【実写版推しの子】櫻井海音の演じる星野アクアはいいぞ
私の観測結果:その 大分好きでした…
※このnoteには原作漫画終盤への言及が含まれます。原作勢向けに書いてます。実写勢は読まないでね。
はじめに
ヘッダー通りに原作オタクの私満足!(ヘッダー画像は原作6巻58話より)
注意してほしい点としては、櫻井海音さん、という役者の演技が私にとって完全初見だったということです。決して原作57話〜58話の流れ通りに(この人下手だったんだよなぁ)とか思ってたわけではないです。原作オタクにっこり!という意味です。鮫島アビ子という人物は、原作では、原作者が一番の作品オタク、という形で"ファン及びオタクの反応"を描く上で作られています。
実写版【推しの子】の情報に触れた時、拘りの強い原作ファンオタクちゃんはしょーもない課題に直面した。
「いや、櫻井海音さん以外にやってほしくないか決めるのは、観る私なんだよなぁ……」という神様もびっくりの完全なお客様思考であった。メディアミックスの観客席に座る私にとっては『星野アクア』という題材は、ハムレットの『ハムレット』と同じ。100人100通りの星野アクアがいても、別にいいと思っている。でも私は『星野アクア』を理解し、演じるのは難しいと思っていた。まだ8月終盤で、原作が閉じたのは11月半ば。見れるのは更に後。
大丈夫かなぁ……→めちゃくちゃよかった!
【推しの子】という作品は、2006年からメディアミックス作品を色々見てきた私にとっては、ものすごく説得力がある作品だ。まず舞台及びキャラが直面する課題がとてもよかった。
・オタクの過剰な期待に応えきったメディアミックス作品
・様々な理由でオタクの期待に全く応えられなかった作品
・そもそも一部のオタクが理解ろうとしなかったし未だに偏見で火つけられる
・メディアミックス側の思惑によって利用されたとファンが感じる作品
などなど、私が実際に見てきたものが全部描かれていたからだ。これはつまり、赤坂アカ先生自身も経験した、或いはそういう経験を落とし込みつつ、取材も重ねてこの漫画作品の"立派な舞台"は出来上がっていると私は見ている。実際調べてみると原作者は私より少し上の世代で『なるほど』と思った。勝手にね。
『題材:星野アクア』について
私は次のように解釈している。星野アクアは"復讐者"の役を託された主人公である。彼の根底には常に、誰かがいつか抱いていた無念と罪悪感が確かにあった。これらの想いを赤坂アカ先生が彼に託し、横槍メンゴ先生がしっかりと受け止め、緻密な表現で描き切った。【推しの子】という作品は、誰かが何かしらの課題に直面した時に、『星野アクア』が介入することで未来を変える、というストーリー構成になっており、また、『星野アクア』自身も自ら託された運命、"復讐者"の役に苦しむ場面もチラホラ見受けられる。彼が託された運命とは英語で言うなら、DestinyではなくFateの方であるからだ。この違いについて気になる方は詳しくはぐぐってみてね。
そのFateの重みの一つに『設問:雨宮吾郎』があるが、これについては後程。
実写版【推しの子】はこういう流れで出来ている。確かにあった"誰か"の想いと願い→赤坂アカ→横槍メンゴ→『星野アクア』→メディアミックス制作陣→という流れを経て、この重い重いバトンをしっかりと受け取り舞台で演じ切っているのが役者、櫻井海音氏である。(進行形なのは映画まだ公開されていないから)
彼は今年8月下旬に公開されたインタビューでこう語っている。
えー、めっちゃ情熱的じゃん。実際に目で見るまで信じられなくて、本当に申し訳ない……と思う程、彼は『星野アクア』に誠実だった。
私は100通りの【推しの子】があって100通りの『星野アクア』が存在してほしいと思っている。その価値観は変わらない。その上で言うと、彼は本当に星野アクアへのアプローチに全力を注いだと私は観ていて感じた。ということで、原作再現が完璧だぁとオタクが感心したところを拾い上げていく。
演者:櫻井海音による演者:星野アクア
1.感情表現による前世からの決別
東ブレ編で星野アクアは『感情表現』というお題にぶつかる。彼はPTSDや本人も自覚していない感情で苦しみを抱いていた。そこで彼は自分自身が抱えている感情を理解し、自らの演技の表現に使った。
ドラマ版東ブレ編では、星野アクアが直面する課題が変更されているのが興味深い。尺の都合以外にも理由がある。ソースは台詞。
私は東ブレ編で星野アクアに提示された課題をこう言語化する。
原作では「もしも大切な存在が、この手に戻ってこれるなら」
ドラマは「永遠の手遅れが、再び」
