「黒い雨」判決が問いかけるもの(上)
※トップ写真は、「黒い雨」訴訟を支援する会提供。各発言者の発表時の資料の著作権は、それぞれの発言者に属します。また、発言者の説明に挿入されている各種リンクは、読者に理解を深めてもらうために、JCJ広島支部の判断で入れているものです。
76年前の夏、広島には黒い雨が降った。
その雨は、広島市中心部の爆心地からはるか、数十キロほど離れたのどかな農村にも降り注いだ。だが、雨を浴び、あるいは爆心地方向から飛んできたちりやほこりなどを吸い、放射線の被害を受けたと訴える人たちは、長く援護から置き去りにされてきた。病気を患い、幼くして亡くなる人たちもいる中、「あなたたちは被爆していない」とされてきたのだ。
こうした中、2020年7月、画期的な判決が広島地裁で出た。黒い雨を浴びて放射線被害を受けた84人(遺族含む)の「被爆者として認めて」という訴えを、司法が認めたのだ。被告(広島県、広島市)側が控訴したため判決は確定しなかったが、今年2021年7月、広島高裁が、再び原告側勝訴判決を出した。この後、被告が上告を断念したため判決は確定し、全員に被爆者健康手帳が交付された。
この判決は私たちに何を問いかけているのかーー。そんなテーマで、私たち日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島支部は9月にシンポジウムを開いた。訴訟を闘った原告や弁護士のみならず、長く運動を続けてきた支援者、取材した記者、そして放射線の専門家も参加した議論の内容を、2回に分けて紹介する。
シンポジウムは、JCJ広島支部が毎年9月に開催してきた「不戦のつどい」として開催。新型コロナウイルス対策のため、オンラインで実施した。
難波健治・JCJ広島支部幹事:
これから、私たち広島支部が毎年開いている「不戦のつどい」を始めます。今年は、7月14日に広島高裁が出した黒い雨判決が何を問いかけているのか、をテーマにシンポジウムを行います。冒頭に、私たちの代表の沢田正から挨拶を一言させていただきます。
沢田正・JCJ広島支部代表幹事:
みなさんこんにちは。広島支部は毎年9月2日前後に「不戦のつどい」を開いてきました。今年で45回目を迎えます。
なぜ9月2日かというと、第2次世界大戦で、無条件降伏をした大日本帝国が、1945年9月2日、東京湾にやってきたアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書に調印しました。日本では8月15日を終戦の日と言っていますが、世界では、この日を第2次世界大戦終戦の日としています。
日本ジャーナリスト会議は、この10年後、「再び戦争のためにペンを取らない」を合言葉に結成されました。その背景には、戦争への道を止められなかった反省と自戒、それから平和を形成するという固い決意がありました。広島支部は毎年この9月2日を前後してジャーナリスト会議結成の合言葉を確認する日として「不戦のつどい」を開いてきました。
平和とは戦争がない状態だけではなくて、人権、あるいは命、暮らし、そして民主主義が守られている、そういう状態が平和を作っていく。戦争を起こさないということだと思います。毎年、広島支部は「不戦のつどい」で平和を築く礎となる様々なテーマを取り上げ、多くの市民とともに考える場としてきました。
さて、昨日、菅首相が総裁選に出馬しないというニュースがありました。オリンピックを強行してコロナ感染爆発を招いた、そして今、自宅待機のコロナ感染者が10数万人、11万人を超える中で、責任を取らずに政権を投げ出したというのが、この出馬断念の実態だろうと思います。僕は、メディアにはこの無策を止められなかった責任の一端があるんじゃないかと思います。日本ジャーナリスト会議の本部機関紙の「ジャーナリスト」8月号の1面で、徳山喜雄さんが、「五輪報道と戦争報道は酷似している」と指摘しています。76年前、日本のメディアが戦争を止めらなかったというより、戦争を煽って、戦争に国民を導いていった。それと同じようなことを今もメディアはやっているのではないか。そういうのを日々検証していくのが、ジャーナリストの役割だと思います。
今日テーマとした黒い雨訴訟の控訴審判決は、被爆者援護という意味では画期的な判決です。単にそれにとどまらず、内部被曝を認める司法判断という点で、核実験の被害者、それから原発事故の被害者、これに救済の道を開く非常に大きな意味を持つ判決だと考えます。
これからパネリストの方に、それぞれこの判決が持つ意味、どうしてこの判決を勝ち取ることができたのかを話していただいて、この判決を、この日本の社会、それから世界の核被害者に役立つように僕たちができるように、市民の皆さんとともに考えていきたいと思います。
難波:
まず冒頭に、画期的なこの判決を勝ち取った原告を代表して、高東征二さんから、まず勝訴の報告をいただきたいと思います。
黒い雨集団訴訟原告の高東征二さん:
こんにちは。黒い雨訴訟を支援する会事務局長の高東征二です。地裁判決で全面勝訴しました。控訴審でも勝ちました。上告もさせませんでした。みなさんの応援で勝ちました。本当にありがとうございました。このピンクの表紙の被爆者健康手帳、手にすることができました。40年の戦いの運動をしっかりと受け止め、黒い雨の被爆者に手帳が行き渡るまで、頑張り続けます。
私はあの時、母の指差す広島の空を一緒に見ていました。夏の空が暗くなり、ちりやゴミ、灰がただよい、焼け焦げた紙や屋根の削ぎ板が落ちてきました。やがて大粒の雨が降り出し、でも濡れた記憶はありません。軒下に入ってみていたのだと思います。原告の証人尋問で、被爆したかどうかは黒い雨に濡れたかどうかではなく、放射性微粒子が身体に入り込む事情にあったかどうかです、と主張しました。
私は20年前、毎日新聞の樋口岳大記者から「病気で苦しんでいる人を訪問して聴き取りを残すことが大切だ」と言われました。その聴き取り調査と同じことを弁護士の先生方がやられました。被爆者援護法1条3号、内部被曝を正面に据えてがんばられたのです。
病気だらけの人生を強いられ、苦しみ死んでいく現実を決して見ようとしない国には、怒りを感じます。
また、これは福島原発被害者と同じ被曝です。広島で証言することが福島の皆さんのお役に立てると思いながら証言しました。国は内部被曝を心からは認めていません。認めざるを得ないところに追い込んだのだと思います。内部被曝を隠蔽するのではなく、堂々と内部被曝の研究をしてほしい。核廃絶の方向に歩んでほしいのです。
原告以外で同じ環境で被曝し、苦しんでいる人が多くいます。でも審査基準を変えないと申請できません。昨日の政権投げ出しの菅首相を見ていたら、この問題を最後までやってくれるとは思えなくなりました。新しい政権を作り、その真っ先の政策として審査基準の見直しを実行してほしい。
