【スピリチュアル】何がポジティブで何がネガティブか(完全版)
こんにちは。以前、ギャンブルで7000万円負けた方の記事を拝見したのですが、やはり人生というのは何らかの依存が発生するリスクが伴うわけで、私の場合は幸運にも「願望実現」への重度依存なわけですから、結果的に「周りから完全に異常者だと思われる」「度を越えたセルフ人体実験で何度か家具を破壊したり怪我したりする」「願望実現の研究と執筆以外に全く興味が無くなって他の趣味を完全に失う」「日本地図を見てもどれが何県なのかよくわからなくなる」「友だちがいなくなる」程度の影響で済んでいるのですが、健康やお金に関わる依存症についてはやはり恐るべきものとして細心の注意を払っていかねばならぬと肝に銘じたわけでございます。
改めましてJegと申します。本日もお越しいただき誠にありがとうございます。愛してます
さて、本日のテーマは「何がポジティブで何がネガティブなの?」といったものですが、これに近い話は以前に書いておりました。
(この記事ですね↓)
とはいえ上記の記事はアヒルが出てきたり梶井基次郎が出てきたり私が中二病全開で暴走したりと、非常に抽象的なものでしたので、今回は名誉挽回を図るためにも皆様により具体的にわかりやすく「ポジティブ」と「ネガティブ」の定義をご理解いただけるよう精一杯書いて参りますので是非最後までお読みいただけましたら幸いです。
尚、構成としては前半で「願望実現的に見たポジティブとネガティブ」を説明し、後半では「スピリチュアル的に見たポジティブとネガティブ」を説明して参ります。
それではいってみましょう!
【願望実現的に見たポジティブとネガティブ】
1.実は結論はシンプル
私はこのメンバーシップでも書籍の中でも「ネガティブを封印してポジティブを投げ込めば必ず幸福になれる」といったようなお話をしておりますし、これは斎藤一人さんをはじめ偉大なる先人たちの教えを基に自分自身も実践したことで本当に人生が変わった経験に基づくものですから、相当な確信を持っている事柄なんですね。
とはいえ、やはりいろいろな人がいる人間社会ですから、「何がポジティブかどうかなんて人によって違うでしょ」「勝手に価値観を押し付けるな」という声も聞こえてきそうです。
ですから今回はその点をわかりやすく噛み砕いていこうと思うのですが、こと「願望実現」という限定的な目標に向かうのであれば、実は結論は非常にシンプルなのです。
次にそれを見ていきましょう。
2.願望実現に於ける定義
先に結論を申し上げておきますが、願望実現に於いてポジティブとネガティブの定義は以下のように分類できます。
これはベルトコンベア理論を基に考えるとわかります。
ベルトコンベア理論は簡単に言えば今現在の自分が発した「言葉」「行動」「思考」がそのまま未来に投げられ、形を変えて時間差で自分に返ってくるという法則でした。
もしまだ以下の記事をお読みでない方は先にそちらをお読みいただけましたら幸いです。
この考え方を基に先ほどの定義を思い出せば、自ずとその答えが見えてきます。
つまり「これがポジティブです」「これがネガティブです」と誰かが定義したもの(天国言葉や五戒等)に従うのももちろん良いのですが、もっとシンプルに考えるのであれば「自分が引き寄せたい現実」を「ポジティブ」と捉えるのが一番わかりやすいのです。
いくつか例を挙げてみますが、例えば「人に優しくされたい」と思っているのであれば普段から「人に優しくする」とか「優しい言葉を投げかける」等の行動を心掛ければ、形は違えど「自分が好ましいと感じる現実」がベルトコンベアに乗って返ってきてくれます。
もちろん「自分にとっては優しさだけれど相手にとっては不快な行動だった」ということも往々にしてあるわけですが、これが起きてくる理由は潜在意識がネガティブで濁っていて行動選択が適切にできていないということなわけですから、いずれにせよ日頃から「自分が引き寄せたいもの=ポジティブ」を心掛けていれば結果的に潜在意識も「自分の理想の未来」に到達できるよう行動選択を最適化してくれますので、自分の選択する言葉や人間関係も最適なものになってくれるといった具合ですね。
