に安心している。働き始めたり、介護だったり、色んなきっかけで書くことを止めてしまった人をたくさん見てきた。し、これからもいっぱい見ることになる。書く理由もなく書き続けているだけのひともいれば、書きたいのにぱったり途絶えた人もいる。どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ、書きたいなら、時折思いだして書いてほしいなと思う。やっぱり、書きたい人には、書かれるべき文章が待っていると思うので。優劣とは関係なく。
 僕は、変わらず、書き続けるし、これからもう少しその量は増やしていくつもりである。俳句や短歌に限らず、小説も書いていきたいと思っている。僕が狂ったように書き続けることが、書きたかった誰かを、また奮い立たせることの遠因になったらいいなと思って、淡々と書き続けたいと思う。アツい話のように一見見えるが、これは全くアツくなく、働きながら書くし、書き続けますよっていう報告に過ぎない。もし働くことを辞めたら、倍の量を作ることになるだろうと思う。DMを送ってくれたSさんには感謝しています。

 〇

 電車に乗りながら、さまざまな人生があるなあと毎回新鮮に思いつつ、私たちは今、「自己紹介を省略している」と思う。

 乗り合わせて、すぐに離れるから、挨拶もせず、何の関係も生じないから、自己を紹介することがない。でもこれでは、前の日記で書いたように、私が/あなたが危険な人物ではないということをお互いに証明できない。お互いに信用できないまま、同じ四角い車両の中で数十分居合わせることになる。
 だから、この前忌引で夜行バスと飛行機で地元にすぐ帰ったときも、夜行バスで強く思った。一回自己紹介しときませんか、みたいな。確かに、されたとて、どうしようもないし、そこで信用出来ない人間が判明したとしても弾くシステムが無いかもしれないから、あまり意味は無いけど。

 つい最近の夜行バス同士の追突事故とか見てても、先に紹介しあってたらもっとスムーズに脱出できるんじゃないかと思う。映像を見ていたら、後ろの方の席の、(おそらく優しい人が)先陣を切って、「前の方でなんかあったみたいですよ」と言っていた。こうやって、誰か知らない人が誰か知らない人を助けなければならないときの、優しさの先後関係ってあるよな と思う。

 とはいえ、挨拶が好きだとか、挨拶は大事だとか、二人以上の人間が出くわしたら挨拶するべきだとか、そういうのでは無い。そういうのは信じてない。自分から挨拶するのはあまり得意では無い。でも、わがままだから、電車とかは、挨拶してきて欲しい。怖いから。今日の帰りの電車は、ホームのベンチの時点で、片手に500mlのビールを持って「うおー」って真上に向かって喋ってる、仕上がっている人がいたので、順当に離れて乗った。ああいうのは、分かりやすいので、「挨拶済み」みたいな気持ちになる。却ってありがたいのかも、しれない。

 ○ 

過去の日記

 Evernoteを探ってみると、いまいち記憶にないことばかりがメモされてあって、やっぱり日記をつけとくもんだなと思う。今の自分が感じたことを、未来の自分が同じように感じるとは限らないから。今この時の私、というのは、一秒後には壊れ、変形している。

 ついでだから、Evernoteに書いていた過去の日記の一部を引用してみる。

 最近すべらない話が面白くないなーと思う。あんなに楽しみだったのに。/それは、番組「すべらない話」の地位が上がってしまったから。すべらない話に出演しただけで芸人としては名誉、そして優勝(mvs)までしたらこれ以上ない栄誉、となる。/こうなってくると、参加者は絶対にすべらない話をする必要が出てくる。初期のように、すべっても構わないくらいの空気感で、すべったら場ですべらない話ということにする、ということが出来ない。/だから、最近のすべらない話は、皆が気合いが入りまくっていて、全員が用意してきたカードを、びくびくしながら出している。/もはや、面白いかどうかとかではない。噛まずに、忘れずに、話しきれるかどうか、の個人の勝負を見せられているような。競技化が激しい。/

 競技、になったら何でも面白くなくなる。/音ゲーも、e-sportsに入ってから、難易度のインフレが加速してつまらなくなった。音楽に体を一致させる喜びからは遠ざかり、目と手を正確に動かす機械になるゲームになった。俳句も短歌も、どれだけの人が、作ることの喜びを忘れずに作れているだろうか……。審査する側だって、どれだけ楽しんで応募作品を読めているだろう。/

 働きはじめて一年が経とうとしている今、労働に対してたまに思うのがこの、競技化、の感覚。いかに効率的に動くか、の競技だなと思う。効率だけの世界は、機械がとって代わるとあれだけ小学校の時に脅されていたのに、状況はあまり変わっていない。/これが競技だとしたら、私は率先して負けに行く。勝つことで嬉しいと感じる人がいるなら、すぐに譲る。上手に働けることが、自分の助けになる人に、「仕事が上手」という称号は譲りたい。私に、仕事に関するあらゆる称号は必要ない。この姿勢がそもそも、ナメているのだろう……。/