我々は、8月25日に記者会見を開き、予約制相談会の案内をしました。電話が殺到し、次の日には定員はいっぱいになりました。9月18日、19日と2会場で説明会を開きます。被爆者健康手帳の交付申請の案内や、相談をおこないます。私の家にも電話や訪問客があります。病気だらけの人生を返してくれ、と言われているようでとても辛い気持ちです。生きていて良かったと言える時が目の前にあります。皆さんの力で、早く実現させていただくようお願いします。
今まで多くの人が病気だらけの人生を強いられ虚しく死んでいきました。この犠牲を反省なしでは先に進むことができません。生きて、生きて、核なき世界が実現するまで生き続けたい。今日の話し合いが実のあるものになるよう、ともに頑張りましょう。
難波:
これから4人のパネラーに基調報告を、それぞれの分野からお願いしたい。まず最初に、黒い雨の広島県の連絡協議会の事務局長である牧野一見さん。43年にわたる、この運動を当初から担ってこられたお一人です。この判決を勝ち取るに至った中身と経緯をお話しいただきます。
広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会事務局長の牧野一見さん:
こんにちは。牧野一見です。本日は発言の機会をお与えいただきありがとうございます。私は、国が原爆黒い雨降雨地域を被爆地域に指定した1976年には佐伯郡湯来町(現在の広島市佐伯区)の日本共産党町会議員でした。その時以来、住民とともに被爆地域拡大を国に求める運動に参加し、広島県黒い雨・自宅看護原爆被害者の会連絡協議会(2004年に現在の団体名に改称。以下、黒い雨連絡協)の結成に参加し、その役員の一人として運動を続け、裁判では原告・弁護団とともに、原爆黒い雨訴訟を支える会の共同代表として活動してきました。
以下に、住民運動の経緯について報告します。国は1976年9月に、広島原爆の黒い雨宇田降雨図の大雨地域を「健康診断特例区域」に指定しました。この制度は、指定地域にいた人に健康診断を国費で受診できる健康診断受診者証を交付し、11種類の疾病のどれかを患っていれば、医療費を国費で負担する被爆者健康手帳に切り替えることができる制度です。
これに対して、自分のところも降ったのに降雨図に入っていない、降雨図は正確でない、なぜ大雨地域だけの指定か、などといった意見が、自分の体験をもとにした声として急速に広がりました。そして、市町村長や議会には、指定地域の見直しを求める住民の請願書や要望書が出され、議会での論議や、首長・議会の県・国への陳情行動も行われるようになりました。黒い雨連絡協は、この住民の声と運動の中から、1978年11月に結成され、翌年には厚生大臣への陳情署名2万筆を携えて、29名が上京するなど、国や自治体への要求運動が始まり、以後、今日まで続けられてきました。
厚生省(当時)は、1980年に出された原爆被爆者対策基本問題懇談会答申の「戦争による犠牲はすべての国民が等しく受忍しなければならない」「被爆地域の指定は、科学的・合理的な根拠がある場合に限定して行うべきである」との方針を、被爆地域拡大の要求を拒否するハードルに使ってきました。黒い雨連絡協の要求交渉でも、議会の陳情でも、厚生省は回答の冒頭にこの方針を述べて地域拡大の要望を突き放してきました。
1984年以降、黒い雨地域拡大運動の展望が見えない状況が続いていた中で、1987年に、増田善信・元気象研究所室長が発表した降雨図は、住民の体験を科学的に裏付ける上で画期的な役割を果たしました。
増田氏は村上経行・黒い雨連絡協事務局長との約束で、自費で黒い雨降雨域の再調査を行い、暫定的な降雨図を1987年に発表し、さらに現地調査や、宇田降雨図作成に使われた資料も入手するなどして、最終の降雨図を1988年に発表しました。その雨域は、宇田降雨図の小雨域の約4倍の広さで、北は島根県境に及ぶもので、私たち黒い雨連絡協をはじめ、黒い雨被害者の運動と世論に大きな勇気を、厚生省の被爆者行政に衝撃を、与えました。当時の新聞やテレビなどでも大きくとりあげられて国民の関心が高まり、87年8月に来広した中曽根首相も、「科学的・合理的根拠があれば、指定地域を拡大するのはやぶさかでない」と述べざるを得なくなりました。
中曽根首相の発言を受けて、広島県と広島市は、1988年5月に黒い雨に関する専門家会議を設置して調査を始めました。そして1991年5月に出された調査報告書では、降雨域を、宇田図とほぼ同じ広さとし、結論は黒い雨地域における残留放射能の残存と放射線による人体影響を認めることができなかったというもので、厚生省の基本懇答申に迎合して、被害者の要求を切り捨てるものでした。
2000年の長崎原爆松谷訴訟での最高裁判決をはじめとする原爆症訴訟での相次ぐ原告勝訴判決や、広島救護被爆訴訟での原告勝訴と判決確定、裁判での増田善信氏、矢ヶ崎克馬氏、沢田昭二氏などの科学者の証言が、黒い雨の地域拡大運動にとっても科学的論拠となり、追い風となりました。3名の学者の主張は、黒い雨やちり・ほこりが政府の指定地域よりも広範囲に降下したことや、それらを浴びて内部被曝したことでの人体への影響を認めるもので、救護被爆者訴訟での原告勝訴や原爆症の認定基準見直しにつながりました。黒い雨連絡協は、発行した冊子でもその論文を紹介して普及し、国や広島市・県にもその知見や判決内容を尊重するよう求めてきました。
2002年に長崎原爆では爆心地から12キロの同心円内で被災した人に、第二種健康診断受診者証、体験者手帳を交付する制度が制定されました。
同年、広島市は1万人を対象にしたアンケート調査を行い、その結果を2004年に発表して厚労省に地域拡大を要望しました。しかし厚労省は、「科学的調査とはいえない」と却下しました。黒い雨連絡協は、国の態度を批判するとともに、広島市・県に再調査を要望してきました。
2008年に広島市が実態調査を行うことになり、黒い雨連絡協は広島市・県と幾度も交渉して、調査内容についての提案を行いました。
一つは、調査が第二種健康診断受診者証制度を要望する内容になっていたので、第一種健康診断受診者証制度の地域拡大を要望するものに変更するように求め、広島市の担当課は質問項目の一部修正などに応じました。
二つ目は、調査が広島市域だけになっていたため、安芸太田町や北広島町を県の調査で行うよう求め、県の担当課は議会との関係で困難と言いながらも予算を組み、調査をしました。交渉中に広島市の担当課長が、宇田降雨図が正しいと回答したために、黒い雨連絡協は、湯来町と可部町綾ヶ谷でそれぞれ被害者約40人参加の集会を開いて、証言を聞いてもらった結果、「認識が変わりました」と課長が回答する一幕もありました。
この調査は約4000万円の予算をかけて行われ、原爆や黒い雨体験の有無と体験内容、心理的健康状態、現在治療中の病気などを聞くアンケートを約3万6000人に送り、2万7000人から回答があり、そのうち71歳から80歳の回答者869人には面談もして聞き取りも行われました。2010年に発表された調査結果では、住民の証言をほぼ反映した国の指定地域の6倍の広さの降雨図、大瀧図が作成され、未指定地域住民は被爆者に匹敵する健康不良状態にあるとの報告書が出されました。
