草木と生きた日本人 続・東国人と花
一、序
恋しけば 来ませわが背子 垣つ柳 うれ摘みからし われ立ち待たむ(巻十四・三四五五)
「恋しくなつたらいつでも来てくださいね。私の大切な人。垣の柳の芽を摘み枯らしてしまふまで、私は立つて待つてゐませう」といふ意味のこの歌。
さう、この歌も東歌です。この歌には柳の木が詠まれてゐますね。柳の芽を積み枯らすほど摘んであなたを待つてゐますと詠む、実に情熱的な女性の立場の歌です。
前回は、『万葉集』に残された東国人の歌から、都人だけでなく、都から遠く離れた東国の人も草木や花に親しんできた事実を見てきました。
今でも、古人の感性と私どもは歌に記された言葉と心を通してつながり合ふことができます。わづか三十一文字で表現された和歌ですが、それは決して難しくなく、さらさらと川の水が流れるやうに私どもに心の中に迫つてくるでせう。
ところで、『万葉集』には、東国人の歌を収める巻が二つあります。一つは、前回の紹介した東歌を収める巻第十四。そして、もう一つが、防人歌を収める巻第二十です。今回は、防人歌について見ていきませう。
二、防人
天平勝宝六年(七五四)二月のことです。このころ、少納言であつた大伴家持は兵部少輔に任命されました。家持は防人に関する事務を担当することになります。そして、日本文学史上に残る大きな業績を残すことになります。それが、防人歌を集めて『万葉集』に記録したことです。
ここで、防人について簡単に解説しませう。防人とは「崎守」の意味で、九州北部沿岸や対馬、壱岐の警護にあたつた兵のことです。地図で、対馬や壱岐の場所を見てみてください。朝鮮半島から近く、外国が間近なのがわかりませう。現在でも、対馬は国境の島といふことで、とても大切な場所です。
『日本書紀』によれば天智天皇三年(六六四)に烽と共に防人を配備したのが始まりです。その理由は前年の白村江の戦ひで百済を助け、唐と新羅の連合軍と戦ひ敗れました。戦後、その襲来を恐れたことから沿岸の防備を行ひます。
当初、防人には西国の兵をあててゐましたが、大宝年間(七〇一~七〇四)になるまでには東国の民を用ゐるやうになりました。現在の東京都や埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県、神奈川県、そして静岡県などの東国の人から選ばれました。定員は三千名で、二十一歳から六十歳以下までの健康な青年男子を当てました。それを正丁といひます。
防人の任期は三年で、毎年千人ずつ交替しました。防人は軍隊といふよりは、あくまでも警備や監視が主任務でした。軍隊は九州各国に数千人規模の軍団がありました。何もない時は、現地で自給自足をしながらつとめにあたりました。
『万葉集』には、九十八首の防人とその家族の歌が収められてゐます。そして、その中の八十四首が、天平勝宝七年二月に九州に向かつた防人の手によつて作られ、家持のもとに届けられました。
防人の任を負ひ九州へ赴いた彼らも、東歌に親しんでゐた東国人と同じやうに草木を愛しました。
三、防人歌に詠まれた草木
では、実際に防人歌を見てみませう。
防人歌といへば、多くの人が、
けふよりは かへり見なくて 大皇の 醜の御盾と 出で立つわれは(巻二十・四三七三)
といふ今奉部与曽布の勇ましい歌が思ひ出されるでせう。しかし、このやうな勇ましい歌もありますが、同時に、母や妻を思ふ歌も数多く残されてゐるのです。
次の歌を見てください。
ときどきの 花は咲けども 何すれそ 母とふ花の 咲き出来ずけむ(巻二十・四三二三)
(季節ごとに花は咲くけれども、何故、母といふ花が咲かないのだらうか)
この歌は、遠江国(現在の静岡県)山名郡の防人、丈部真麿によつて詠まれました。もちろん、彼がどのやうな人物かわかつてゐません。季節ごとにいろいろな花が咲くけれども、母といふ花はどうして咲かないのだらうと遠く故郷に置いてきた母親を偲ぶ歌です。故郷から遠く離れた地で、母親が花となつて咲いてほしいと願ふ。切実な歌でせう。
