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障害にまつわる呼びかた、捉えかたに思うこと

障害者ってなんだろか。

そう言うところの「障害」とは、健常者を基準にした社会で生じた障害、社会が生んだ区別、というのはよく聞く話。障害者、障がい者、障碍者。派生した呼びかたも意味は分かるし、最近、あえて日本で伝わりやすい「障害者」を使うって当事者の記事を見かけて、それも納得できる。

捉えかたによっては、誰も障害を抱えて生きている。社会的に言葉・記号として扱いやすいかどうか、なのかな。

アメリカで提唱された「チャレンジド」って呼び方は好き。挑戦を与えられた人だったか、そんな意味ですよね。

これは個人的に、当事者以外も含めてチャレンジドと思えるから好き。でも、常にチャレンジャーって疲れるかも?括弧書きで(○○○を持った)○○○さん、だったり(○○○に挑む)○○○さん、ぐらいでいいのかな。個人はあくまで個人として話したいし。

日本で障害と言うと、哀れんだり、かわいそうな視線を向けられたり、同情するなら寄附金くれ的なテレビを平然とやっている。

かたやNHKのバリバラみたいな、疑問や課題意識を持たせてくれる番組もやっている。あそこに出てる当事者の人間味がむしろ自然に感じる。

個人的にゲストで、上沼恵美子が出てくれないかなと思っている。あのオーサカのオバハンの、最近の発言は痛快度が増してる。(マゾ的な意味でなくリスペクトを込めて)

大昔、高校生のとき、地元社協さんと視覚障害者の集まりでパソコン講習をさせてもらった。2日間やって、2日目にタッチタイプ、スクリーン操作、ブラウザの検索まで習得された人がいた。「精神と時の部屋」にでも行きましたか、っていう。それだけ、世界を知りたいんだよね。差はあっても同じじゃないかなと、幼いなりに感じ、慈善的な発想が良いのか悪いのか自問したっけな。

それから、エイブルアートの展示を何度となく観てきた。障害を持った人の芸術、と言うと、これまた区別的な意味で聞こえる。「可能性の芸術」という意味と聞いたことがあり、僕はこの呼び方は好きだ。

区別的に当事者の方が描いた作品がエイブルアートと呼ばれるけれど、アクションペインティングなど身体性からの表現として、地続きなものだと思う。逆にそれを区別して、何がアートと言えますか、と聞きたいもんだ。

あと、バリアフリーってさ。みんな平等でなく、みんなの視点を揃えること(個人個人の身長差なら足台を用意して、同じ目線の高さにすること)と聞くよ。これって会話の前提条件を話すことと同じで、当然のことじゃないかな。

ユニバーサルデザイン、インクルーシブデザイン、バリアフリー、アダプティブデザイン、ウェブアクセシビリティ、いろいろ言うけど、なにが本質なのかな?後付けの「配慮的なもの」「補助的なもの」「付加的なもの」なのかな。けっこうそれらって、使い勝手とか絵的な完成度の前にある、できるできないとか、与件やターゲティングといった、ごく前提にあるものじゃないのかな。よく違和感を持つ。

もちろんキレイゴトだけでなく、社会的な配慮も必要ながら、健常者と呼ばれる側も「自他とも障害を持ってますよ」「あなたも誰も、本来的に普通なんてないですよ」と言いあえないものか。この国の「普通」が息苦しい。例えば自分にそう思えるなら、あなただって当事者。息苦しさの大小はあっても、もっと不自由を抱えた人とも遠くないはず。

やっぱり呼びかたより、あなたとわたし、人と人なんだ。脈略なく話して、まわりまわってそれだけの話だった。違いは気づきを与えてくれる。だから、もっと話したいんだよね。

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YasuhiroMuraji
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