暴力を正義面で糺すより 底辺の現実を受けとめよ」(高村薫)
ある日突然、首相を2度務めた大物政治家が遊説中に街頭で銃撃されて死んだ—―参院選の投票日2日前の事件である。それから1カ月が過ぎた。『サンデー毎日』8月14日号のコラム「サンデー時評」で、小説家の高村薫さんが次のような文章を載せている。タイトルは「暴力を正義面で糺(ただ)すより 底辺の現実を受けとめよ」。
このコラムは、事件に関してこれまで多くのマスメディアが流してきた視点と明らかに違う。私は大いに共感し、銃撃事件と国葬の行方を、この視点で見つめ続けたいと思う。記事を要約して紹介する。(文責・難波健治)
(略)衆人環視の中で血が流れて人が死ぬような暴力は、誰にとっても非日常の圧倒的な直接体験である。そのため、さまざまなところで過剰な反応が起きる。すわ、政治テロか! 言論封殺だ! 民主主義の破壊を許すな! 一斉にメディアが走り、識者や評論家が走り、テレビ中継のアナウンサーが声を嗄(か)らす。▼
現場で身柄を確保された容疑者が、狙いは宗教団体であって元首相の政治信条は関係ないと供述していることが速やかに報じられたにもかかわらず、各政党の党首たちは揃(そろ)って遊説を取りやめて「民主主義を守る」と拳を振り上げ、言論(機関)はなおも、事件は民主主義の破壊だと声を揃え続けたのである。
(※難波注=私が当時の報道で記憶しているのは、共産党と社民党を除く他の党が、当日の遊説を一斉に自粛した)
(略)今回の事件を受けて日本社会は事件の本質とは異なるところで反応し、軌道修正がされないまま安倍首相は神棚に祀(まつ)り上げられようとしているが、私たちが見逃してはならない事件の要はこうである。▼
すなわち今回の犯人のような、親の入信で家族と自分の人生を破壊された宗教二世の存在は、こうした事件が起きて初めて社会の眼(め)にふれるのだということである。私たちの社会は貧困・宗教・病気などで疎外された人びとが這(は)い上がれる社会ではない。追い詰められて事件を起こして初めて、私たちはようやくその苦しみを発見するだけなのだ。
こうした底辺に注がれる政治の眼は冷たく、そもそも見ていないというほうが正しい。長く政権の座にあった安倍元首相の国会答弁の姿が何よりの証拠である。野党の質問をのらりくらりとかわしてまともに答えず、突っ込まれて逆切れし、薄笑いしながら野次(やじ)を飛ばす。国会での質疑は一字一句議事録に残り、後世に伝えられるが、そんなことは知ったことではない人が一国の首相だったのである。そして、国民の代表が集う国会でそんな答弁に終始した人の眼は、徹底して国民を見ていなかった。いわんや宗教二世の苦しみなど眼中にあったはずもないが、国民の苦しみに背を向け続けた人が国葬とは何の冗談かと思う。
疎外された人びとが這い上がれない社会では、孤独と絶望と暴力は必然である。それはときに通り魔事件や京都アニメーションの放火事件、精神科クリニックの放火事件といったかたちで社会の表に噴き出すが、私たちはそうした暴力を正義面で糾弾するよりも、そのつど垣間見えた底辺の現実を冷静に受け止めるのが先ではないか。政治が目を向けようとしない苦しみに、せめて市民レベルで関心を寄せることができれば、そのとき政治も変わるはずなのだ。(了)
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