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清流には、森が溶けている ~四万十川の森紀行~ その②

その①から続く

市ノ又の森

天然のヒノキ林が見られるという市ノ又風景林は、四万十川の支流・葛籠川(つづらがわ)の源頭部に広がっています。原生的な森あるあるですが、まあアクセスは悪い。

葛籠川の延長は約10km。川沿いの狭い林道を走り、森の入り口までアクセスするのですが、川の湾曲をなぞるようにして道がカーブを繰り返すため、次第に方向感覚が鈍ってきます。自分はいま、東西南北どの方面に向かって走っているんだ…。何回カーブを曲がっても、同じような山並みしか現れないので、「現在地が動いている」という実感が湧いてきません。

地理感覚があやふやになるほどの山深い地形なのに、周囲の山はずーっと二次林か人工林。こんな山奥の森にまで人の手が入っているのか…本当に、この奥に原生的な森が広がっているのか?
若干不安になりながら森の入り口に車を停め、しばらく歩くと、突如前方に巨大ヒノキが立ちはだかりました。

根上がり大将。根元の二股は、倒木更新によって出来上がったもの。

おお…なんじゃこりゃあ。樹齢約200年の天然ヒノキ、「根上がり大将」です。無数のシワが刻み込まれた樹肌が、旋回を重ねながら天に向かっていくさまは圧巻。「森の番人」という表現が似合います。

根上がり大将を通り過ぎ、そのまま森の奥へ進むと、天然ヒノキの群生が。樹齢200年を超えるであろう、ヒノキの大径木が何本も林立しています。これが、四万十川流域の本来の植生が残る原生林…。

尾根筋に生育していた、ヒノキの大木群。人工林のモヤシみたいなヒノキとは貫禄が違う。

ヒノキの森といえば、長野県の木曽ヒノキ美林が有名ですが、市ノ又のヒノキ林はあちらとは様相が異なります。木曽の美林は、ヒノキ一種が密生する”純林”(単一の樹種のみで構成されている森)ですが、市ノ又の森はヒノキの他にツガ、モミ、カシなどが生育する”混交林(さまざまな樹種が混じり合って出来上がる森)。

木曽でヒノキの純林が発達している理由は、江戸時代以前、同地の森でヒノキ以外の広葉樹の除伐が行われたため。直立するヒノキがずらっと整列する光景はなかなか見事ですが、あれは「木材の増産」という産業的な思惑から生じた、非常に人工的な森林景観なのです。

木曽の森(上)と四万十・市ノ又の森(下)。木曽では、ヒノキの純林が広範囲にわたって
広がっているが、四万十ではヒノキ群落は尾根筋に固まっている。
また、四万十のヒノキ林には広葉樹が侵入しており、”ヒノキ純林”という感じはしない。

市ノ又の森では、木曽の森で行われたような大規模な植生改変が行われなかったのでしょう。ヒノキ以外にも、モミ、ツガ、ウラジロガシ等々、暖温帯系の常緑樹たちの大木が多数繁茂しています。

木曽の美林には、不純物の侵入を一切許さないような、清々しいオーラが漂っているのですが、市ノ又の森は全く逆。様々な樹種が、樹姿を通して各々の個性を存分に発揮し、森の景観を作り出すため、林内には混沌とした空気が渦巻いています。
市ノ又の森には、整然とした森には無い”原始性”が内包されているのです。

暖温帯の深山ではよく見かける、ツガの巨木。
ヒノキの大木。カシなどの照葉樹は斜面に、
ヒノキは尾根筋に、という形で棲み分けを行なっている。

常緑樹たちの枝葉を源にして、ダークグリーンが森全体に滲み出し、林内の照度がみるみる落ちていく…。厳めしい空気が漂うなか、ヒノキやツガ、カシの巨木たちが好き放題枝を伸ばしています。古代の西南日本の山々は、一面こんな森で覆われていたんだろうなあ。
今どき、こんな深々しさを湛えた森は非常に希少です。森の奥に進みすぎると、山に吸い込まれて消えてしまうんじゃないか。そんな妄想が膨らむぐらいの、独特な幽玄さが森じゅうに充満しています。この摩訶不思議な雰囲気は、暖温帯本来の植生が色濃く残った森でないと味わえません。

