見出し画像

ハンパに分かったつもりになるなら、僕はイタコになる

よく「ひとの気持ちになって○○○…」と聞くにも、他者の気持ちになることって、そんな容易いことかな?と思ってしまう。

たとえば自分が知らない誰かに、見た目や表面的な言葉だけで判断されても、僕の何を知ってるの?と思う。

「分かったつもり」はいらない。十人十色の考え方、万人万種の物語。その一つひとつをまとめて理解するとか、他人のものさしですぐに解釈できるとは思えない。まず、分からない前提に立たないと始まらない。

ここ半年ほど、他者を考える“リサーチ”の仕事をしている。(よくある“マーケティングリサーチ”ではない。)家族に話したら「イタコみたいだ」と笑われた。笑われながらも腑に落ちる。イタコのプロフェッショナルがいたら無礼だ。そんな程度に最近の僕の仕事っぷりは、とてもうさん臭い。

ひとの思考や感情をどう知るのか?相手の頭蓋骨を開けば見えるのか?「おーい!」と呼べば答えてくれるのか?本当のところ、誰が何をどう考えているかなんて分からない。

情報環境が無数にあれば、親しい仲で知らない部分があってもおかしくない。すべてを容易く確かめられたら苦労しない。はて、表に出てくる言葉は、どのぐらい顕在化したものなんだろう。

それだから、気持ちより気持ちの持ち方を、思考より思考態度を、心よりも心理を。フワッとした対話を通して確かめる。細かな問いはせず、深ぼりと洞察に頼る。

確かめた他者を、自分に仮想的にインストールする。自分の考え方と、クセを消す。そこに誰かの考え方とクセを入れる。既にあるサンプルを拾うだけでは得られない。先入観を省いた声や行動といった事実。そこから得られる示唆をもとに、仮説立て、アブダクション(推論)を試みる。

僕は、自分自身を、他者の状況に陥れる。その状況下で、気持ちの持ち方・思考態度・心理のままに泳がせる。シミュレーションではなくエミュレーション。モノマネではなく即興劇。憑依というと怪しさが増すかもしれない。

しかし、どこまで行っても分からない。想像力がないと思う。それ故にやれてる仕事だ、と思うようにしている。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。