20220307日記「余談」より

 まあ今読んでもその通りだと思うし、あらゆるものに対しての態度もそこまで変化していない。
 競技は競技で面白いところはあるけど、楽しさはそこには無いんじゃないか、と思う。戦争が楽しくないように。(戦争のさなかにいる人は、戦争自体を楽しいと思えなければ、戦えないんだろうけど。)

 私は、すばらしい友だちに恵まれている。/そんな友だちに比肩するような人になりたいと思う。実績でも、心でも。賞を取ったら少しは良くなるだろうか。賞とかの問題でもないかな。/嫉妬、とはまた違う。憧憬、ともまた違う。感情に当てはまる言葉を持ち合わせていない。/嫉妬、という熟語が、どちらも女偏なのは、本当に良くない気がする。時代の要請によって漢字の使用法が変わることはあるだろうか。日本は、そんなこと、しないんだろうな多分……。/今日は高校入試の日だったらしく、上司は今朝子どもを送迎していて、少し遅くに来た。親の方が緊張して仕事が手につかない、とずっと言っていた。私が大学受験を受けるときも、親はこんな感じだったのだろうか。職場で、どきどきしながら手に付かない仕事をしていただろうか。/頭の中で音楽を奏でる。歌ったり、思い出したり。このとき流れる音楽は、かならず少し速い。0.1秒くらい速い。何故かは分からない。/日記を書くことで落ち着くことはあっても、人の日記を読むことで落ち着く人はいるのだろうか。『八本脚の蝶』とか読んでると自意識の土砂を身に受けるようでむしろ気が立って仕方なかったが……。/仕事柄、手袋を付けて作業する。手袋というと、手が汚れないように付けるものだが、手袋を常時つけるようになると、「手袋が汚れる」が「手が汚れる」に近づいていく。みな、手袋は綺麗な状態にしようとする。感覚が延長している。杖で歩く老人の、杖が三本目の足になっているのと同様に。/日々の話題が仕事に偏るのは良くないと強く思っている。/以前、ある先輩が、「仕事中どうしても暇なときってあるでしょ、そういうとき何考えてる?」と尋ねてきた。私は「宇多田ヒカルの曲名をひたすら思い出してます」と答えた。Passion、誰かの願いが叶うころ、Kiss&Cry、Traveling、SAKURAドロップス……。するとその先輩は、「マジ?おれも宇多田ヒカル好きなんだよね〜アルバムも全部持ってる」と僕よりも強い宇多田ヒカル愛を見せてきた。嬉しくなって、一番好きな曲を聞いてみると、すこし悩んで「Heart Stationかな〜なんかかっこよくない?」と言っていた。

20220308日記「頭の中の無数の話し合い」より

 日記にタイトルをつけるようにしている。これは、タイトルづけ(いちょう切り、と同じつくり)の練習としてやり始めたことだった。意外に役立つ。
 さっきの日記の翌日に書かれてある。謎にテンポが良くて良い。
 この頃から比べて、私は選考会で選ばれて歌集を出すことになったし、宇多田ヒカルはベストアルバムを出した(もちろん事前予約していたし、届いてまず最初に「COLORS」と「Letters」を聞いた)。
 時の流れを感じて良い。

 今の私は、仕事に限らず、暇なときは、過去のある一点を決めて、その点の前後の景色とか情報を想像する をしている。小学校3年生の運動会、みたいな。妹が生まれるときに行った産婦人科とか。どれくらい細かく想像するかによって情報量が随分変わって、思い出すと果てしない。いい時間つぶしになる。

 ○

 夜、回転寿司チェーン店に行った。外食をするということは決めていて、お寿司が好きだから行った。なんのお祝いごとでもないのに、普通にお寿司を食べるようになって、成長を感じる。さすがに、幼少期の名残で、焼肉屋さんはまだ抵抗がある。何かを得ないと行けない。
 チェーンといっても、まあまあいい方のチェーン店で、板前さんが数人いて、分担して握っていた。

 ちょうど自分の目の前に立っている人が、比較的若い人で、ひたすら白身とかサーモンとかを炙る役をやっていた。握るとかじゃなく、炙るだけって、退屈かもなーとも思うし、ファイアー!って感じで楽しそうだとも思う。
 その人が炙っている間、ちょっと遠くの方で、いらっしゃいやせー と野球部みたいな挨拶をしている板前さんがいて、寿司屋というよりはラーメン屋さんみたいな挨拶だなと思いながら、ちらちら炙りのバーナーを見ていた。

