学歴社会の終わりの始まりに
それが終わるという。センター試験が今年で終わり。社会人の自分に実感はなく、ただ変わる気配のようなものだけ聞こえてくる感じ。記事から事実が報じられても、学生や当事者たちの実感は分からない。
こんな話だというのに、思えば、学歴社会のことをよく知らない。残念なことに、受験も就職活動もしていない。学歴を始める以前に、あまり考えたこともなかった。好きにやっていた大学生の僕にとって、そのステップは必要ない。理不尽を望んで受け容れなかった。自信の上澄みを拠り所に、攻めているようで守っていたのかもしれない。
20年前。高校生の頃に、先生の紹介でアルバイトをしていた。田舎の小さな会社で、HTML4時代のホームページを作っていた。社長は高価な日産スカイラインR34GTRに乗っていた。職業感とまでいかないけど、好きなことをすればいい。お金ももらえる。うっすらと好都合に思っていた。今思えば、それはITバブルだったのかもしれない。僕が進学したのち、会社は蒸発したらしい。
受験も就職も興味なし。専門科で好きにやってたからかもしれない。理系文系という謎の区分、出身校や偏差値での足切り、統一の試験結果を見比べられ、実務とは遠いお作法にのっとり品定め。そんな先入観で見て…いや、大して見てもいなかった。遠い場所にいて、うっすらと疑っていた。真面目にやっている人がいたら、ぶん殴られても仕方ない。
ただ、延々と疑っていても立ちいかない。同じステップを踏もうが踏まなかろうが、いつか軋みが生じてくる。放し飼いの羊でも牧草を得るための庭が必要で、その庭も人工的に整備するためのお金が必要になる。僕は僕を飼いならし、明日食うためのお金を求めて働き始める。
今でも、社会制度をわきまえておけば、なんて思うことがある。言ったところで時間は戻らない。仮に戻れたとしても納得したか?今なら案外、納得するのかもしれない。軋みは自作の防波堤を自壊させて、いつか流れにのみこまれた。周りの迷惑も知らず、勝手に溺れていた。
だけど、いま崩れようとしているのは、自作の防波堤じゃない。社会制度のほうだ。しっかりしてるように見えたあのステップも、過去のものになる。若ければ「ざまぁ」とでも思ったかもしれない。差別的な採点は無くなって然るべき。
それなのに不安に思う。学生の身なら、信じて学んできたものの軸がなくなるようなこと。不安はなかろうか。新しい基準はどことなくフワッとしている。どこかの資料をみた。自由な環境での、主体性や創造性。なんだそりゃ。(文献を忘れてしまいいい加減な情報になってしまうけど..)
「なんだそりゃ」と大人が言っていてはいけないのかもしれない。大人がその大人を嘲笑しても、子供たちにいいことはない。自由を無責任にしてはいけない。
その先を考えていく必要がある。受験も就職活動もしていなかったけど、勝手に選んで、勝手に溺れていた僕ならそう思う。
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。