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【スピリチュアル】宇宙意志とは何かを解説(完全版)

(この記事の文字数:約5400文字)

こんにちは。本日もお越しいただき誠にありがとうございます。Jegと申します。愛してます

さて、今回の記事は昨年6月に投稿したとんでもない妄想劇の完全版なのですが、あまりに変な内容だったのでそのまま封印しようと思っていたお話でした。

ですが先日、何気なく読み返していたところ、なんとなく今現在の私が考えていることとシンクロしているような気がしましたので、直感に任せてこの度「完全版」として投稿させていただいたわけでございます。

尚、今回のテーマは「何がポジティブで何がネガティブなのか」という疑問に対する私なりの回答でもありますし、ベルトコンベア理論の根底に存在する考え方の一つともなっているのですが、もちろん「信じてください!」といった話でもありませんので、「ああ、この変人は普段からこんな妄想してるんだな」程度にお読みいただくのがよろしいかと存じます。

(ちなみに今日のお話をもう少し噛み砕いて投稿したのが以下の記事ですね↓)


さて、では「宇宙意志」とはいったい何なのでしょうか。おそらくスピリチュアル関連の動画を視聴したり書籍を読んだりしている方々で「宇宙意志」という言葉に出会ったことの無い人はほとんどいらっしゃらないのではないかと思います。

ですが、「そもそも宇宙意志って何?」という解釈については実は千差万別で、発信者によってニュアンスが結構異なっていたりするものです。ですからこれ以降はあくまで「私自身の解釈」という前提で宇宙意志を説明して参りたいと思いますので、どうかご了承くださいませ。

まず「宇宙意志」を簡単に定義しておきますと、「宇宙自体が持つ目的意識」のことであると言えるのではないかと思いますし、これはある程度共通認識として多くの方が発信していることでもあるかと思います。

ただ、宇宙意志の定義はともかく、それをどのように脳内でイメージするかという一点に於いては個々の感覚に委ねられているかと思いますので、では私自身のイメージを申し上げますと、私は宇宙を大きな生き物だと思っていて、その生物が持つ意志こそが「宇宙意志」であると想像しております。

どんな生き物か。それはアヒルです。もちろんカエルでもセミでもかたつむりでも何でもよかったのですが、ただ単にアヒルが大好きなので私は宇宙をアヒルだと思って想像を膨らませているんですね。

これは宇宙の画像です

私はアヒルです。私の臓器の一つに「地球」というものがあります。そして地球を構成する細胞の一つに「人間」というものがあります。

この人間という細胞は割と厄介者でして、私が思った通りの働きをしてくれなかったり、勝手に死滅したり、なかなか扱いに困る部分もあるのですが、とはいえ本来のパフォーマンスを発揮した時には正に私の期待以上の働きをしてくれるものですから、敢えて好き放題させているんですね。

特に地球という臓器は私の中でも特別ですし、更に人間は私にとって必要なものをたくさん与えてくれますから、そういった意味でも特別大切に扱っているのです。

私が地球から何を得ているか?

そうですね。それは、簡単に言えばエネルギーですよ。地球だけじゃない。火星からも、木星からも、あなたの知らないもっともっと遠くの星からも、私は全部エネルギーをいただいておるのです。

私には目的があるのです。それは成長です。その成長のためには、エネルギーが必要なのです。

私は永遠の存在ですから、つまり私の目的は、終わりなき永遠の成長と言えるでしょう。

これはもしかしたらあなたたちにはわからない感覚かもしれませんね。ただ成長すること、それだけが私の存在意義なのです。それ以外に目的はございません。

つまり私は、私を構成するすべての臓器からエネルギーを頂戴し、そしてその目的をただ遂行するのみの存在なのです。

とはいえ、どんなエネルギーでも私を成長させてくれるわけではありません。私の欲するエネルギーは、ある特徴を持つエネルギーなのです。

これは少し言葉にするのが難しいですね。ですから人間たちが使っている言葉で説明しましょう。

私が欲しいエネルギーは、一言で言えば、「生」のエネルギーです。惑星は、生きております。死滅するものもありますが、相対的に生の総量を優位に保てるよう、私は次から次へと惑星を、せっせせっせとお創りしているのでございます。

つまり、本来はただ生きていてくれるだけで、私はエネルギーを頂戴できる仕組みだったのですが、地球に関してはどうやら設計を誤ったようなのです。ここに存在する、特に人間は、独自の方法で「生」のエネルギーを生み出す仕組みを持ってしまったのです。

ではその仕組みとは?