2010年3月、日本共産党の仁比参院議員が、予算委員会で、長妻厚労大臣に指定地域の見直しを迫り、広島市・県の調査報告書の検討会の設置を約束させました。7月には県と大瀧降雨域内の3市5町の首長が連名で、全降雨域を健康診断受診者証の指定地域にすることを求める要望書を政府に提出し、市町の議会も意見書を提出しました。黒い雨連絡協は、代表12名が6350筆の署名を持参して厚労省交渉を行いました。2010年12月、厚労省は広島市・県の実態調査報告書を審議する検討会を発足させ、12年7月まで審議しました。
黒い雨連絡協は、8回の検討会に毎回複数名の傍聴団を派遣し、事務局との交渉も4回行って、現地調査と被災住民の意見聴取を、原爆症・救護被爆訴訟の判決や証言を資料に、福島原発事故後の放射線被爆についての国民の知識に耐えうる判断を、など求めました。しかし検討会と事務局は、これに耳をかさず、広島の現地には一度も来ず、資料は残留放射能調査報告書や内部被曝を否認する学説など従来の政府見解に偏ったものばかりでした。また8人構成の検討会には、気象学者や放射線物理学者は一人も含まれておらず、毎回の会議で欠席者があり、とても被爆者の立場に立った論議が望めるものではありませんでした。その結論は、「広島市・県の調査結果では、降雨域の確定は困難であり、放射性降下物が存在した根拠は見出せず、放射線による健康影響の根拠とならない」と、被害住民と県市町の両方を否認するものでした。
2011年6月16日、松井一実広島市長が被爆者との面談の際、「黒い雨とかなんとかでわしゃあ被爆者じゃけえ医療費まけてくれとかね、広げてくれとかね、悪いことじゃないんですよ。でも、死んだ人のことを考えたらそんなに簡単に言えることかと思いますけどね」と発言したことが新聞報道されました。私たちはこの発言を、黒い雨連絡協への不当な攻撃ととらえ、その日に抗議文を持って市役所に出向き、市長の面会を求めました。
抗議文では、「この発言は同じ原爆被害者を死者と生存者に分断して、生存者に我慢を押し付け、国際法違反の核兵器を使用した米国政府と戦争を長引かせた日本政府を免罪する逆立ちした議論であり、ヒロシマの心がわからない」「首長失格の発言と言わざるを得ない」と、その発言の撤回と謝罪を求めました。
日本被団協も、「広島市の市長の発言とは信じ難い、非情な見識のない発言。全国の被爆者は満身の怒りを込めて撤回を求める」との談話を出しました。広島市議会の3つの会派も「上から目線の発言は許しがたい。心からの謝罪を」などと抗議文を提出しました。しかし市長は黒い雨連絡協とは面会せず、部長が面会して「申し訳ありません」と答えるだけでした。その後の報道陣の取材にも、市長は「撤回の必要はない、趣旨を理解してもらえずムッとしている」などと発言しました。
黒い雨連絡協は、厚労省の検討会の結論が出た後の広島市・県との交渉の中で、広島市担当課が「他に有力な調査方法が見当たらない」と回答したこともあり、もはや要求実現のためには司法の場で闘うしかないのではないかと考え、被団協事務所を通じて紹介してもらった法律事務所に相談しながら、役員会で訴訟についての検討を続けました。そして2014年10月に、黒い雨連絡協の総会である臨時の代表者会議を開いて集団訴訟の方針を提案して承認を得ました。20名の原告団を組織する目標で準備を始め、地域の会ごとの説明会を行いました。原告登録者は、14年12月末で20名を超え、陳述書や被爆者健康手帳の申請書作成には、大学生ボランティアなどの支援も受けるなどして、2015年3月の手帳申請者は42名になり、同年11月4日の広島地裁への集団訴訟提訴では64名が訴状を提出、その後も増えて原告は88名に広がりました。
「黒い雨訴訟を支援する会」が提訴と同時期に結成され、毎回の法廷を満席にするための傍聴や22回のニュース発行と会員への送付、訴訟費用の援助などで黒い雨訴訟を支えてきました。
弁護団は、同じ被爆者援護法1条3号の解釈をめぐる裁判である救護被爆訴訟で2009年3月に原告全面勝訴の広島地裁判決を勝ち取り、市長の控訴断念で原告7名全員に被爆者手帳を交付させた実績のある弁護士5名を含めた8名の強力な布陣で構成されました。
以上で私の発言を終わります。ご静聴ありがとうございました。
難波:
43年にわたる運動を報告していただきました。訴訟を起こしたのが6年前ですから、それまでの長い道のりを経た上で、今回の判決にこぎつけたということになります。続いて、その訴訟の弁護団事務局長の竹森雅泰さんから基調報告をいただきたい。今回の判決、昨年は広島地裁で勝訴、今回高裁で勝訴確定。その判決の意義、それから法廷闘争をどのような考え方で組み立てて行かれたのも聞きたい。
黒い雨集団訴訟弁護団事務局長・竹森雅泰さん:
こんにちは。黒い雨訴訟の弁護団事務局長の竹森です。まず、先ほど牧野さんから話がありましたように、2015年11月4日に64名の形で集団訴訟を起こしたということになります。前年の2014年くらいから、牧野さん、高東さん、亡くなられた松本正行さんなど主だった方々と、どういう風にこの裁判を闘っていくかについて話し合いをしてきました。何を求めるかという話なんですが、弁護団としては、話を聞いて、これは被爆者援護法の1条3号の被爆者にあたる、ということで請求を立てようと考えました。
なぜそう思ったのか、ですが、先ほど牧野さんの話でもあるように、もともと黒い雨の地域というのは、宇田雨域のうちの大雨地域を第一種健康診断特例区域に指定して、そこにいた人には第一種健康診断受診者証を配るというものです。で、障害を発症したら被爆者健康手帳に切り替わるという制度をしていました。大雨地域の外の人が原告になっているわけですが、そう考えると、雨域の指定の仕方がおかしいと。今までの運動の経緯を考えると、「大雨地域だけじゃなくて宇田雨域の小雨地域も含まれるべき」だとか、あるいは「我々が主張した大瀧雨域、あるいは増田雨域まで広がるべき」だと、雨域の地域範囲だけを争うということかなと、牧野さんは思っておられたと思うんですが、我々は、「いや、これは直接3号だ」と判断しました。
なんでそう考えたかというと、被爆者援護法1条3号は、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受ける事情の下にあった」となっています。1号の直爆、2号の入市、それ以外に、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」と規定しているので、黒い雨の雨域の人たちは直爆でも入市でもない、そうすると3号だろうというのが素直な考え方だろうと判断しました。
3号については、先ほどもありましたが、救護被爆者訴訟(3号被爆者訴訟)で判決を得ています。2009年3月25日の広島地裁判決です。この広島地裁判決が3号をどう解釈したかといいますと、「最新の科学的知見を考慮した上で個々の申請者について、身体に放射線の影響を受けたことを否定できない事情があるかないかで判断すべき」だと。今回の黒い雨の高裁の判決は、表現が微妙に違いますけども、結局この広島判決を見習ったというところだろうと思っています。
