最愛の母を見送りました
<2024/5/16 享年83歳で天寿を全う>
5/15日朝緊急搬送から緊急手術。しかし、多分時間の問題だろうと連絡がお袋と同居していた妹から連絡が有った。既にそこから意識は無かった。
5/16日朝病院から何時心停止してもおかしくない状況だと連絡を受け、出張宿泊先の東京から直ぐに群馬の病院に向かった。
弟も韓国から帰国の途へと・・・
HCUで5分ほどの面会は出来た。手を握り「まさあきだよ!」と声を掛けると目がピクリと反応した。
きっと聞こえてるんだなぁ・・・
「弟も向かってるから頑張れ!」と声を掛けて面会が終わった。
朝から血圧や酸素濃度など殆ど変化なく症候状態が夕方まで続いて居た。
弟は何とか21時前には着きそうだと連絡が有り、せめてそれまで頑張ってくれと祈っていた。そういう所は意外としぶとい母親だw
そして、20:40頃病棟に到着して面会許可を貰い弟も5分程度面会が出来た。
21時前にHCUから出てきたが、まだ症候状態なので一度病院から出て待機してほしいと看護師より説明がありこの後どうしようか相談してた。
そして、では帰るかと話してた所看護師が来て「ちょっと待っててください!」と言われ暫く待った。
先ほど心停止しましたので確認に入ってくださいと兄弟3人で確認に入り、最終的に21:25に死亡確認となった。
本当に弟が来るのを待って逝ってしまったという感じだった。
そういう所がお袋らしいなと兄弟で笑った。
<不思議な事が>
去年の12月の小生の誕生日の日、お袋から初めて誕生日祝いの電話が掛かってきた。
そして「生まれて来てくれてありがとうな」と言われ、実は返す言葉が出て来なかった。。。心の中では「産んでくれてありがとう」と言いたかったのだが、それを発すると何だか最後の別れのようで躊躇してしまったのだ。
それだけが後悔かな・・・
その後、3月お袋の誕生日に偶々自分も群馬に居る事が出来て、小生の長女が婆ちゃんにとバースデーケーキを作ってみんなで祝ってあげた。
それはもう嬉しそうで、その時もまた「本当に幸せ」と言ってたw
最後の誕生日を一緒に祝えたのも運命だったのかな?
<大病の連続>
75歳の時、心臓がとても悪く危険だったが何とか人工弁の手術を受けて命を長らえた。
人工弁の耐用年数が10年と言われたので、85歳で再手術出来る体力があるか判らないけど、なんとか10年命を貰ったから残りの人生を謳歌したいと本人も家族も誓った。
そこから、本人も腹を据えて「終活」が始まり、色んな所に連れて行ったり身障者手帳を貰ったので出来る限りその特典を利用して孫達ともディズニーへ何度か行ったり、韓国の弟のところへ観光に行ったり、各観光地に出かけたりした。
80歳の年末に低カリウム症になり、この時もやばい状態で人工透析で何とか救われた。
しかし、その時に雑菌が心臓の人工弁に付着してそれを交換しないとまた危ない状態になっていた。
そして、81歳になり2度目の人工弁交換手術が決まった。
その少し前のGWに子供3人、孫6人と従姉妹の家族で集まり楽しい晩餐会と終活写真撮影会をした。勿論、メインは本人の遺影撮影だった。
<母の人生>
親父とは職場で出会い、母の家族から結婚は大反対されほぼ駆け落ち同然の結婚だった。
最初の頃は運送会社を始めそこそこ裕福だったが、ガソリンスタンドを始めてからはお金の苦労は絶えなかった。
そして、親父が友人に騙され大きな借金を抱え親父はそれから長距離運転手、お袋はゴルフ場のキャディーを70歳まで働きづめだった。
親父が51歳(小生が25歳の時)で他界し、ずっと若い頃から貧乏苦労の連続の人生だった。
しかし、晩年は家族のみんなから好かれ、子供3人、孫6人、ひ孫2人に囲まれ、昨年末は高齢のほぼ全員集合となり賑やかな年越しが出来た。
グランドゴルフの仲間らかもすかれ、入院すればみんな親しい友達になるという特技もあり、ここ数年は「今が一番幸せ」と誰にでも口癖のように言ってた。
ちょっとまだ早かったが、一番幸せな時に誰にも迷惑を掛けず逝けたことはきっと本望だったと思います。
出来れば誰にも迷惑かけずポックリ逝きたいと言ってたのでw
自分も信州に移住してからは悔いの無いよう親孝行はしてきました。
覚悟もしてたけど、ちょっと前まで元気だったので突然のことにみんな戸惑い直ぐには受け入れられなかったが、葬儀が終わりようやく現実味が増して来た。
身内は祖祖父母、父、祖父母、母とこれで4人見送ったが、結構非常な性格なのかな?一度も涙を流したことが無い。
勿論寂しい気持はもの凄くあるのだが・・・これでもう上は誰も居なくなり、今度は3兄弟以下になってしまった。
親父が他界してからはずっと親父代わりをしてきた様な物なのでそれ程変わりは無いが、自分たちの終活をボチボチ始めて行かないとかな・・・
<しっかり残せた写真>
親父の遺影写真はとてもしょぼい合成写真で可哀想だった。
その後小生は商業カメラマンを始めたので、お袋の時は元気な姿を残してあげたかった。
昔から写真を撮られるのが大嫌いでカメラを向けると「撮るな!」と怒られたので若い頃の写真は今残ってるのは小生の七五三の写真で、奇跡的に実家の火事の時に燃え残った1枚を妹が見つけてくれた。
75歳で心臓の手術をしてからは自分から写真を残してくれと言うようになり、本当の終活が始まった。
葬儀の時も思い出コーナーに沢山の写真と動画を流したが、来場者が皆喜んでくれた。
カメラマンとして最後の花道をしっかり作ってあげられたかな?
遺影写真は遺族がずっと見るものだから良い写真が残せて本当に良かった。