根上がりのヒノキが作りだしたオブジェ。組体操をしているみたい。
朽ちたヒノキの切り株。

市ノ又の森を歩いていると、頻繁に朽ちたヒノキの切り株を見かけます。ほんの数十年前まで、この森では天然ヒノキの伐採が行われていたのです。
幡多ヒノキ全盛期の時代、四万十流域の山々はほぼ全て市ノ又のような深い深い原生林に覆われていたのでしょう。その中を木こりたちが縦横無尽に歩き回り、良材を探し回ったのです。
拡大造林の渦に飲み込まれたのち、遠い昔に置いてけぼりにされた「幡多ヒノキ」の歴史が、この森にはまだひっそりと息づいているんだなあ。

これほどのヒノキの大木が見られる森は、殆ど無い。
山奥の林道上に残っていた、古いトロッコ軌道。
おそらく天然ヒノキの運搬に用いられたのだろう。

四万十川源流の森

さて、お次は四万十川源流、不入山(いらずやま)へ。名前から推測できる通り、不入山は土佐藩政時代、「禁伐林」として保護されており、樹の伐採はおろか人間の立ち入りも禁止されていました。
こういった厳しい保護の影響で、同地には現在も原生的な森が残されているのです。

大河の源流点に広がる、深い原生林。RPGの世界観みたいな、ロマンあふれる響きに高揚を抑えられません。夜明けと同時に、四万十川最上流部の細い流れを車で遡ってゆきました。

不入山手前の山々。広葉樹を基調とする天然林が広がる。

不入山があるのは、高知県津野町。四国山地の深みがだんだんと増してくる場所です。
さすがの四万十川も、ここまでくると流れが細くなってくる。周囲は深山幽谷の趣。川を挟む山肌の中腹には朝霧が立ち込め、谷に蓋をしています。いかにも原生的な森が残っていそうな、凄み溢れる光景…。

シオジ、サワグルミが林立する谷沿いの森。

林道の駐車スペースに車を停め、不入山の遊歩道に入ると、程なくして原生的な渓畔林に突入しました。
四万十川源流一帯の標高は1000mを超えるため、冷温帯系の樹種を基調とする落葉広葉樹林に覆われています。沢沿いの岩場で、トチノキやサワグルミの大木がわさわさと茂っているのを見ると、以前住んでいた青森県奥入瀬を思い出します。青森から1200km以上離れた四国の太平洋側で、こんなにも見事な落葉広葉樹林を見ることになるとは思わなんだ。これも、四万十流域の地形の複雑さ、土佐藩の保護の賜物でしょう。

不入山の森の成り立ちを端的に物語っているのは、沢沿いに林立していたシオジ(Fraxinus platypoda Oliv.)という樹。モクセイ科トネリコ属の落葉高木で、北海道、東北、信越日本海側に多いヤチダモ(Fraxinus mandshurica var. japonica)の近縁種です。沢沿いの湿った土地を好む、渓畔林指向の樹種です。

霧にけぶるシオジの大木。渓畔の樹種らしい、直立した幹。ヤチダモは北日本や日本海側、
シオジは西日本の太平洋側、という形で棲み分けを行なっている。
シオジの葉。トネリコ属樹種らしい、ツルツルした複葉。

シオジは、古くから良質な家具材・器具材を産出する樹として知られており、伐採のターゲットとなってきました。広葉樹にしては珍しい直立幹、そして美しい木目が、木こりたちの注目の的となっていたのです。
有用材を産出する樹の宿命で、シオジの大木が茂る森は今や日本に殆ど残っていないと言われています。

こういった事情を知っていたので、不入山でシオジの大木を見た時の感動はデカかった。やっぱり、ここは堅く守られた森なんだなあ…。シオジの群生は、森の植生に人間の手垢がついていないことの証なのです。

シオジの大木その②。ここまでデカい個体を見たのは初めて。

西日本の深山(特に太平洋側)って、そもそも原生的な森が少ない。北日本の豪雪地帯と比べると気候が穏やかなので、人間が進出しやすく、どうしても森に強い干渉が入ってしまうのです。川の流域まるごと人工林か二次林〜みたいなケースも少なくありません。

しかし、不入山の森の様相からは、そんな弱々しい歴史は感じません。シオジを含め、さまざまな渓畔林系樹種の大木が、幹をすらっと直立させ、森の天井を高く持ち上げています。”大河の源”の称号に恥じぬ貫禄と深々しさが、林内に充満しています。
こういう森、日本にあとどれくらい残っているんだろう…。

四万十川源流手前の林内風景。

そんなこんなで、四万十川源流点に到達。大河の”最初の一滴”に触れました。この水が、いまから196km先の太平洋へと向かうのか…。水の長旅のことを思うと、感慨深いものが込み上げてきます。