この文言を素直にとらえたら、黒い雨にあった人たちも、当然身体に放射線の影響を受けたことを否定できない事情にあったと考えられると判断しました。
というのは、先ほどから言っていますように、大雨地域にあった人に第一種健康診断受診者証を配って、11種類の障害を伴う疾病を発症すれば402号通達に基づいて3号被爆者とみなす、ということで、少なくとも大雨地域にいた人については3号被爆者になると言っているわけです。ちなみに、大雨地域の人を3号とみなすということは当然、黒い雨に放射線微粒子が含まれていて健康被害の可能性があるということを前提としていると考えました。
じゃあ、雨域の問題はどうなるんだということなんですけど、結局、大雨に限っていることが問題なんだと。つまり、宇田雨域の小雨はもちろんですけど、先ほど牧野さんからの説明でもありましたように、増田善信先生の増田雨域、それから大瀧慈先生の大瀧雨域、という研究成果があるわけですから。宇田雨域に限られるということはないということは明らかだろうと判断しました。
したがって、主な争点としては、黒い雨に微粒子が含まれていて今の制度があるわけですから、あとは大雨に限定していることが妥当なのかどうか。つまり、放射性微粒子を含む黒い雨がどこまで降ったのか拡散したのかというこの降雨域の範囲が問題となる。これについても、大瀧雨域や増田雨域の研究成果があるので乗り越えられると判断して訴訟を起こしたわけです。
健康診断受診者証の範囲がおかしいんだという部分は訴訟しなくてもいいのでは、という意見を私は申し上げましたけど、ここは、今までの運動との連続性とかもありますので含めるべきだという意見が、弁護団内でも、もちろん運動の方からも、ありまして、じゃあその二つを申請して、二つとも却下してもらって訴訟をしましょうとなって、訴訟を起こしたわけです。
これが一つですね。請求の立て方をどうするかが裁判をするときに大切ですから、我々としては、被爆者健康手帳の請求と、健康診断受診者証の請求の2本立てでやろう、ということにしたということです。
じゃあ、黒い雨被爆者が3号の被爆者だということを、どう主張立証するのか、というのが問題になるわけです。これは先ほどから出ている救護被爆の弁護団、私もその一員でしたが、これの経験を踏まえて判断しました。
この判決はどう言っているかというと、3号の解釈は先ほど述べた通りなんですが、「救護・看護の方たちが被爆者と該当するための基準、これは、現在の科学的知見を踏まえると、救護所など負傷した被爆者が多数集合していた環境の中に相応の時間止まった者は、実際に負傷者に対する救護・看護活動をしたか否か、あるいは負傷者に対する救護・看護活動をした者に背負われたり、そのような者と一体となって行動したか否かに関わりなく、救護所等に立ち入らなかった者に比して優位に原爆投下を契機として生じた放射性物質を体内に取り込む危険性が大きかった者と言える」と。そして、上記のような放射性物質を、少量であっても体内に取り込めば内部被曝特有の集中的かつ持続的な電磁作用が働くことにより発がんなど遺伝子の突然変異に起因する身体影響が生じる恐れが高くなることは否定し難い。そうすると、「原爆投下からまもない時期に負傷した被爆者が多数集合していた環境の中に相応の時間止まったという事実が肯定できる者については、身体に放射線の影響を受けたという事情が否定できないというべき」と判断したわけですね。
要するに、救護・看護で直接被爆者に触った、接触したかどうかではない。多数被爆者がおられた環境に相応の時間とどまれば放射性微粒子を体内に取り込みますよね、と。そうすると、身体に放射性の影響を受けたことは否定できませんよね、ということで勝訴しているわけです。
これを黒い雨に類推すれば、要するに放射性微粒子がありますよね。それを体内に取り込むことによって内部被曝をするような状況にありますよね、ということを主張立証すれば、必要かつ十分。それ以上、例えばこの人はどれくらいの線量の被爆だとかいう話をする必要はない(理屈上も線量は出せないはずですし)と判断したわけです。そういう外形的な事情で、内部被曝をする可能性があるということを言えば十分だということを、3号被爆者の経験として持っておりました。
これを黒い雨の被曝類型にどう当てはめるか。要するに黒い雨に放射線微粒子が含まれていますよね、と。その黒い雨がこの範囲で降りました、と。そうすると人体への影響があります、ということを総論的に主張する。それで各論的争点としては、ここの原告の皆さんが1945年8月6日の当時にどこにいたのかと。どういう風に黒い雨が降ってきて、どういう風に濡れたり、あるいは生活しておられたのかを立証していけばいいと。要するに、1945年8月6日に黒い雨降雨域に居住し、黒い雨によってもたらされた放射性微粒子を浴び、もたらされた放射性微粒子に汚染された畑のものを食べたり、川の水を飲んだり、あるいは汚染された空気を吸引することで放射性微粒子を取り込み被曝する状況にあったということを主張立証していったということになります。
で、高裁の判決がどうだったかということなんですが、3号の解釈は先ほどの3号被爆者の広島地裁判決とほぼ同じような判断をしています。つまり、原爆の放射能により健康被害が生じる可能性がある事情の下に置かれていた、というのをさらに趣旨を明確にして言い換えると、原爆の放射能による健康被害が生ずることを否定することができない事情のもとに置かれていたのだと解釈すべきだと言いました。
これは、その被爆者援護法という法律が、原爆投下の結果生じた放射能に起因する健康被害が特殊で、その特殊な健康被害については戦争遂行主体である国の責任によって救済を図る、という国家補償的配慮がある。これは最高裁の孫振斗判決で言っていることを確認しています。
さらに、被爆者に対する健康管理と治療のために制定された法律なんだと。要するに、病気を発症している方だけじゃなくて、いつ発症するかわからないという不安を抱えている方に、被爆者健康手帳を配って、健康診断を受けてもらって、発症してしまった場合は治療してもらって、というのが被爆者健康手帳の制度なので、発症する前から健康被害を生じることが否定できないような方については被爆者と認めて救済すべきだという制度。元々の制度がそうなっていますので、そういった法的性質とか理念を踏まえた解釈をしました。
