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「死者に鞭打つな」で「国葬」反対の声を封じてはならない

昨年6月に義母(妻の母)が亡くなり、ごく近しい身内だけで「家族葬」を営んだ。いろいろ理由はあったが、一番はコロナ禍が収まらない中で感染拡大を懸念したからだ。また、この1、2年、大恩ある先輩をはじめ何人かの友人、知人の死去の知らせも届いたが、みな家族葬で済ませた後とあって、心ならずも告別式への参列はかなわなかった。周りの人たちの話を聞いても同様で、新聞の訃報欄を見ても今はほとんどが家族葬となっている。
 
ところが、である。参院選の街頭演説中に銃撃され亡くなった安倍晋三元首相の場合は「家族葬」と言いながら、葬儀のあった7月12日、会場となった東京・芝の増上寺には政財界の要人ら約千人が参列した。加えて、安倍氏の棺を乗せた車が国会や首相官邸前を通って荼毘に付される斎場へ向かった際の沿道には大勢の国会議員だけでなく一般市民も詰めかけ、見送ったと報じられている。 コロナ感染の“第7波”到来という状況下で、何をどう考えればこんなことができるのか。あきれるほかない。
 
そのうえ、あろうことか秋には政府主催の「国葬」を行うと聞き耳を疑った。内輪の「密葬」で済ませたから、後日「本葬」あるいは「お別れの会」や「しのぶ会」を開くという例はよくあるが、いったん葬儀をしたのにもう一度葬儀を重ね、しかも全額国費、つまり国民の税金を使って大々的に執り行うとは信じ難い。コロナ禍の中での日常生活、とりわけ今は物価高にも苦しむ庶民を顧みる姿勢など微塵も感じられない所業である。安倍氏の死をどこまで政治利用する気なのか、岸田政権は! 悪ノリの度が過ぎると言いたい。
 
「死ねばみな仏」「死者に鞭打つな」。日本人の倫理観とされる言葉だが、歴史上の人物だって死後にその功績を称えられるだけでなく、罪過を問われなかった者はいない。源頼朝しかり、織田信長しかり。近現代においても伊藤博文はもとより、戦後の吉田茂から田中角栄、中曽根康弘に至るまで歴代の首相が後世の検証にさらされてきた。一人安倍氏に対してのみ生前の所為について批判が許されないわけはない。礼賛一辺倒で行われる「国葬」には反対する声があって当然だし、もしやこうした反対者を「非国民」呼ばわりするような風潮が広まることにでもなれば、それこそこの国は戦前と同じ道をたどることになるだろう。断じて許してはならない。(井上俊逸)

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