一方で「人を傷つけ、傷つけられながら修羅の道を歩みたい」と考えている人にとっては「人を傷つけること」を「ポジティブ」と定義するとベルトコンベア理論がすんなり理解できるようになります。この理由は言うまでも無く「引き寄せたいもの」が「人に傷つけられる未来」だからです。
数多のスピリチュアル発信者様が「ポジティブを心掛けてください」と言うのは、突き詰めていけば「人生はこうあるべきだ」という人生観を押し付けているわけではなく、「願望実現の方法論」もしくは「望む未来を手に入れる為の方法論」としての提案である場合が極めて多いのです。
ですから、今一度ご理解いただきたく存じます。私の言う「ポジティブ」とは、「正しい人生のスタンス」のことではなく「あなたが引き寄せたいもの」です。
さて、以上が願望実現の観点からのお話しだったわけですが、普段から私の記事をお読みいただいている方はこの考え方を基にお読みいただければより深く理解できるかと思いますし、ポジティブとネガティブの定義については「先人の教え(天国言葉や五戒)に従う」か「自分が引き寄せたいか否かで決める」の二択で考えれば概ね迷うことなく進めるかと思います。
ですがもう一つ。これは完全に予想の域を出ないので話半分で聞いていただきたいのですが、やはり私の中に「根本的にポジティブとネガティブは定義されているのではないか」という気持ちも、実は存在しているのです。
【スピリチュアル的に見たポジティブとネガティブ】
前半では「願望実現」の観点から見た「ポジティブ」と「ネガティブ」の定義をご説明したわけですが、後半はそれをスピリチュアルの観点から見ていきたいと思います。
尚、ここからは以下の記事に出てくるアヒルさん的な考え方を私なりの言葉で説明するものとなっておりますので、是非話半分で聞き流していただけましたら幸いです。
また、これは深掘りしようにもできない事柄なので、投げっぱなしの妄想劇になることもご了承くださいませ。
先に申し上げておきますが、この後半部分は「何がポジティブで何がネガティブかは自分の意志に関係なくもともと決まっているのではないか」という前提でお話しするものとなっております。
またこの内容は、他のどの記事のベースにもなりえない単なる妄想劇ですので、読み終えたら即座に忘れていただくことを推奨いたします。
この全宇宙は「生」をベースとして成り立っております。
私たちは明確な意識を持つもの、もしくはなんらかの生命活動を行っているものを「生きている」と表現しますが、では惑星はいかがでしょう。
私たちが普段認識しているような生命活動ではなかったとしても、やはり惑星も生きていると私は考えています。
人も、犬も、アヒルも、カエルも、ミドリムシも、木も、草も、月も、星も、要するに陽子や中性子や電子やらが特定の組み合わせで集まり構成された物質はすべて生きているのです。
ではそれらに「生」を与えたのは誰か?それこそが、おそらく「宇宙意志」と呼ばれる得体の知れないものなのではないでしょうか。
宇宙意志とは、「宇宙自体が持つ目的意識」のことです。
つまりこの宇宙に存在する万物は「生」を全うすることのみを目的として作り出された物質なのです。そしてどうやら宇宙意志とは、万物の発する「生」のエネルギーを吸収しながら成長していく存在のようなのです。
ではここでスピリチュアルの観点から見たポジティブとネガティブを定義しましょう。
私たちの「快」「不快」は何を拠り所にして分類されているのでしょうか。
赤ちゃんにとっての「快」「不快」は、程度の差こそあれある程度万人に共通しています。そして赤ちゃんにとっての「快」は「生」側に寄っているもの、「不快」は「死」側に寄っているものと明確に区分されています。