続いて3号の該当性を裏付ける立証の程度をどうするのかということで、これについては、特定の放射線の暴露態様のもとにあったこと、そして当該暴露態様が原爆の放射能による健康被害が生じることを否定することができないことを立証することで足りると。科学的知見というのは、そういうような観点から用いるべきだと言いました。ここについては、国側は、科学的知見による高度の蓋然性の立証ですね、通常の民事の損害賠償や原爆症認定なんかは高度の蓋然性の立証がいると言われてますけど、それと同じようなことを被爆者認定でもすべきだと国側は主張していたわけですが、それは違うと。疾病の発症の不安に怯える被爆者に適切な健康診断を行うことによってその不安を一掃するという法の理念を踏まえて、被爆者の認定にあたっては「疑わしきは申請者の利益に」という方針で臨むべきことを明らかにしたと言えると思います。
それから、広島原爆投下後の黒い雨にあった方たちが3号にあたるか、ということですが、これについては、原爆投下直後から現在まで集積された調査報告等の科学的知見を踏まえれば、ゆうに、広島原爆投下後の黒い雨という暴露態様は、黒い雨に放射性降下物が含まれていた可能性があったことから、黒い雨に直接うたれた者はもちろん、たとえ黒い雨にうたれていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸引したり、地上に到達した放射性微粒子が混入した飲料水、井戸水を飲んだり、地上に到達した放射性微粒子が付着した野菜を摂取したりして、放射性微粒子を体内に取り込むことで内部被曝による健康被害を受ける可能性がある者であった、すなわち原爆の放射能による健康被害を生ずることを否定することができない者であったことが認められると言いまして、救護・看護被爆の判決文と同じような感じですね、放射性微粒子を体内に取り込んで云々かんぬんということで、否定することができない事情にあったことが認められると言いました。
では、どこまで広がっていたかについてはですね、宇田雨域、増田雨域、大瀧雨域、いずれについても黒い雨が降った蓋然性が認められると。原告の皆さんはいずれか雨域のどこかにおられましたので、その地点にいたんだから黒い雨にあったということで3号に該当すると判断しました。
それから、健康診断受診者証との関係とも関連するわけですけども、11障害を伴う疾病の発症、これを昨年7月29日の広島地裁の判決は、黒い雨に暴露していたことと11種類の障害を伴う疾病の発症を要件として3号被爆者だとすると判断していたんですね。これは要するに、受診者証を持っている方が11種類の障害を伴う疾病を発症したら402号通達で3号被爆者とみなすと。こちらの制度の方から被爆者認定をしたのが地裁判決なんですが、高裁判決はそちらのルートを取らずに直接被爆者援護法1条3号の解釈から被爆者認定の仕方を導いたということになります。11種類の障害を伴う疾病の発症は要件から除外しています。要件としない。黒い雨にあっていれば健康被害の可能性があるということで認定しました。
結局これをどうとらえるかということなんですが、よくよく考えてみると、被爆者援護法1条各号に被爆者の類型があるわけですが、直爆(爆心から5キロ)、それから入市(原爆投下後2週間以内に爆心から2キロに入った人)。救護・看護(3号)は逃げてこられた被爆者を助けた人たち。これは、直爆であればその場所にいればいい、入市であれば後からその場所に入ればいい、救護であれば救護・看護していればいいということで、疾病の発症は要件としていなかったんですね。ところが黒い雨被爆者だけ、大雨地域にいた、プラス11障害の発症で被爆者だということで要件が加重されていた。大雨の人はまだいいんですけど、大雨の外の人たちは完全に援護対象から外されていた。
そういう意味で、今回の原告の皆さんは二重の意味で差別をされてきたわけなんですが、その二重の差別をすべて取っ払って、黒い雨の被爆者をまさにいわゆる被爆者と扱うべきだと判断したという意味合いがある。ということをとりあえず報告させていただきます。以上です。
難波:
ありがとうございました。この度の高裁判決の意味についてよくわかっていただけたのではと思います。続けて、メディアのサイドからお話をいただきたい。毎日新聞記者の小山美砂さんです。広島支局が多分初めての赴任地ではないかと思いますが、黒い雨問題の何をどのように伝えてきたかということを、反響も含めてお話しいただきたい。
毎日新聞広島支局記者・小山美砂さん:
毎日新聞の小山と申します。よろしくお願い致します。私からは「区域外の被爆者を訪ねて」というタイトルでお話しさせていただこうと思います。先ほどご紹介にもあった通り、5年前に入社し、記者生活を広島で始めています。黒い雨の問題はこの2年間やってきて、これまでに支援者と当事者の方合わせて、のべ70人ぐらいとお会いして考えたこと、見えたことをお話しさせてもらおうと思います。
私の黒い雨取材は何から始まったかというと、反省から始まっています。実は最初から黒い雨に関心があったわけではなくて、記者1年生のときに出会った入市被爆者の女性の方が言われたんですけど、「直接被爆者の夫のほうが私よりひどかったのよ。私は入市だから原爆の光とか音っていう言葉を知らないの」という言葉を言われまして、私はそこでなるほどと思ってしまって。原爆の、いわゆるピカドンの光とか音っていうのが、伝えるべき被爆の実態、学ぶべき被爆の実態なんじゃないか、と思って。黒い雨はピカドンを経験されていない方ばかりなので、私が取り組むべき問題とは対岸にいる方たちのように思えて。実は記者2年目、もう3年、4年前から実は黒い雨訴訟の担当、裁判担当としてやっていたんですけれども、1年半ぐらいずっと真面目に取材していなかった経緯があります。
その私がなぜ変わったのかというと、2019年9月、もう地裁の審理が終盤になってきた頃なんですけれども、裁判長の求めによって、原告の皆さんに「医師の診断書を出してください」ということがありまして、弁護団の指示で取り寄せたところ、連絡を取れなかった1人を除く、当時でいう原告84人全員の方が、原爆放射線の影響を否定できないとされる11障害を伴う病気を患っていたことがわかりました。これ、先ほど竹森先生のご説明にあった通り、健康診断特例区域という大雨雨域にいたら被爆者になれるという病気を、原告のみなさんが患っていた、そこに私衝撃を受けて、これ実は、内部被曝の影響じゃないかと思って。ろくに取材もせずに黒い雨はピカドンを知らないから被害として軽いとか、真面目に取り合ってこなかったことをすごくこの時に反省して、以前広島に赴任していた先輩が「黒い雨は広島で置き去りにされた最後の問題やで」といっていたこともすごく私の中で響いて、これはちゃんと自分の目で見て確かめなあかんなと、そこから、原告とか原告になれなかった黒い雨被爆者の方を訪ね始めました。
現場を歩くしかない、とにかく会ってみようと、2年前の秋、ちょうど9月から始めました。ここにある通り、「朝日も夕日も知らないような谷底」というような表現は原告団長の高野正明さんがよくおっしゃるんですけど、行ってみると、黒い雨の人たちって平地じゃなくて山に囲まれた本当に小さな集落に住まれている方が多くて。皆さんが黒い雨をあびたというところから爆心地の方向を望むと、だいたい山に阻まれている。そこがすごく、心理的な距離感や閉塞感をすごく感じさせるなあと感じました。