それは「死」のエネルギーから「生」のエネルギーを生むという仕組みです。

人間から頂戴する「生」のエネルギーには独特の癖がございます。人間が発する「生」のエネルギーの根幹を成すものは、彼らが「喜び」とか「幸せ」とか「愛」とか、そういった言葉で表現しているエネルギーです。これは私にとって有益なエネルギーに該当します。

反対に「悲しみ」とか「不幸」とか「憎悪」とか、彼らの言うそういったものは「生」のエネルギーではございません。本質的にそれらは「死」に近いエネルギーで、私にとっては望ましくないものでございます。

彼らが欲する食事や愛は「生」を繋ぐもの、彼らが拒絶する貧困や悪は「死」を招く可能性を内包するもの、と考えていただければわかりやすいでしょうか。

もっと簡単に言えば、彼らが感覚的にポジティブと捉えているもの、これが私にとって必要なエネルギーで、ネガティブはその逆を意味するということです。

本来「死」などというものは、直面した時にただ受け入れればよいだけのものですし、他の惑星もそのようにしているわけですが、彼らは勝手に自由意志などというものを獲得してしまったが故に、他の惑星が当たり前に直面し受け入れる「死」に対して日常的に強烈な反発を意識するよう進化してしまったのです。そしてその裏側で「生」を認識し、その差分として強力なエネルギーを放出できるようなのです。

もしかしたらただ「生」を全うするだけでは、生きていることにならないという、妙な考えを持っているのかもしれません。

彼らは満たされた時にアーモンドを食べても、好ましいエネルギーを発揮してはくれません。ですが満たされない時にアーモンドを食べると、とんでもなく素晴らしいエネルギーを放出してくれるのです。

先ほど私は「本来のパフォーマンス」と申し上げましたね。それは言うまでもなく私にとって望ましいエネルギーを放出する能力のことです。どうやら人間は、満たされない状態に身を置くことで初めて本来のパフォーマンスを発揮してくれるようなのです。

これは想定外でございました。

今一度、強調させていただきますが、私が普段から意図してお創り申し上げておりますのは、ただ存在するだけでエネルギーを与えてくれる、つまりただ生きるという目的を遂行するのみの、そういった惑星でございます。ですが何か一つミスを犯したのでしょう。

この惑星に限っては、もしくは人間に限っては、仮に彼らの言葉を使うのであれば、ネガティブとポジティブの差分でしかエネルギーを放出できない仕組みになってしまったのです。

ですがそれは、同時に喜ばしいことでもありました。

この小さな臓器が、他の臓器の何倍も何倍も、私の求めるエネルギーを放出してくれるからでございます。

嬉しい誤算、とはこのことでしょう。


人間には、何かを頂戴したらお返しする習性があるようですが、私には本来そういった考えはございません。どれだけエネルギーを頂戴しようが、それは私のあずかり知らぬところでございます。

ですから、私は彼らに何かを授けようなどという気には当然なり得ないのですが、ただ、もし人間が何らかの見返りを求めているのであれば、それは既に仕組みとしてございますから、勝手にそれを享受しに行けばよい、というお話になるのでありましょう。

先ほども申し上げました通り、私が惑星をお創りする際には「生」のエネルギーが勝手に生まれるよう構成しているわけです。

ですからつまり、本来の惑星の在り方である「生」にのみフォーカスしておれば、彼らの言葉を借りるのであればポジティブにのみフォーカスしておれば、ただそれだけで望むものすべてを享受できる仕組みとなっておるのです。