赤ちゃんはおっぱいを飲めば「快」を感じますが、お腹がすけば「不快」を感じます。これが人間に於ける本質的なポジティブとネガティブです。
ですが人間は自由意志を与えられておりますから、この「快」「不快」の基準を勝手に作り替えることができてしまうのです。
例えば「痛み」は、本来「不快」に分類されます。何故ならそれは「死」に近付く可能性を内包しているからです。赤ちゃんはどんな時に泣くか、を考えれば自ずと分類も見えてくるはずです。
ですが「痛み」が万人にとって「不快」かと言えばそうではありません。「痛み」を「快」として享受する人間も多数存在しています。
本来の定義で言えば、「痛み」は「死」に近いものですから、宇宙意志からすればそれ自体がバグのように思えるのですが、人間は生きていく中で「不快」から「快」を得る手段を多数獲得していくこともまた事実です。
豪華な食事をする前に敢えて空腹を経験したがるのも、それはネガティブとポジティブの差分が生み出す強烈な「快」を知っているからです。
心の痛みという目に見えない「不快」を、わかりやすい皮膚の痛みに変換することでその差分である「快」を得る手段を見出す人さえ存在します。
人は成長する中で「自我」を獲得していきますが、自我とはもしかしたら各々が独自に獲得する「不快」から「快」を生み出す手段のことなのかもしれません。
話を元に戻しますが、いずれにせよ宇宙意志が中央値を0に設定しているとして、そこからプラス方向に傾倒しているものがポジティブ、マイナス方向に傾倒しているものがネガティブです。
プラス方向へ進めば進むほど「生」のエネルギーに近く、マイナス方向はその逆つまり「死」を意味します。
では好きなものを好き放題食べる生活をしていれば「快」で満たされポジティブを投げ続けられるかと言えば、当然そうではありません。
他の人間の「生」を奪って自分の「生」をより確かなものにすれば自分のポジティブが増幅されるかと言えば、これも当然そうではありません。
一人が食料を奪い続けてしまえば他の人間の「生」が脅かされるからです。一人が誰かの「生」を奪えば地球規模で見た時に「生」の総量が減るからです。
では木の実の「生」を奪って自身の「生」を繋ぐ行為はどうか。動物を食料とすることはどうか。これはあまり深く考えたくない部分ではありますが、「アーモンドを10粒食べて人間が数日間生きるエネルギーを得た」という事実をどう解釈するか、というお話になろうかと思います。
いずれにせよ、宇宙意志は常に全体論で「生の総量」を重視しているようです。
無制限に食べれば病気になる。気持ちの良いことばかりを続ければ飽きてしまう。
快楽の上限値が存在することも、宇宙意志から見れば当然のことなのかもしれません。
「他人への思いやり」「健康への配慮」「明るい言葉」
これらはすべて、宇宙意志から見れば「生」の総量を増やす極めて好ましい行為です。
「他者への攻撃」「健康を無視した暴飲暴食」「辛辣な言葉」
これらはすべて、宇宙意志から見れば「生」の総量を削る可能性を内包した極めて好ましくない行為です。
ポジティブ、ネガティブというのは、もしかしたらそこに色付けを行うことさえ許されない、もっと無機質で、そして絶対的ルール、いわば「仕組みそのもの」なのかもしれません。
そして、自分が経験する出来事も、喜びも悲しみも、すべて宇宙意志が事前に設定した「生」の総量を優位に保つプログラムの一部なのかもしません。
「人生のシナリオはすべて決まっている」
偉大なる先人のお言葉です。
この言葉がふと頭をよぎる時、得体の知れない畏怖と、ですが私は天邪鬼ですから、「少なくともこんな行動は宇宙意志も想定してなかっただろう」みたいな奇行を繰り返し、でもその奇行自体がプログラムの一部であることを、少なくとも一時的に忘れることには成功しているようでございます。
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