例を二つあげると、ここが爆心地から約15キロの安佐北区の可部町なんですけれど、ちょうどこのあたりからキノコ雲がのぞいたと。だから爆心地の方向は見えないですよね。でも、そこを、この山も飛び越えてきたんだという臨場感も感じました。で、こちら、右下の方は爆心地から北西に約20キロ離れた、牧野さんがいらっしゃる湯来町っていうところなんですけれど、ここ有名な場所で、この川がちょうど援護対象区域を分ける線になっていて、左側が援護対象、右側が援護対象区域外となっていて、こちら側に原告の方が住まれています。爆心地はこの山の向こう側にあって、この上からキノコ雲が見えたんだと。で、灰とかが飛んできたとおっしゃいます。ここはすごく線引きが象徴的であるのと同時に、爆心地の方向が見通せないという意味で、黒い雨の特質を表す場所だなと思っています。でもすごくきれいですよね、私はすごく好きな場所なんです、湯来町。
訴えを聞くと同時に伝えていこうと思って、広島版で「区域外の被爆者を訪ねて」という連載を始めました。あえて踏み込んで、区域外の「被爆者」としました。やはり、私最初は黒い雨「体験者」という県と市が言っていたんですけど、竹森先生が「いや、彼らは被爆者なんです」と取材を始めた当初に言われて、その反省から。彼らは被爆者なんだと。それを確かめる旅なんだということで、「区域外の被爆者を訪ねて」という連載を始めました。
ここでは会った人のお話をどんどん取り上げていくんですけれども、その中で共通した訴えをあえて三つに分類できるとしたらこれかなと思います。
まず一つ目が、線引きへの憤り。牧野さんの話でもあったと思いますが、大雨雨域、卵型なんですけど、そんな卵型に雨が降るわけないとか。川を隔てて雨の量が変わるんかというか、そうした怒りの声。
そして二つ目が、やはり健康被害ですね。幼い頃からすごく病気がちの人生を送り、黒い雨の影響ではと不安に思ってこられた。私の興味関心を引いたのは、結構病院で、お医者さんに「これは被爆者の症状ですよ」「あなた原爆に遭いましたか」と聞かれたりしている。で、そのことはすごく自分の健康不安とか黒い雨に対する恐怖というものに拍車をかけているとか、そういう特異な経験をされているなとも思いました。
三つ目が、私がすごく自分ごとととらえるきっかけにもなった言葉なんですけれども、このまま、国が定めた援護対象区域外で雨を浴びたんだという事実が消されてしまうと、黒い雨の被曝がなかったことにされてしまうという恐怖感、危機感を持たれている方が多くいらっしゃいました。だから歴史に残したいという訴えですね。
その一方で、黒い雨が、軽視されてきた原爆被害かなということも見えてきた。例えば、ある原告の男性は、「雨を浴びたくらいで何もあるまあ、影響ないよ」と思ってきた。で、原告に加わらなかったある女性は、お兄さん3人直爆でひどいやけどでがんになって亡くなっていて、自分もいろんな病気しているけど、黒い雨くらいで手帳欲しいなんていうべきじゃないと思ってきた、と。そうした、当事者自身が黒い雨の影響を打ち消してしまうということがあるんだなあと思いました。
お医者さんや研究者も、やはり目に見えない被害に時間を割く余裕がなかった。ケロイドや障害を負った被爆者が多くいるから。で、やはり放射線ってものが何がわからないから、まずは高線量の被爆者の研究にプライオリティが置かれたんだっていう経緯も聞くことになりました。
で、これは、アメリカが残留放射能の影響を否定してきた歴史的な経緯とかもありますが、自分自身が黒い雨を軽くみてきたことと、社会の雰囲気がすごく重なってきたんですよね。半年ぐらい経ってくると。なんでそんなに黒い雨やってるの?みたいなことをシンポジウムの前に聞かれたが、ここかなと思います。自分自身が黒い雨を軽んじてきたこととこれまでの経緯がすごく重なって、なんか申し訳ないと思い始めたんですよね。軽んじてきたことが。ただ、現場を歩くことで内部被曝、みなさん被爆者だと確信したし、その上で自分自身の反省を表すという意味でも軽んじられてきた黒い雨の歴史を覆したいっていう思い、いわば反省文のつもりで私は黒い雨の記事を書いてきました。
これは地裁判決の3日前に出した全国版の記事です。
黒い雨や内部被曝の影響がずっと無視され、軽んじられてきたっていう記事を出したんですけれど、これに対する反響がすごくて私にとっての転換点の一つになりました。
特に反響がすごかったのが、福島原発事故を取材しているフリージャーナリストの方とか避難者の方とかから「これは福島と共通している問題だ」という反響をいただくようになり、原爆の記事ってそんなにネットで読まれることってないんですけど、この記事と1面に出した記事は弊社のネットアクセスランキングで10位に入るくらい注目されて。やっぱり黒い雨はすごい福島からも注目されていて、大事な問題だと思われている方がたくさんいるんだなと身を持って体験した。
その3日後に地裁で全面勝訴しました。その頃から、SNSを通して福島の方とかから「自分のことのように思いました」というような反響が届くようになり、その後、二つ目ですが、福島原発事故の避難者団体やあるいは伊方原発の差し止め訴訟の皆さんを中心に、国に従って県市が控訴してしまったのでその取り下げを求める動きが起きて、最終的に国内外の104団体が取り下げろということに賛同してくれるようになりました。すごい広がりだなと驚きました。
で、じゃあ次に私は何をしようかというと、黒い雨と福島はつながっているんじゃないかと思ってきて、私はやっぱり自分が現場を歩いたことしか信じることができないので、次に私が確認すべきことはここだと思って、特に地裁判決の後は、黒い雨が福島からどう見えているのか、あるいは黒い雨の人たちは福島をどう見てきたのかにフォーカスして取材をしてきました。
この記事は、娘さんが原発事故で被災し、広島に避難してきた黒い雨の原告の女性で、原発事故を機に黒い雨の体験を語るようになっています。
その中で、福島の方にも黒い雨の問題をどう思うかということをたずねてきたが、やっぱり共通している被害があると思って。例えば、被害者を一方的に線引きする理不尽さとか、内部被曝の影響が過小評価されている。そして、国あるいは科学が住民を助けるために作用していない。影響があるかもしれない、わからないけど安全ですみたいな。影響があるかどうかわからないものを私は助けるべきだと思うんですけど、切り捨ての方向に行ってると感じました。
その意味で、黒い雨と福島って同じ構造にあるんじゃないかなという気がしています。だから福島と黒い雨がすごく共通したものに見えてきた。
これは今年の8月6日の社会面の記事ですが、この男性は、過去に調べられた三つの降雨域、宇田、増田、大瀧雨域の外側で雨を浴びた男性です。
だから原告以外も救済するって菅さんは言いましたけれど、何かしらの科学的な調査、どこかで線引きをしたがるんじゃないかなと思って。でも線引きの外にも被害者がいるかもしれないんだよ、ということを言いたくてこの方の話を書きました。
