10日目:「家族」についてー『家族と国家は共謀する』から
先日、友人と二人で互いに読んだ本を紹介し合うということをやってみた。遠方に住む友人だったので、zoomにて。
流れ
1. その本を読んだきっかけや背景
2. その本の紹介、テーマに対する著者のスタンスなど
3. 自分なりの文脈に落とし込むとどういう話として捉えられるか
自分の紹介した本は、「家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ」信田さよ子 [角川新書] - KADOKAWA 。
この時に話した内容をここで再構成してみようと思う。
1. この本を読んだきっかけと背景
まず、何よりも子ども家庭庁について気になっていたから。元々は「子ども庁」だった名称に「家庭」が入ってきたきな臭い経緯や、たびたび報道されている斜め上へと向いている施策の数々など、話題には事欠かないあの庁がきっかけでこの本を読んだ。文科省に帰属する教育に関する事柄は、子ども家庭庁に移管されるのかなど。調べてみると、そうした議論はあったようだがやはり「難しい」という判断で基本的には厚生に帰属していた福祉分野が子ども家庭庁の所管となるらしい。
僕は、こうした動きが将来的にどういう影響を与えることになるかがとても気になり、そもそもの「家族」というタームに何が含まれているのかを捉え直してみたいと思っていた。
同じようなタイミングで、あるきっかけで民俗学者にインタヴューをすることがあり、そこではまさに日本の「家族」の歴史的な経緯が中心的話題となり、様々なことを教えていただいた。
また、鳥羽和久氏の『おやときどきこども』『君は君の人生の主役になれ』という著書を読んだことなどもあって、昨今ではむしろ埋めるべきもの、ないものと扱われがちな「親子関係の非対称性」について意識をするようになっていた。「大人と子どもが共に学び合う」姿は美しく、自分もそれが理想的な学びの環境とは思うが、そこを目指すあまり対等な関係を是とする今の風潮には非常に違和感がある。
こうした背景で、僕は改めて「家族」というタームが今どういう状況にあるのかを知りたいと思い、この本を手に取った。
2. その本の紹介、テーマに対する著者のスタンスなど
この本の全体の概要をここにまとめる意味もあまりないので、上記の文脈に沿った形で紹介してみたいと思う。
まず、自分が改めて驚いたことは明治以来「家族は法外なもの」とされてきた歴史的経緯だった。有名な1898年に制定された「家制度」がそれに当たるのだと思う。この本の中では「法の埒外に置かれた家族」の議論の経緯などは述べられていないが、基本的には家族とは愛によって結ばれた集団なのだから法的基盤は必要ないということらしい。
そうした観点から、著者は長年のカウンセリング経験から「家族は無法地帯」でありながら、「なんでもあり」の混沌としているのではなく、社会の中で隠蔽された暴力が噴出する場という意味での無法地帯と見做している。どういうことかというと、ジェンダーをめぐる非対称、そこで社会的に許容されている男性による、というよりも社会全体による女性に対する暴力が家族の中では「親子愛」などの名のもとに許容されてきていることである。
その上で、児童虐待がどういう構造のもとに発生しているかを分析してみると、そこにはほとんどDV、夫から妻への、男性から女性パートナーへの暴力がまずそこにあり、それが思わぬきっかけで児童虐待という暴力に発展すると主張している。そこで描かれる数々の悲惨なエピソードは、男性であり、父親でもある自分の姿を重ねて合わせてしまう生々しいエピソードが綴られている。
社会の中で隠蔽され、見過ごされやすい性別をめぐる暴力とそれへの対処として、著者は被害者というポジションをいかに被害者権力を避けつつ確立するか、そしてそれは一時期の対抗手段として、砦を築くことができるかを解決策として提案する。
ここで著者が強く主張することは、「暴力は政治学的にとらえなければならない」ということだ。暴力は、男性の性質、その人の気質、ましてや暴力を受けた側のパーソナリティ(生意気だった、ちょっと変わっていた、浮いていた、日頃の態度が悪かった)を要因として持ち出してはならない。そうすると、必ずその背景にある政治的=構造間の力学を見過ごし、要素それ自体を問題をするようになり、本質的な問題に目を向けられなくなってしまう。家族の中の非対称性を認めるところから出発することの必要性、そして暴力が発生した時に被害者がいることを留保なく認めることがどれだけ難しいことかを著者は十分に知った上で、その一歩が問題解決にあたっていかに重要かを説いていた。
思ったよりも長くなってしまったので、この続きは次の記事で書いてみたい。