深山の漂泊民

ところで、不入山をはじめとする四国山中の落葉広葉樹林には、面白い伝承が伝わっています。

明治時代以前、四国の深山には、「木地師(きじし)」と呼ばれる山地民が住んでいました。

不入山山頂に広がるブナ林。西日本型の、枝を大きく横に広げたブナの大木が茂る。

木地師というのは、お盆やお椀などの木工品の製作を生業とする職人のこと。

彼らは決まった住居を持たず、森の中に簡素な小屋を建て、そこで”ろくろ”を使って木工品を作っていました。完成品は里に持っていき、米や野菜と交換していたそうです。周囲の樹をある程度伐ったら、別の森に移動し、また挽物づくりに励む…。この生活スタイルから、彼らはしばしば”山岳放浪民”と表現されます。

木工品製作に適しているのは、柔らかくて加工しやすいトチノキ、ミズメ、ホオノキなどの材。木地師たちは、これらの樹種が多く生育する落葉広葉樹林を主な生活の場としていました。

木地師の歴史は古く、約1100年前から日本各地の山々で活動してきたとされています。彼らは正真正銘”森のプロフェッショナル”で、その職能技術は時の権力者にも認められていました。木地師の一族は、代々幕府や朝廷などの中央政府から手厚い保護を受けていたらしく、山野の樹を自由に伐れるのも、彼らの特権でした。

不入山の崩落跡地斜面には、ミズメの群落が広がっていた。

四万十川流域には、木地師の存在を示唆する記録が多数残されています。例えば四万十町内のとある神社では、木地師が作ったとされるお椀が今もなお保存されているとのこと。四万十川財団の池田さんも、子供の頃、家に木地師が作った玩具があり、それで遊んだ記憶があるそうです。

その①でも述べた通り、四万十川流域の地形はとにかく複雑。山深く標高が高い山域には、明治時代以前、広大な落葉広葉樹林が広がっていたのでしょう。その奥深くで漂泊生活を送りながら、良材を求めて旅をしていた山岳放浪民がいる…。この幻想的な歴史の証が、いまでも崩れることなく残っているのです。
凹凸の激しい地形が、森の様相にスパイスを加え、山地民の住処を作り出したのでしょう。

不入山のブナ林内に生えていた、ツガの巨木。四国の落葉広葉樹林は、東北・北海道の落葉広葉樹林とは樹種の組成がちょっと違う。ツガ、ヒノキ、ヤマグルマなどなど、常緑の樹種が
ブナに混じって生育するため、森林の様相・景観はある種独特なものになる。

明治時代以降、戸籍の整理や定住の推進などが行われた結果、木地師をはじめとする山岳放浪民は近代的な日本社会へと取り込まれてゆきました。彼らのホームグラウンドであった落葉広葉樹林も、拡大造林によってその姿を大きく変えられています。

木地師も、彼らを抱いていた森も、今や”過去のもの”となりつつあるのです。

しかし、不入山の森には、そんなうら寂しい現実を跳ね返すような凄みがあります。落葉広葉樹の大木が視界一面で跋扈する光景に身を置くと、木地師がいた時代にタイムスリップしたような気分になります…。広葉樹の大木を求め、山奥深くの原生林を放浪する…。なんて素敵な生活なんだろう。
木地師が森に対して抱いていたであろう誇りや愛情が、なんとなく自分の心の中に乗り移ってくる。その深みこそ、不入山の森の一番の魅力である気がします。

山のベールに包まれて

さて、これにて四万十川の森の旅はオシマイ。

冒頭でも述べた通り、四万十川流域の大部分は、人間の干渉を強く受けた二次林か人工林です。同地の森は、人間の歴史と完全に連動し、その様相を変化させてきたのです。

しかし、複雑な四万十の地形は、一部の森を人間の歴史から完全に隔絶してしまいました。
山肌のベールの奥の奥に挟み込まれた「隙間」のような森では、今もなお原始的な雰囲気が醸成されているのです。

そういう場所では時間の流れが止まっていて、幡多檜、木地師などなど、いまでは年表の中に閉じ込められている森の歴史の事物が、現実のものとなって浮き出ているのです。それを体感する瞬間が、一番ワクワクしたなぁ。

森は一種の歴史メモリー。この魅力をみんなに知ってほしいけれど、あまりにも多くの人が深山の森に触れるようになったら、そこに秘められた歴史のロマンは薄れてしまう気がします。

この頃合いをうまく調節してくれるのが、四万十の複雑怪奇な山肌なのかなぁ。そんなことを考えながら、神戸への帰途につきました。



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