やっぱり放射線の被害って、どこまでが被害なのか、誰が被害者なのかっていうことを定義するのがすごく難しいのと同時に、76年も経っているのに誰が被害者なのかという議論に終止符を打てない、このこと自体が重大な被害なんじゃないかなと思っています。この方は、放射線の被害は線引きできんとか、線引きする人には僕の気持ちはわからんじゃろ、ということを涙ながらにおっしゃっていたんですけれども、この記事を書くときに私は福島原発事故のことも思いながら書きました。だから強制避難区域外の人は差別的な扱いを受けていると思いますけど、やっぱり放射線の被害って線引きできないよね、ということが私は黒い雨の取材を通して思ったことです。
ただ、さっきも申し上げた通り、被爆の切り捨ては続いているんじゃないかなと思っています。首相談話でも内部被曝の影響はすごく否定されましたし、国の援護のあり方も、福島に引き継がれていると思っています。先ほど竹森先生もおっしゃいましたけど、疑わしきは申請者の利益に。どこまで行っても、私は黒い雨被爆があったと私は確信していますけれど、この方が被爆したんだという証明っていうのは難しい問題だと思うんです。ただこの方は影響を受けているかもしれない。そういう意味で影響が疑われる方は救済するという立場に立つことが放射線被害と向き合うときの基本的な姿勢だと思いますし、その姿勢に立ち返ることが、福島なり全ての核被害者を救済するための鍵になるのでは、と。黒い雨訴訟はむしろそこを訴えてくれていると思っています。
ただ、わかっていることも、影響があるというところもあるので大瀧先生にバトンタッチして私のお話を終わりたいと思います。
難波:
小山さん、ありがとうございました。取材する人間としての思いが、判断、取材を通してどのようにできていくのか、とても身近に感じられるお話でした。4人目の最後のパネラーは大瀧慈(めぐ)先生。宇田雨域とか増田雨域とか大瀧雨域という話があったと思いますが、その大瀧雨域の大瀧先生であります。大瀧さんからは、科学者・研究者の立場からみた黒い雨判決、放射線が人体に与える影響を司法がどこまで認めたかということと、放射線の人体影響をめぐる様々な問題点も提起していただきたいと思います。
広島大学名誉教授の大瀧慈さん:
私の今日のお話は、放射性微粒子が黒い雨被爆者の放射能による健康被害の黒幕であり本質であること、それにより内部被曝が生じたこと、それらに関して科学的解析により明らかにしてきたことについて紹介したい。これは私が1年半前に撮った写真です。緊急事態宣言が最初に発表された直後で人っ子一人いない、珍しい写真です。
放射線の健康被害を論ずるとき、どういった場合に放射線の影響を受けて、健康被害を起こしているかが問題になりますが、そのほとんどの場合、線量の高低が議論の対象になっています。特に科学者というのは客観的基準を重要視する職業病みたいなものがありまして、常に線量がいくらとか、その健康影響のどの程度なのかと。それまで、というか現在もそうですが、その場合に使われる線量とは何かというところから考えて必要があるわけです。
現在使われているのはDS02という線量評価システムです。それは、その前身であったDS86の改善版です。DS86というのは原爆の初期放射線による線量評価システムで1986年に導入され、原爆投下時に爆心地から2500メートル以内にいて、遮蔽されていなかったか、または日本家屋などの木造建築物によって遮蔽されていた被爆者のうち、詳細な遮蔽歴を得られている人全員を対象として定められたものです。その後、2003年に大気中の水蒸気による遮蔽効果などが取り入れられ現在も使用されている線量評価システムとしてDS02というものに更新されましたが、DS86の場合と同様、残留放射線などの間接被曝由来の線量は軽微とされ、無視されております。
そのDS02ですけども、半減期が2.2分と非常に短い核種であるアルミニウム28という放射性核種とか、半減期が2.6時間のマンガン56のような放射性核種の寄与が無視されているという問題を持っています。これらの放射性核種は、原爆炸裂直後に大量に生成されていたはずのものですが、DS02にはまったく反映されていない。いわゆる直接被爆者ですら、大量の放射線微粒子被曝を受けていたのに、まったく考慮されていない状況に陥っています。
アルミニウム28やマンガン56といった短い半減期であるがゆえに物理学的に測定できなかったものが見逃されてしまっている。だから、あとで研究者とかアメリカ軍とかがいろんな立場の人が爆心地付近を中心に残留放射能を計測したにもかかわらず、調査時点でそれらの寄与による放射能はすでに消失してしまっていて、後の話だったのですね。
ただ、ほとんど唯一に近い例外が安定型染色体異常、染色体の異常の中で長く細胞の中に残ることができるタイプの染色体の異常に残っている痕跡を対象にして、生物学的に被爆線量を推定できることが知られています。もう一つの例外は、歯のエナメル質も受けた放射線の痕跡が残っていることを利用した線量測定方法があります。
その一方で、疫学的事実としての残留放射線の健康障害については、於保源作という広島の町医者が、自分が見ていた患者からピカにあった後の行動の仕方、行動様式で健康被害が大きかったりそうでもなかったりというように、ピカの瞬間ではなくその後の行動が大きく影響しているということを1957年に論文で報告されています。
それで、DS02というのは一言で何が問題かというと、“ピカ”しか被爆放射線の対象として、計測対象として認めていないということなのです。その結果、ヒト(被爆者)とケージの中に閉じ込められたマウスとを同一視して被爆線量を推定してしまっている。人はいろんなことを考えていろんな状況で行動する。いろんな考えのもと、被爆した瞬間、その直後、状況によって行動が変わってきているのですね。マウスとかラットとかそういった動物との違いがそこにあるわけです。
原爆が投下された、炸裂した直後の写真とか、翌日の写真とか色々見るとたくさん写真があります。見ますとたくさんの微粒子ですね、放射線とは言えないまでも、もちろん放射線を含んだ微粒子が街全体を覆っていたということが、この写真からわかります。
よく、キノコ雲というのは高さが問題にされていますが、雲頂の最高高度は1万6000メートルに達していたらしいということを今から11年前に広島市立大学の馬場先生が発表されています。一方、キノコ雲に伴って発生した地上付近での雲のように見えるエアロゾルの水平方向の横の広がりは、爆弾炸裂の2、3分後には直径が5キロぐらいまで広がっていることが知られています。その後、東~南よりの風に流されながら、雨を伴ったほこりやちりとなって周辺部に拡散していったとものと思われます。