 全部美味しくて、満足満足♬ とお会計をしている私の後ろで、炙り担当は炙り続け、挨拶担当(?)の人は挨拶し続けていた。帰り際、ごちそうさまでしたーと板前さんの方向に向かって言ったとき、挨拶担当の顔が見えたが、全然若くなくて、50代くらいの方だった。(50代でも若いけど、炙り担当が20代だったから、比べて)全然野球部じゃないじゃん そっかそっか と思いながら帰った。あんまり他人の事を適当に想像するもんじゃないなー、と反省した。

 ○

【余談 はじまり】

……宇多田ヒカルといえば、さっき書いた通りアルバムが出た。待ち望んでいたもので、travelingの2024年版とかめちゃくちゃ良かった。ただ、私がトップに好きな曲たちはあまり入っていなかったから、若干残念、でも嬉しさが勝る。残念というか、他の曲の2024mix・Re-recordingも聞いてみたいなと思った。宇多田ヒカルはもう新曲を作らなくても、過去作を録りなおしたりremixするだけでいい、とファンとしては思う。
 私が宇多田ヒカルの好き曲アルバムを組むとすれば、Passion、誰かの願いが叶うころ、Blue、Kiss&Cry、Keep Tryin'、Be My Last 、俺の彼女、真夏の通り雨、あたりが並んで、プラス今回のベストアルバムにもあったtraveling、COLORS、Letters、One Last Kiss、SAKURAドロップス、かなあと思う。もしそんなアルバムが発売されようものなら、私は、病院で・・・、死んでしまう。

向きを変えれば色が変わって見える。
こういうカード、幼い時めちゃくちゃ好きだった
あとタイトルが良すぎる

……ベストアルバムといえば、アンソロジーのようなものだが、私は昔からアンソロジーというものをとても好んでいる。数ある中からいいと思うものを選んで、新しくそれを形とする行為。何かが選ばれるということは、何かが落とされるということでもあるが、それは私にとっては全く悲しいことではない(賞で誰かが選ばれて他が落とされることとは意味が全く違う)。もしそれが嫌であれば、もう一度新しいアンソロジーを自分が組めばいいだけだから。
 ベストアルバムなんか、一番やってて楽しいだろうなと思う。それまでいっぱいアルバムを出すという行為があって、その後に来るより大きな娯楽。今短詩をやっていても、一句一首を作る喜びで満足していたのに、実はその先に「連作」とか「同人誌」とか「本」とかの楽しみが用意されていることを思うと、飽きないなあ と思う。ジャンルそのものへの飽きはあるとしても、娯楽性に対する飽きは一向に来ない。(詩集の先には、「全集」が待っている……。)
 アンソロジーというものが好きすぎて、すぐ頭の中でアンソロジーを考える。江戸川乱歩なら何を選ぶかな……「指」と「二癈人」と「芋虫」は確定で入るとして、「赤い部屋」「双生児」あたりはぎりぎり微妙か……「柘榴」「目羅博士の不思議な犯罪」とか「鏡地獄」の方面に行くか、「心理試験」「二銭銅貨」「人間椅子」とかに行くか悩む……「押絵と旅する男」「人でなしの恋」「お勢登場」は惜しくも外すかなあ……みたいな。

……イデアみたいに、未来で完成するベストアンソロジーを想像して、そこに入るかどうか、入ったら代わりに何が落ちるか、みたいなことを考えながらすべての事を見ている。たとえば詩集も、好きな詩だけを集めた理想の詩集があって、そこに入るかどうかで読んでいる。なかなか入っていかないが、これは流石に殿堂入りだ みたいな詩に突然出会うと本当に嬉しくなる。今のところは、川田絢音「グエル公園」とか、川崎洋「花」、阿部弘一「蝕」、福田万里子「燃焼」とかが入っていて、会田綱雄、菅谷規矩雄、支倉隆子、黒部節子、新藤凉子、河野道代、まど・みちおとかが並んでいる。吉田加南子とかは篇で引きづらい。一応、フレーズだけでパワーがあるものも記憶するようにしていて、その欄には安西均、壷井繁治、片岡直子、八木幹夫、吉原幸子がいる。ここ数年では、水沢なお、尾久守侑が入ってきて、喜んでいるところ。
 これは人によって大きく異なるだろうから、どんどんみんなアンソロジーを組んで欲しい。それを見たい。今思ったが、ベストアルバムとまで言わずとも、セットリストでも十分アンソロジーだ。
 文章とか音楽や絵を離れて、回転寿司でも同じようなことを思っていた。いつ食べてもおいしいメンバーを想定して、うなぎ・サーモン・ぶりはそこから離れたことはないが、まぐろとかいかとかは入ったり離れたりする。
 もし、「良いともだち」アンソロジーがあるとして、そこにずっとキープしてもらえるような人間でありたい。

