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#22 慣れと創造性

こんなタイトルで書いてみたいと思ったのは坂口恭平の躁鬱大学を読んだから。
でもきっとこんな大層なタイトルについて書くことはできません。
考えたこともないし。
ただ、坂口恭平の躁鬱大学の#2だかを読んだからこんなタイトルが浮かんだに過ぎない。

誰にでもつくることそれ自体が楽しかった時期、それをしていることそのものに没頭していた時期があるはずです。
魚の観察でも、自転車を乗り回すだけでも、絵を描くことでも、漢字のドリルをやることでも。
そういう目的もなく、手段ですらもない行為そのものが反復され、意志も主体も人格も、その人の生まれた環境も関係なくしてしまう「行為」のことを享楽と言うらしい。
それは言い換えれば、未来を想像しないこと、生きるということになんのイメージも持たずに、その人の歴史も人格も環境も無化して行為だけがあるような状態を享楽と呼んでみましょう。
享楽は、この退屈な人生を少しでも引き伸ばすような神経症的な出来事なのか、はたまた独自の世界システムをつくる精神病的なものか。そのどちらなのを問うことはきっと何の意味もないし、個人が抱えるべき話でもない。

人は他人からどう見られるか、評価されるか、そもそも存在を承認されているるのかが一番の関心ごとだ。世界や他者のアテンションが自分であって欲しい、そうでなければ自分は生きる価値がないと信じて疑わない厄介で面倒な存在なんだと坂口恭平は教えてくれました。
だったら、そこまで自己中心的な自分がなぜ他者を経由したがるのか。自分で自分の存在を認める、あの彼の「自己肯定感」という話が出てくる。他者を経由して自己を肯定することは、「自己」肯定感なのだろうか。偶然の他者や環境がそれを決めるのであればそれはむしろ事故なのではないだろうか。提供される歌も、山道を歩くときに出会った動植物、それら全ては確かに応答すべき他者かもしれないが、想定は全くされていない。それらはまた、他者を経由していないようも思える。他者を経由することの意義は、憧れなんじゃないか。

疲れてきたので寝よう。

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