これは健康被害の方ですが、そのうちの急性症状について調査した結果を地図として示したものであります。広島大学のデータです。赤いマークは急性症状の既往歴ありの人に関するもの、青いマークは急性症状の既往歴無しの人に関するもので、それぞれ被爆時所在地をプロットしたものです。爆心地から半径2.5キロの近傍を中心にその内部では赤マークが目立っていますが、その外側、即ち2.5km以遠の所でも所々赤いマークの人が結構あるということですね。
これも疫学情報なのですが、放射線影響研究所(放影研)が2017年に発表した、Radiation Researchという論文で発表した原爆被爆者の寿命調査研究(LSS)に関する研究結果で、固形がんの超過相対罹患危険度が縦軸です。
横軸がDS02による線量で、固形がん罹患危険度のDS02を被爆線量とした線量反応関係を示したものです。この図より、男性はこういうふうに少し下に曲がりながら上がっている。女性はほとんどまっすぐ。以前の放影研での同様な論文では、固形がん(死亡)危険度の線量反応関係は男女とも直線的だったのですね。それが、最新の研究結果では、女性が直線的なのに、男性では下に凸な曲線になってしまったということで、「どうも解釈がうまくできない」と放影研の研究者は頭を悩ませているのです。
この問題は、残量放射線の影響の存在を前提に検討すると、容易に説明が可能です。それは、固形がんによる罹患の危険度というのは、初期線量だけじゃなくて放射性微粒子とか残留放射線の影響を受けた結果であるはずです。一言で言うと、男性の方が、“ピカ”の直後に爆心地に近いところとか、少なくとも被爆した地点の周囲に長く滞在した傾向が強いということです。女性は子供とか老人とかを連れて、できるだけ速やかに避難しようとした傾向がある。その結果、男性は爆心地からの距離依存性が少なくなり、初期線量依存性も少なくなったと思われます。初期線量(DS02)の影響しか考えていない放影研の研究者たちでは説明出来ない状況があったということです。
次は、被爆者の染色体異常についてのお話です。これも放影研が発表した結果ですが、2001年にRadiation Researchで発表された研究結果です。
横軸が線量(DS86)ですね、この場合は。縦軸が染色体異常を持つ細胞の頻度(染色体異常の起こりやすさ)と考えてもらったらいいです。左側が広島で、右が長崎です。実線の方は、“ピカ”の時に家の中にいた人に関する傾向曲線、破線は家の外で被爆した人に関するものです。広島および長崎の双方とも、同じ線量でありながら、家の中で被爆した人の方が、外で被爆した人に比べて高い頻度で染色体異常が起こっているということが示されています。長崎に比べて広島の方が高いというのも一目瞭然でわかります。同じ線量でありながら、比べても広島の方が高い。さらに奇妙なことに、同じ線量でありながら、家の中で被爆した人の方が高い頻度で染色体が壊れていることも示されているのです。
その2001年から2年後に、どうも広島の被爆者の方が(被爆線量が同じ)長崎の被爆者と比べても染色体が高頻度で壊れているという原因や背景を検討する目的で、広島と長崎の原爆では、中性子線の割合が異なることに注目し、詳しい解析を放影研の別のチームで研究が行われました。従来から、中性子とガンマ線の生物学的効果比、物理的線量が同じであっても染色体異常がガンマ線によるよりも中性子による曝露の方が壊れやすいことが知られていましたが、物理線量(吸収線量)が同じであったとしても中性子の方がガンマ線に比べて生物学的に影響が強いという、その程度を表す指標を生物学的効果比(RBE)と呼ばれる指標ですが、その値がなんと707と言う推定値が得られたのです。20回に一回ぐらいの判断間違いを許すとしても、まあ、少なくとも200以上であることも推定されたのです。
つまり広島と長崎の違いを中性子線の割合の違いで説明しようとすると、物理線量が同じガンマ線に比べて、中性子の方が数百倍強い影響を与えていることになってしまうという結果が導かれてしまったのです。これに関する従来の知見との比較をすると、動物実験とか細胞実験ではどの程度のRBEの値である高くても20か30位でありますから、こんな数百倍というような値はとてもじゃないけど起こり得ない非常識な結果が得られてしまったということです。数百のオーダーのRBEを中性子線が持っているというのは、どう考えてもおかしいということですね。
それで、家の中と外で被爆した人の違いはどう説明できるのか。
同じ被爆線量の人をAとBにすると、Aの人の方がBの人より爆心地に近いところで被爆しているはずですよね。その理由は家の中で被爆している人の方が大きな遮蔽を受けているはずということです。近いところで被爆したということ。爆心地に近いところで被爆した人々は“ピカ”の直後に発生した多量の放射線微粒子に曝されやすくなっていたことや、安全な郊外へ避難するのにも余計に時間がかかったことはずです。
これに関しては、残留放射線の影響を考える上でオッペンハイマーの仮説を考え直すことが重要です。この仮説は、原爆はピカにあっただけで、その後の影響はほとんどないというもので、オッペンハイマーがアメリカの原爆投下前にアメリカ軍に原爆の影響を説明する際に用いられたという仮説です。
ところが実際は、どういうことが起こったかというと、爆心地を含む広い地域で放射線微粒子とか「黒い雨」が降り、そこにいろんな放射能汚染引き起こす原因が作られたということです。そのような事実を無視したDS02(今使われている線量)がいかに不合理であるかということですね。このスライドは、それを総合的に描いた模式図です。
原子爆弾が炸裂した直下には、多くの日本家屋があって、その土壁に含まれるアルミニウムやマンガンなどが放射化したことで多くの放射性微粒子が生成され、それが周囲に撒き散らされたということです。このスライドは、広島原爆炸裂後の「黒い雨」の降雨域を推定した時に作った降雨図です。
これは雨が降った領域を経時に示すもので、単に雨が降った状況が示されているだけでなくて、放射性微粒子が多量に含まれた大気の塊が時間とともにどう移動したかが分かる。このスライドは、「黒い雨」は放射線被曝の実態そのものではないですが、それが降った地域では多くの放射性微粒子が降り降りた可能性が高いことを示しています。
今後の課題をこのスライドに記してみました。公開されているデータが少ないこと、特に放影研は「被爆距離」の情報とか、「方角(爆心地から見てどちらの方角で被爆したのか)」とか、そういった情報が全く公開されていないことが問題であります。それから、広島大や長崎大の共同研究体制が整備されていないとも問題です。例えば、学外(私のような退職者も含む)の者が共同研究をしようとすると、現役の研究者との共同研究が成立しないと共同研究を申請出来ないシステムになっています。今回の私みたいに反体制側の立場から、何か新しい立場からやろうとすると、現役の学内の(実質的に教授クラスに限られる)研究者で賛同する人がなかなか現れてくれない、という状況に陥っており、実質的に共同研究ができないような状況になっています。以上のようなことであります。
(下)に続く