……アンソロジーを人におすすめしたいもう一つの理由として、理想のアンソロジーを組むためには、大量に作品を知る必要があるから、作ろうとしたらいつの間にか大量に摂取していた、というお得感が得られる。
 本当に良いもの、を決めようとすると、いろんな種類の良いものを見て、いろんな種類の良くないものを見る必要がある。
 うなぎとまぐろを一つずつ食べて、うなぎが一番だと思うのと、100種類くらい食べておいて、うなぎが一番だと思うのでは、説得力というか、重みが変わる。大量のインプットと更新作業をし続けること、によって、都度新しく好きなものを好きになり直す。好きなものをより好きになるためにも、アンソロジーを作ることをおすすめしたい。

【余談 おわり】

 寝る前に、ふつうの人が何を考えているか気になる。私は、いまいち頭が冴えて眠れないことが多い。そういうときは、脳が飽きるまで、ひたすら空想する。例えば、月と地球がぴったりくっついてしまった世界を想像するとか、車に乗った人だけが死んでしまう世界とか。ドラえもんのもしもボックスみたいなことを考える。
 で、マイルールとして、世界を一つ設定したなら、その世界での「あるある」の一つくらいは想像して閉じよう、みたいなことを考える。さっきの例の、月と地球がくっついたなら、月は外国人が多くて結局まだ行けてない とか。

(月の領土を決めるところからなんだろうか。そうなったらどの国がどの割合で手に入れるんだろう。第一次世界大戦前みたいになってしまわないか。サミットとかで相談して、仮に地球は暮らす場所、月は遊びに行く場所だと決めたとしても、その遊ぶ施設を誰が作って費用は誰が持つのかという問題で、ひと悶着ありそう。その場合、共産主義の国はどれくらい関心をもって乗り出してくるのか気になる。
 月での犯罪は、地球の法律が適用されるんだろうか。月は、地球の延長として捉えられるようになっているか。もし、月を、一つの国家のようにして、暮らしたい人が各国から希望して暮らした場合、言語を統一することになるだろうか。月語があったほうが便利 ということになりそう。月が発達するまでは、結局地球の方が住みやすくて、よっぽど重い腰を上げない限り、月にいくことは無いんじゃないか。(というか、重力はどうなるんだろう)
 正木ゆう子〈水の地球すこしはなれて春の月〉の「すこしはなれて」の味わいが全く変わることになる。月を扱った文章や音楽のすべてが、「月衝突以後」と以前に分けられことになり、それは膨大だから、月史学(ゲッシガク)みたいな学問が登場して、ひたすら分類と分析が始まることになる。月と地球が離れていたことを知る最後の世代である私たちが死んで、生まれた時からくっついていた人で地球が埋まった時、月史学が役に立つに違いない。)

 と、あるあると世界の発展を考えていたら、次第に頭が疲れてきて、いつのまにか寝ている。これがそのまま夢に反映されないかなといつも期待しているが、それがうまくいったのは二三回だけで、基本的には無関係の夢を見る。今日も多分、うまくいかない。現実に即して、寿司の夢でも見ないかなとうっすら期待している……。

5月3日

 寿司の夢も空想の夢も見なかったし、夢自体見なかった。夢も見ない睡眠は、ただのタイムスリップで、あまり面白くない。
 早起きして仕事に向かう。

 〇

 電車は全然混んでいなかった。混んでいない電車に乗るたびに、「採算」という二文字が過ぎる。一回走るごとに、何人乗ってくれれば元が取れる仕組みになっているんだろう。電車の経済事情、全然分からない。

 〇

言語化/聞きなし

 今日は、「言語化」について考えていた。言葉でないものを言葉で表すこと。
 私がずっとnoteで記事を追って見ている人がいて、いつも、言語化うまいなーと思う。言語化もうまいし、書くのもうまい。ぐんぐん読ませられるし、想像しやすい(この人の文章について、ちゃんと素晴らしいと伝えたい思いはあるが、いくつかの文章を読むに、きっと直接感謝を伝えられると引くタイプの方だと思うので、直接は言えない)。(お互いに、見ているー見られているの認識はあると思っているが、それがお互いの間で"言葉になってしまったら"、一気に冷めるんじゃないかな、みたいな)
 同時に、言語化がうまいってことは、辛いことも多いんじゃないかと勝手に心配する。細かい差異を言葉にできるっていうことは、いろんなものを受け取る量もまた多いだろうから。言葉にするのがうまい人は、つらいものを受け取るのもまたうまい、ように思う。
(こう言っている私自身は、自己評価としてはそこまで言語化がうまくはないと思っている。組み立てるのと持ってくるのが比較的速い、くらいで、そもそも持っているものの豊かさとか、組み立ての丁寧さとか豪快につなげる技術は私には不足している。私は言語化よりも想像が得意なのかもしれない。)