続いて、次の歌を見てみませう。
父母も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧ごて行かむ(巻二十・四三二五)
(父親と母親が花であつたらナア。旅に行くとしても、捧げもつて行かう)
この歌も、遠江国佐野郡の防人、丈部黒当によつて作られました。「草枕」は旅の枕詞。「捧ごて」は捧げての訛りです。両親が花であつたら、大切にもつて行けるのにといふ歌です。前の真麿と同じ心ですね。旅先で、母といふ花が咲いてほしいと願ふ真麿と、両親が花であつたら一緒に行けるのにと願ふ黒当。彼らの花を愛し、家族を思ふ情が胸に染みてきませう。
三首目の歌を見てみませう。
父母が 殿のしりへの 百代草 百代いでませ わが来るまで(巻二十・四三二六)
(父と母が住む建物の後ろに生える百代草。そのやうに百歳まで生きてください。私が帰つてくるまで)
この歌も、遠江国佐野郡の防人、生玉部足国によつて作られました。切実な歌です。私が防人の任が終はつて帰つて来るまで、百代草の百代、つまり百年の長い間ずつと生きてゐてくださいと願ふ歌です。歌中の百代草ですが、菊、露草、ムカシヨモギではないかと言はれてゐますがわかつてゐません。
ここまで、遠江国の防人歌を見てみました。次は、別の地域の防人歌を見てませう。
筑波嶺の さゆるの花の ゆとこにも かなしけ妹そ 昼もかなしけ(巻二十・四三六九)
(筑波山に咲く小百合のやうに、旅の夜の寝床でも、私の恋しい妻は昼も愛しいものです)
この歌を作つた大舎人部千文は、常陸国那賀郡の出身です。
前回の東歌と同じく、東国のなまりが顕著に出てゐるのが特徴的です。「さゆる」は小百合。「ゆどこ」は夜床。「かなしけ」は愛しきです。民謡のやうに軽快な調べで、一見して防人歌とは思へない感じもするでせう。
小百合はユリの花のことです。『日本国語大辞典』を見ると、次のやうに書かれてゐます。
「ユリ科ユリ属の植物の総称。地中に、白・淡黄または紫色の鱗茎がある。葉は線形または披針形。春から夏にかけ、大きな両性花が咲く。花は六個の花被片からなり、赤・桃・白・黄・紫色など。雄しべは丁字形の葯やくがめだつ。ヤマユリ・オニユリなどの鱗茎は食用ともなる。北半球の温帯に広く分布、観賞用に栽培されるものが多い」
千文は、妻を小百合の花のやうに美しく、愛おしいと歌つたのでした。
ある人は親を花に見立て、またある人は妻を百合の花に重ねたのでした。防人歌に、草木を詠んだ歌は決して多くありませんが、その歌の調べは切実です。
浅はかな視点で彼らの歌を見れば、女々しく、それでゐて親離れできない情けない子のやうに見えるでせう。しかし、それは人間本来の情ではありません。
四、古人の情
そして、これらの防人歌をとりまとめた家持は、彼らに厚い情を寄せました。彼らの妻になり代はりいくつかの歌を作つたのです。その内の一つが、次の歌です。
今替る 新防人が 船出する 海原の上に 波な咲きそね(巻二十・四三三五)
新たに出発する防人の船に、「波よ、来ないでおくれ」と歌ふのです。防人は公を思ひつつ、父母や妻にも情を寄せました。家持も防人らに対して情を欠かしませんでした。
防人歌を詠んだ人たちがどのやうな人か、まつたくわかりません。しかし、彼らの歌から明らかにわかるのは、草木を愛し、家族と国家を思ふ優しさをもつた情の人、決して匠ではありませんが歌に通じてゐた人であつたといふことです。
彼らの作つた歌は、東歌以上に、切実に私どもの胸に迫つてきませう。
その後、防人たちがどうなつたか、知る由もありません。しかし、筑紫の海辺に、また東国の各地で、彼らの愛した花、夏の野に咲く小百合花を見、防人歌を思ひ出す時、彼らの魂が私どもの心の中で生きてゐることを感じるのではないでせうか。