「わたしが生活保護を受けたら」
「note」でわたしの姿が見えなくなったら、とうとう、「生活保護受給者」になったかと思って頂きたい。
「生活保護」になると六畳一間の木造アパートが与えられる可能性が大きいと思う。
夜寝るときは、ちゃぶ台を片づけ、布団を敷く。目が覚めると布団をあげ、押し入れにしまう。リビング、ダイニング、寝室の役割を六畳一間がやってくれるのである。
今は、寝室だけで30畳はある。
借金をしていながら贅沢な暮らしをしていると生活保護になったとき落差が大きすぎるので今から生保の練習をしておくのがよいのかもしれない。
六畳一間と言う広さは我が家にはない。
一番狭い部屋で10畳だ。離れの茶室とお座敷である。
茶室にちゃぶ台の丸テーブルを購入し、テレビと共に置く。テレビが大きすぎるのでキャンプ用のテレビにする。
炊事場と洗面台は一緒になっているはずだ。
ご飯を作ったり、また歯を磨いたりするところは同じ場所で、一畳ほどであろう。
それにトイレがあり、押入れがあってお終いだ。
何と狭いのであろうか。
わたしは、書籍は2000冊以上処分し捨てなくてはならない。
妻は、沢山の洋服やアクセサリー類を処分し、最低限の化粧品だけを残してお終いだ。
冷蔵庫は、流しのある一畳のかどに置くのだろう。
うーむ。
この人の息や人の体感を感じながら過ごすのが、国民として社会に生きる最底辺の「生活」なのだろうか。
どうも「生活している」とは言えないようだ。
ただ、狭く息苦しいところにじっと耐えているとしか思えない。
しかし、「生存」はさせてもらっているので「生存権」はクリアしている。まぁ、考えようでは「生存権」がなければ「死ね」というようなものであり、共産主義と同じで「人権」がない。
だが、果たして「生活保護受給者」に「人権」はあるのだろうか?
未来のない生活である。
一度、このレベルの生活まで落ち込んでしまうと、「社会的自立」が大変だ。無理であろう。誰かから遺産が入ったとか、個人が助けてくれない限り半永続的に続くであろう。
わたしは、きっと借財が億という単位なので、破産をしても免責にならない。
しかし、生活保護受給のお金は借金の返済には使えないから、債権者はじっと我慢しているであろう。
問題は、頑張って生活保護から自立しても、今度は、待っていましたとばかりに債権者に囲まれてしまうことだ。
わたしたち夫婦は、一生、死ぬまで生活保護を受けなくてはならない。
こうなるともう「小説の書き方」です、などという優雅なことは言っていられない。反応性のうつ病で動けなくなり、布団は敷きっぱなしで寝ていることになりそうだ。布団が敷きっぱなしだとちゃぶ台が置けず、妻は炊事場でお茶を飲むことになるだろう。
笑い事ではない。真剣に考えている。
「生存権」=「生きているだけましかな・・・」