 言語化できることと、することは、また違うことだと感じる。できる状態にあってもしないことはよくある。
「言葉にならない気持ち」という表現は、よく、言葉(なんか)では表現できないほど深く複雑な/巨大な感情、みたいなニュアンスで使われることが多いが、それは単に一面に過ぎない。この表現には、「この気持ちを表す言葉を知らない」とか「言語化できるけど、敢えてしない」とか「言語化しようとしてみてもいいけど、今の自分ではそれはきっと完全なものにはならない」とか、色んな言語と自身との間の距離感が含まれている。
 対象があり、それを指す言葉があり、それを覚えており、それを思い出し、言葉にできるかどうかを判断し、言葉にするかどうかを判断する。言語化の、複雑な、素敵な経路について思いを馳せる。

「言葉にしたくない」と思うときの、後ろで鳴っている、椎名林檎の「あなたはすぐに写真を撮りたがる/あたしは何時も其れを厭がるの/だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない」という歌声(「ギブス」の歌詞)。

 なぜ言語化について考え始めたかといえば、鳥の「聞きなし」のことを考えていたから。鳥の鳴き声は、大きく分けて二種類あり、地鳴きと囀りに分類される。地鳴き(Call)は、ふだんの声。囀り(Song)は、主にオスが求愛の時に出すきれいな声(オオルリ、イカル、イソヒヨドリなんかは、メスが囀り返したりもする)。地鳴きは基本的に地味だが、囀りは途端にメロディックになる。
 かなり特徴的な囀りの鳥もいて、日本人は昔からそれを、別の言葉に「聞き做し」て(置き換えて)、覚えたり愛したりしていた。有名なのは「特許許可局/天辺翔けたか」(ホトトギス)、「法法華経」(ウグイス)とか。聞きなしが和名の由来になっているサンコウチョウ(三光鳥)「ツキ、ヒ、ホシ、ホイホイホイ」とかは、まあぎりぎりそう聞こえなくもない。
 ただ、危ういのも結構あって、どうやってもそう聞こえるわけないだろみたいな聞きなしが多数存在する。大昔の程度の低い空耳アワーみたいで、「聞きなしを聞く」だけでゾッとすることがある。


サッと書いたキビタキ
個人的に「フヒヒーフヒヒーフヒ」と鳴いているように聞こえるので、その最初の「フヒヒ」が映り込んでいる

 例えば鳥好きのなかでは有名なセンダイムシクイの「焼酎一杯グイ~」(自分の口から「焼酎」も「一杯」も「グイ」も発音すらしたくない)、ホオジロの「一筆啓上仕候/札幌ラーメン・味噌ラーメン」、メジロの「チルチルミチル青い鳥」とか、ちょっと無理がある。きっとこれは、音を言葉にしたというよりは、ギャグというか、鳥をイジっていると思う。
 聞きなしとはちょっと違うが、ニワトリの「コケコッコー」も、そうは言ってないだろと思いつつも、「cock-a-doodle-doo」はあまりに嘘過ぎてウケる。でも英語圏の人の、英語に適応した耳であれば、「コケコッコーよりはさすがに」と思うんだろうか。きっと、鳥の鳴き声も、「言葉にならない」類なんだろうなと思う。

 音を言葉にするのもまた、言語化の一つだろうけど、また違った技術が必要だ。同じように、千原ジュニアの「座王」で歌対決があるのエグいなーといつも思っている。歌の雰囲気に合わせた言葉を突如言わされるのって本当に難しいと思う。もはや、

 〇

 ↑ 「もはや、」を書いた後、別の用事で数時間筆を離れてしまったために、何を言おうとしていたか分からなくなって(だいたいは分かるが、その後どう展開しようとしていたのかのニュアンスを忘れた)、諦めた。これは小説ではないからこういうこともしていい。まあ、何でも、言葉にすればいいってものでもなく、言葉にならない方がいいってわけでもない、常にそこは揺れ続けている、っていうことで……。
 あとさっき書き忘れたのが「翻訳って、言語の言語化、ってこと?」で、先に思いついていたけど「もはや、」の後を書いてから登場させる気だったから、完全に機を逸した。

