展覧会レビュー|リクリット・ティラバーニャ「DAS GLÜCK IST NICHT IMMER LUSTIG(幸福はいつも楽しいとは限らない)」(マルティン・グロピウス・バウ)
足元への視線
松井里菜
私にとって美術館とは鑑賞の場であったし、実際それが一般的な美術館のイメージなのではないだろうか。インスタレーションという形式の場合は、鑑賞よりも体験という表現ができそうな気もするが、それはあくまで美術館に設置された空間に受身的に浸るという感覚だ。ベルリンのマルティン・グロピウス・バウでのリクリット・ティラバーニャの個展「DAS GLÜCK IST NICHT IMMER LUSTIG(幸福はいつも楽しいとは限らない)」で体験したのは、単なる鑑賞とも、空間の体験とも異なる感覚だった。というのも鑑賞中、これまで単なる「ハコ」としか捉えていなかった美術館の空間自体が可視化される瞬間に何度も出くわしたから。この感覚の創出に一役買っていたのは、ティラバーニャの作品というよりも、展示空間に広がる「床」であったように思う。
具体的には、床に書かれた注意書きがその一つの例である。作品が置かれた床には、黒い直線と共に「PLEASE DON'T TOUCH(作品に触れないで)」と書かれていた。美術館では頻繁に目にする注意書きだが、本展示ではとにかくその存在が際立っていた。ティラバーニャは、展示スペースでスープを提供したり、卓球台を置いて卓球ができたり、トルココーヒーを自由に飲むことができるスペースを設置したりと、来場者自身が作品との距離を計り体験する作品形式でよく知られている。そのため、展示空間において鑑賞者が作品に近づいたり、触れたりといった振る舞いが自然と起きる。そして彼の作品の鑑賞を繰り返し、作品に近づく、触れる、という行為に慣れてきた頃に、この「PLEASE DON'T TOUCH」が現れるのである。
当たり前に近づいてよい、触れてよい、と想定していたところにその行為を突然制限されると、「そうか、ここは美術館だった」という「普通」の鑑賞感覚が思い出される。この注意書きが看板や柵などで表示されていることはなく、床に書かれているのみ。ここで厄介だったのは、注意書きがされた作品とそうでない作品に法則性を見出せないことである。注意書きが「表示されているだろう」と推測したが実際は無いという作品がいくつもあった。その度、これは触れてもいいということなのか? という疑問が頭を過ぎったが、念の為、触れはしなかった。
なによりも本展示の面白さは、美術館という空間で伝統的に促されるある特定の振る舞いや思考を解体するというよりも、更なる混乱を生じさせるというところにある。展示空間に埋め込まれた既成のルールから解放され「ティラバーニャのルール」に適応しかけたところで、再度、既成のルールに引き戻される。これを繰り返すことで、自分の振る舞いや思考に混乱が生じてくる。この無秩序さによって、鑑賞者は自身の振る舞いや美術館に内在する規制のルールに意識的にならざるを得ず、作品との能動的な関係づくりを促されるのである。
注意書きで特に興味深かったのは、《untitied 1995: bon voyage monsieur ackermann(良いご旅行を、アッカーマンさん)》に表示されていたものである。フロントの2つのドアとトランクが開いた状態の一台の車が作品として置かれ、手前の床には黒い直線だけが引かれていた。他の作品で「PLEASE DON'T TOUCH」と共に引かれていた黒線と形式が同じなので、これまで展示を観てきた鑑賞者は自然とその線を「PLEASE DON'T TOUCH」と読み替えるだろうが、改めて考えると黒線のみで、しかも作品に近づくことが多い本展示で、「作品に触れないで」の意図を汲み取り、無意識的に特定の行為を自制できてしまうのは不思議な体験である。
他にも床に関して目を引いたのは、鑑賞者に床に座ることを促す作品や展示方法である。本展示では、映像作品やスープが提供される作品など、その場に一定時間留まることが必要な場面がいくつもあった。こうした作品の前には、通常そうであるように、椅子が設置されていた。三つの大スクリーンにそれぞれ異なる映像が流れる作品の前にはスツールがいくつも置かれていたし、スープを提供するインスタレーションでは簡素な折りたたみ式のテーブルと長椅子で来場者がスープを食べられるようになっていた。一方で気になったのは、椅子ではなく、床に座ることを促す空間である。例えばある映像作品では、設置された二つのテントの中で異なる映像が上映されており、鑑賞者はテントの床に直に座ることになる。
また別の作品では、床に直に置かれたブラウン管テレビにドキュメンタリー映像が映し出されており、私が立って視線を落として鑑賞していたところ、会場スタッフに「この寝袋に座っても良いですよ」と、床に唐突に敷かれたオレンジ色の寝袋――私はこの寝袋も作品の一部で触れてはいけないと思い込んでいた――を指さされた。美術館という整然とした空間で床に直に座る行為は、逆説的にピクニックのような「屋外」や「即席感」を連想させた。
加えて、床の存在をより一層引き立てていたのは、作品との違和感である。ティラバーニャは1992年のある展示のオープニングでソーセージを振る舞うパフォーマンスを行ったが、その際に発生したゴミなどは会期中そのまま放置され、「展示」され続けた。本展では、当時の展示が再現されていたが、ゴミで溢れたテーブルと美術館内の清潔な木製の床とのギャップに大いに違和感を感じた。また別の作品も、ニューヨークで行われたパフォーマンスの再現で、仏教の僧侶が着るローブと同じ素材で作られたオレンジ色のテントの中に「伝統的な日本の茶室」をベースにデザインされた空間が再現されており、鑑賞者はテント内で自由に中国茶を飲むことができる。
これらの作品は屋外に設置されていれば、何ら違和感なく、景色の一部として作品と認識することもなく見過ごしてしまうだろう。しかし清潔な屋内の床の上に置かれた途端、違和感が際立ち、再度「そうか、ここは美術館だった」と気付かされることになる。さらに、展示空間の床のあちらこちらに転がっていた寝袋は《untitled 1993: sleep/winter(睡眠/冬)》という作品で、先に触れたブラウン管テレビの前に置かれていた寝袋もこの作品であったことが後になって分かった。鑑賞者はこのオレンジ色――この配色が消防士の制服や災害現場などの「即席」「仮設」感を思い起こさせる――の寝袋に腰掛けたり、昼寝をすることもできる。重厚で整然とした木製の床とのコントラストによって、乱雑で即席的に置かれた寝袋が美術館には分不相応な存在としてさらに際立っていた。
足元に視線を落とすことで、ティラバーニャの作品と美術館の「床」とのコントラストが際立ち、「そうか、ここは美術館だった」と、混乱と共に再認識する瞬間に何度も遭遇した。この混乱を引き起こす最大の要因はアーティストの作品そのものではない。作品を作品たらしめ、物理的な意味でもそれら作品と、その空間に根付く慣習を支える美術館の「床」こそが、その真の立役者なのかもしれない。
Rirkrit Tiravanija: DAS GLÜCK IST NICHT IMMER LUSTIG
会場:Gropius Bau(ベルリン)
会期:2024年12月9日 - 2025年12月1日
https://www.berlinerfestspiele.de/en/gropius-bau/programm/2024/ausstellungen/rirkrit-tiravanija