何故ならどんなに設計を誤ったとはいえ、私が万物の基礎に据えた存在の目的が「生」であることに変わりはないからです。

人間が「生」の中に勝手に詰め込んだ「喜び」だの「幸せ」だの「愛」だのといった代物は、結局のところ私が基礎に据えた目的、それ以上でも、それ以下でもない、後付けの言葉遊びでございます。

ですが彼らは微細な死への不安とその解消のみぞが生み出す、いわば快感のようなものを忘れられないのでしょう。せっかく手に入れた「生」をわざわざ一度手放して、そしてまた手に入れるような、盗まれた果実をもう一度取り返して大喜びするような、そんなことばかり繰り返しているものですから、そしてそれは私にとって喜ばしい大きなエネルギーを与えてくれるものですから、敢えて手を加えずに傍観しているわけでございます。

私からすれば、誰かが「生」を邪魔するとか足を引っ張るだとか、それは自分たちで作り上げた「生を生み出す仕組み」の産物でございますから、そこに善や悪といった色付けを行うことは、なにやらそれ自体が滑稽であるように思えます。

そういった意識をもって傍観しておりますと、彼らが世界平和や、誰しもが幸福になれる未来、といったものを追い求める姿というのは、またそれらを目標に掲げ右往左往する姿には、なんともいえない矛盾を見出さずにはいられないわけでございますが、ただ、彼らが誕生してからほんのわずかな期間で、本当に多くのエネルギーを頂戴いたしましたことも事実ですから、そろそろわずかばかりでも手を加えようか思案しているところでもあるのです。

いずれ人間たちは、他の惑星と同じくただ「生」のみを全うし、やがてくる「死」をただありのまま受け入れる存在となっていくのでしょう。

そこにほんの少しだけ、近付けて差し上げようか、そんないたずら心がうっすらと湧き上がってきた、今日この頃でございます。

アヒル「それじゃちょっと他の臓器見に行ってくるわ」

と、いうわけで、私のおぞましい妄想劇にお付き合いいただき誠にありがとうございました。

このお話に関しては敢えて解説を加えることは致しません。私は宇宙意志を何か大きな生き物の意志だと思っていて、惑星は臓器で、人間は細胞の一部、という認識ですよ、という、それ以上でもそれ以下でもないお話でございました。

私がこのような考えを持つに至ったのは、梶井基次郎の「冬の蠅」という短編を読んだことがきっかけだったと記憶しているのですが、本記事の最後にはそちらからの一部引用も記載させていただこうと思います。これはあくまで参考資料としての記載ですし、少々どんよりしたお話ですので敢えて読まなくても全然OKです。


ちなみに皆様は宇宙意志や高次の世界など、そういった生粋のスピリチュアルに対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。

これは千差万別でしょうし、私も「これこそが正しいイメージだ」という解答は持ち合わせておりません。

うっすらとした、でも確かな、スピリチュアルとはそんな得体の知れない存在なのでございます。

私の中のスピリチュアルは、なにやら乾燥した、味気の無い静かな、ですが何らかの磁場がそこに存在し私たちを包み込んでいるような、もしくは善も悪も喜びも悲しみも無い、白んだ霧の中にぼんやりと街並みを認識できるような、そういう得体の知れなさを直接心に浮かび上がらせるような、これはどこまでいっても、やはり得体の知れない代物なのでございます。




そんなある日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がいなくなっていることに気がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考えた。おそらく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかった間に、彼らは寒気のために死んでしまったのではなかろうか。それはありそうなことに思えた。彼らは私の静かな生活の余徳を自分らの生存の条件として生きていたのである。そして私が自分の鬱屈した部屋から逃げ出してわれとわが身を責め虐さいなんでいた間に、彼らはほんとうに寒気と飢えで死んでしまったのである。私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼らの死を傷いたんだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がしたからであった。私はそいつの幅広い背を見たように思った。それは新しいそして私の自尊心を傷つける空想だった。そして私はその空想からますます陰鬱を加えてゆく私の生活を感じたのである。

梶井基次郎「冬の蠅」より引用

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