 〇

自分の日記の特徴

 日記を書いていること自体について、電車に揺られながら考えていた。こうしてnoteに日記をあげるときは大抵、短歌や俳句作品を上げるには頻度とか、他の人の発表状況・休日のサイクルの違い諸々考えると少し時期が合わないと判断して、でもだからといって無言でいるのも、人々の意識から薄れていってしまうので(特にツイッターなんか、定期的に喋ってなかったらタイムラインに上がってこないような仕組みになったと聞いたことがある気がする)、何かしら投稿するか、と思って日記をあげている。日記なんて、制限がないわけだから、書く気力が失せるか、他に差し迫った用事がなければ、おそらく無限に書き続けてしまう。
 そういえば、と思って他の人の日記(と書かれてある記事)を色々探って、ばらばら目を通していたら、こんなに自分の日記が長くなる理由がいまさら分かった。

 私は、自分の中で起こる思考を、どうやらイベントの一つとしてカウントしてしまっている。他の人は、ライブに行ったとか、旅行に行ったとか、家族が亡くなったとか、人に怒られたとか、いいことがあったとか、大小さまざまのイベントを中心に書き進めている。
 イベントが起きる前の前振り→起きたイベントの内容→それについて自分が思ったこと→日記っぽい締め がだいたいのテンプレートで、だから、そのイベントの事について、思っていることがさくっと書き終われば、そこで日記自体が終了している。
 私はそうはいっていなくて、よくよく見ると、実際何もイベントが起きていない(昨日寿司を食べた、とかは確かにイベントだけど。そこで炙り担当と挨拶担当を見ていたことも一つのイベントになりうるものだったけど)。大したことが起きていないのに、ここまで長くなっているのは、自分が何を思っているかの部分が厚すぎる。
 〇〇を想像した、〇〇を思い出した、がどんどん飛び出してきて、それをまるで一大イベントかのように取扱い、それに対する前振りと感想が当然のように書き加えられている。
 これでは、自分が何かを思い浮かべた瞬間、日記が無限に創造されてしまう。

 現に、このパラグラフだって、「日記」について書いている。そういう思考は、本来日記には必要ない気がする。変なところに力が入ってしまっている。

 何故こうなってしまったかをぼんやり考える。私は、何が起きたかにあまり興味がなく、何を思ってそれが起きたか、みたいなところに興味がある。目の前の人が今何を考えているか、を考えることが楽しい。目に見えて起きたイベントは、起きたら起きただけというか、それを書き記す行為は、ほとんど報告とか記録になってしまう。
 でも、何を思っているかを書くことは、(自分を見つめ直す、っていうとサッカー選手が手持ちぶさたに出版する本、みたいで嫌だけど)自分をよりクリアに見通すことそのものになっている。俯瞰して自分の体を外から見ているみたいな、幽体離脱的な面白さがあるというか。思考を書くことで、一旦自分の中からその思考の部分だけを取り出して、手のひらの上でそれを見つめて、こんな感じなんだーと思った後で、それをもう一度自分の体内に入れ戻す、みたいな。
 この日記を、誰かが読むことで、何が得られるかは全く分からないが(私の性格の一部分は理解できるかもしれないから、理解したいと思っているような読者には、いいのかもしれない)、書くことによって確実に自分自身は楽になっている。楽というか、冴えてきている。(雑念が消えていく、みたいな、ノイズキャンセリングみたいな冴え。)

 きっと私は、これからもこういう形態の日記を書く。おそらく、イベントがあったときこそ、書かない。何もない日こそ、急に書き始めて、題材もないのに通りすがりの空想みたいなのを捕まえてそれを題材にして書く。
 エッセイ、を書いてください、って言われてたら、もうちょっと一貫したテーマで書くだろうし、レポートって言われたら余談はせずに書ききると思う。

 書き続けてしまう私にとっては、定型という窮屈な縛りがある短詩は実はあっているんだろうな、と改めて思う。 

 〇

 霜降り明星の粗品の動画を見ていて、ここまで「テンプレート作り」を徹底するのは何でなんだろう、と思う。型が見えた方が笑いやすいのは確かで、最近の「一人賛否」だと、一人で賛否両論を言う、その賛と否のつなぎ「ただァ! んーーー」の部分。(Aは良いと思う、ただ、こんなところは駄目だ、の、接続部分)



これ


 つなぎ言葉 と名付けるとして、つなぎ言葉が来ると、次に来る内容が既に期待される。期待させといてそれを裏切る/それに正面から乗っかることで笑いが生まれる。この期待をしやすくするとともに、繰り返し何度もつなぎ言葉を認識させることによって、この型の理解スピードを上げる、というのが大きい気がする。
 ミルクボーイしかりシステム系の漫才も、同じシステムで変え続けるのは、期待と、型の理解のスピードアップだなと思う。

 この、つなぎ言葉が、要は「季語」とかになる、のだろうか。季語にもよるけど、「子どもの日」とか、「卒業」とか、「初雪」とか、「クリスマス」とか「カーネーション」とか、既にある程度展開が予想されているものがある。その展開を一瞬で期待させといて、高速で変化させる、のが俳句の面白いところだ  と思うんですが、全く変化しない、というのもまた俳句には非常に多い。期待通り、型通りで、そのくせ、こっちはそのつなぎ言葉に慣れきってしまっているから、期待・理解のスピードは高速のまま。一瞬で想像して、想像通りで終わる、みたいなことがあまりにも多い。
 粗品とは真逆というか、型を何度も何度も覚えさせる、というところまでは一緒なのに、それが俳句ではあまりフリになっていない。(もちろん、玄人みたいな人は、季語から内容を「外し」たり、思い切った取り合わせをしたり、あえてべたべたに書いたり、その辺の調整がぱっと見える形で書かれていたりはする。)

 理由は、「季語を書く」というのをルールとして考えている人がいて、関係ないところに飛ぶと、季語を書けていない、という指摘が来ることになるから。だから、期待から反れなければならないけど、同時に、反れ過ぎてもいけない(「つかず離れず」というやつ)。
 となると、(これは俳句なので笑いと同列に語るのは、なにも意味がないかもしれないが、)笑えるかどうかで言えば、非常に笑いづらいことになる。
 だから、こんなに型を推し進めているのに、その型自体で笑えることはなくって、つなぎ言葉とは関係のないところのユーモアで笑うようになってしまう。

……というのが、最近私が俳句を書くペースが急激に落ちた理由だな、と粗品の動画で思いついてきちんと”言語化””できた”。いいのかわるいのか。
 現時点での私が、やる気を出してもう一度、高校大学のころのように俳句を書くには、俳句のつなぎ言葉と、それをつかってどう持っていくかの答えをざっくり出す必要がある。高柳重信みたいになる可能性は大きい。加藤郁乎とか金子兜太の方へ行くかもしれない。好きな阿部完市や田島健一のように、つなぎ言葉をはじめから活用しない(型を推し進めない・読者に先に期待させることを期待しない)こともまた、私の戦略の一つとして考えている。
 まあ、俳句を頑張るのは頑張るとして、ここ数年はもう田島さんの第二句集のことしか考えていない。(同世代が句集を出し始めたのはそれはそれでアツいけど、)何より田島さんの句集。出ないまま終わるなんてことがないように、端っこの方で願い続けている。

 ○

 創作のメモとして、「なんちゃってアイドル」というフレーズを考えてメモしていて、そんなこと言うもんじゃないか、と思って、消した。

 ○

 外部の情報は、その人のことを表すとは限らない。あの人はアイドルである、という情報から、導けるものは、「アイドルである」ということのみである。
 それ以上のことは、本人から聞くしかない。

 私の好きな作家である森博嗣は、本人が語っていることよりも周囲が噂していることのほうが真実らしい、と言っていた。『スカイ・クロラ』でも、草薙水素は、草薙瑞季のことを妹だと言い張っているが、周りの同僚(土岐野)は、あれは娘らしい、と言う。(森のその発言は、そのシーンに関しての言及だった。)

 これは、ミステリとも大きく関わっての、発言だと思う。だって、犯人が言っていることなんて、信用ならないから。周りに聴き込んで、当人の姿が浮かび上がってくるというもので。叙述トリックだって、語り手の語りをむやみに信用してしまうから引っかかってしまうわけで。

 でも、私の意見は微妙に違っている。そういう場合もあるとは思うが、本人よりも周囲の方がよほど信用ならないのがふつうじゃないか? と思う。周囲の人間は、本人の情報に関して嘘をつく必要が特に無いから、真実に近いことがほとんどだと、それはある程度そう言えるとしても、嘘をつく必要がないからこそつく嘘というものがある。新聞やマスコミやテレビを見ているとそんなことはよく分かる。
 嘘をつくこと自体が快楽足り得る場合、周囲は、その行為に意味がなくても嘘をつくことは、ある。
 だから、周囲が噂することは話半分に聞いておいて、結局は本人から話を聞くしかないと私は思っていて、それが真実かどうかは、こちらがどれだけ信用するかによる、という別の話になる。

 たとえばアイドルの心境は、アイドル本人にしか語れないし、それ以外の周囲が我が物顔でする「アイドルの心境」についての語りに、価値が与えられてはいけない、と思う。そこは差が無いと。そして、アイドル本人がする心境についての語りに、どれだけ嘘が紛れているかは、こちらで判別はできなくて、それを嘘として考えるか、真実として信じるか、という''信''の話になる。

 というのが私の考えで、内心、全員こうあって欲しい くらいに思っている。ニュース番組のコメンテーターが適当言うことに価値が与えられてはいけないと思う。(価値がないと分かって発言しているならまだしも。)周囲がついた嘘で、本人が余計な手間を回したり、傷ついたりするのが、時間の無駄すぎるから、そうならない仕組みになって欲しい。憶測で議論がむやみに掻き回されるのは見るに堪えない。議論の参加者全員の時間の無駄である。(なんか怒ってるっぽい文章になっているのは、基本的に世間はこれを繰り返していると思うからで、すずめの戸締まりのダイジン「くりかえすね〜」みたいな気持ちでいる)

 とはいえ、例えばこの私が書いている日記の、冒頭に「見せることを前提としながら、読まれることは前提としていない」が、どこまで本気なのか、この日記内に書かれてあることがどれくらい真実で、どれくらい嘘をついているか、他の人は推測するだろう。それが当たっているかどうかはさておき、私がそれを開示するまではその判断に終わりは無く、真偽の決定は他の者には出来ない(特に思考の部分については。事実についてはある程度検証可能だろうけど)。

 どれくらい、私が読者に信用されているか分からないけど、私は基本的に、嘘をついたなら嘘をついたと分かるように書いているし、事実が必要の場合は調べて分かることは調べた上で書いているつもりである(その上で間違えているものは、単にミスっただけで、悪意は無い……)。
 売れた友人A.Aとかを見ていても、周りのみんながあまりにも当人の像を曲解している、と思うと悲しくなる(Aに関しては、自分からわざとそうなるようにミスリードしているから、当然といえば当然)。
 私は、どう誤認されようと、自分が自分を守っているから別にどうでもいいが、作品に瑕がつくようなタイプの非難はかなり困るので(作品に非は無いから)、そのことを今のうちから危惧している。今の所、奇跡的に、全員いい読者しかいなくて、真っ当な言及しか貰っていない(良くない読者はきっと、私の作品から離れていく)。(もっと不条理な批評とかされてもいいし、そういうのも見てみたいから書かれたいとも思うけど、無い。ありがたい)

 私が数年後、どのように誤解され、どのように過剰に信頼されるか、非常に楽しみである。でも、振り幅が大きいと困るから、その幅を今のうちから小さくしておこうとして、こんな日記を長々と書いている。

【余談 はじまり】

 上で、時間の無駄、と強めに2回書いた。これには事情がある。
 私は人生のことを時間で考えていて、死ぬ年齢を仮に80歳としたとき、私にはあと55年しかない。(これを秒数表記に直すことも出来る。)
 人生、というと途方もない塊のように捉えてしまうが、時間の連続に過ぎない。過ぎないとしたら、今こうして文字を打っている時間も、たいせつな「人生」を消費していることになる。

 同時に、この文章を読んでいる人も、人生の貴重なストックを使ってまで、読んでいる。とすると、軽い犯罪みたいに思えてくる。(人の命削り罪、みたいな)
 ある程度は、時間の消費は仕方ないとしても、人生を削っている/削ってもらっている以上は、その時間(人生)分の責任は取らないといけないんじゃないか、と思う。だから、あんまり、雑に人の人生を削っていられないし、自分も、可能なかぎり良い人・良いコンテンツに時間を捧げたい。

 とすると、ありもしない事実で、人を叩いて、その人が傷つく時間、人を叩く時間、ありもしない事実を作り上げる時間が、全部もったいない。無駄すぎる。人生を使ってまですることかそれが、と思う。二周目の人生が確定であるとしたら、そんなことやってみてもいいけど。みんながみんな二周目あるわけじゃないから、っていう。

 あんまりこれを全部に適用しはじめると、一分一秒無駄にできない、せっかちな暮らしになってしまうので、ぼーっとしたり惰眠を貪ったり(初めてこのフレーズを使用した)、シャンプーしたのにリンスと間違えてもう一回シャンプーしたりもする。時間を切り詰める生活は余裕がなくて好きではない。
 でもできるだけ、私と関わる全ての人間は、私と関わったことによって、プラスとまでは行かなくとも、マイナスにならないでいてほしい。この関わりは、対面だけでなく、作者-読者の関係でも、である。私の作品を読んだ時間を無駄にさせたくない。人生を削ぐに値する本にしたい。

 で、これを読んでいるのも数人なはずだから、その数人はもういいとして(読んでくれるような人は既にいい人であることが確定しているから、良いかかわりあいがお互いにできる気がする)、それ以外の人間について、このことを言わないままで、密かに、遅滞なく実行したい。

【余談 おわり】


 夜はまだ少し寒い。寒い方が、布団が暖かく感じて、調子よく夢が見られて良い。少し寒い、くらいがずっと続いて欲しい。夏は、暑いというただ一点の為に、来てほしくない。暑いと、のきなみ夢が悪夢になる。でもそれが、唯一の夏のいいところでもあり、難しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?