原作での作画担当横槍メンゴ先生は、上記の課題をクリアした星野アクアの表情をこう描いた。
『子供っぽいみっともない顔つきで泣くアクア』、と私は言語化する。お題は違えど出発点に深い悲しみがあることは変わりはない。
私にとっては横槍メンゴ作画の言語化通りに捉えられた。ので、嬉しい。
このシーンはドラマ版の第6話である。中盤の終わり際。基本的にローテンション(陰キャ)なアクアが、役者として、事件当時と同じように号泣する。母親の喪失というトラウマを、引き摺りだしながら。
『設問:雨宮吾郎』への私からの解答
雨宮吾郎とは、星野アクアの前世である。原作【推しの子】では、終盤『星野アクア』が"雨宮吾郎"と人格的な決別を果たすが、それはなんと原作15巻。全16巻の作品の終盤も終盤である。そこまでに長い長い道のりがあり、時折星野アクアを苦しめていた。例えば上記の感情表現という課題にぶつかった時も現れたのは"雨宮吾郎"である。
上記の原作での"雨宮吾郎"は、星野アクアが感情演技をする練習に『星野アクアの人生』を楽しんだことを思い出すことで現れた。生きることを楽しむことを咎めている。しかも滅茶苦茶なことを言っている。いくら前世持ちの医者としての知識と心が有れど、当時4歳かそこらの子供の身体が精神的ショックの大きい場面で冷静な対処など取れる訳もなく、そもそも幼少期星野アクアは星野アイがナイフで刺される瞬間は見ておらず、彼がドアを開けた時にはもう既にナイフは刺されていた。ここは原作・アニメ・ドラマ全てに共通する。余談だが、ドラマ版では星野アイの腹に刺さるナイフの映像と共に(刺し続ける音)という字幕がつく拘りようである。
この滅茶苦茶なことを言う雨宮吾郎へのアプローチに、私は『サバイバーズギルト』という概念を仮説として使っている。彼の生まれはドラマ版でもしっかり語られている。第7話である。
まず、産科危機的出血を知るにあたり、私は以下のサイトを参考にした。素人でもわかりやすかったので。
富山県/産科出血について
つまり、最低でも2リットル以上の血の中で、吾郎(と名前をつけられる赤子)は産声を上げていたのである。血の海から産み出された男、雨宮吾郎。
父親が誰かわからない、というのは星野アクアとの共通点でもあるが、大きな相違点として父親の手掛かりがない、ということである。DNAという手段が使えても、日本人約1億人から探すなど無理な話だ。
妊娠した女性が医療機関に頼らず出産する、という事象はしばしばニュースで観測できる。乳児遺棄事件だ。
赤ちゃん死体遺棄事件 被告の母親「妊娠をどこにも相談せず(NHK NEWS WEB)
ここまでが私の持つ情報となる。
これらを以て"雨宮吾郎"が何故血の海で産声を上げていたと私が表現したのかというと、人類史が血の海で出来ているからである。生きる為の争い、病や怪我及びそれとの戦いである医療、社会制度改革など何かが起こるたびに人々の血が流れ、流し、死んでいった。殺していった。そういうことを繰り返して今、2024年とされる時にこのnoteを私が書いている。雨宮吾郎の父親は誰、ではなく何、であると考える。それは世の理不尽と無理解であると仮定する。赤子"雨宮吾郎"は傍から見れば彼には何の罪もないのだが当事者にとっては違ったと自ら語っている。
私は"吾郎"のような経験や、大きな出来事に巻き込まれたことはないので、正直その感覚はよくわからない。でも、人間の文化を発展させた感情というシステムが持つ素晴らしさと不条理さは人生経験から理解できる。何より、【推しの子】で十分描かれてきた。そして雨宮吾郎は、転生先の『星野アクア』にとっての"理不尽"な鎖と成れ果ててしまう。
ドラマ版では『雨宮吾郎』を成田凌が演じている。彼は、例えば「天童寺さりな」と向き合っている時や、「推しの妊娠」(推しの子の出発点)という事象に向き合ってる時は明るいが、彼が死んだ後も根底に抱えている闇は、ドラマ版でもしっかり描かれていた。彼の闇が出る時は、白衣が真っ赤な血で染まっている。まるで怨霊かのように。ドラマ制作陣は、"星野アクアにとっての雨宮吾郎"をしっかり捕らえたのだ。
星野アクアの心象風景は、星野アイが死んだ玄関で描かれる。原作も同じだ。ドラマ版は以下のように改変されている。
「身体を張って守っていれば」という台詞を、成田凌は「自嘲的な響き」とも「自省的な響き」ともとれる見事な震えで表現している。
フラッシュバックに前世の鎖。二重に責められて苦しむ心象風景にいる『星野アクア』は、現実世界では見せない程取り乱しながら、現実世界へと戻っていく。現実世界の星野アクアは、傍から見れば、パニックを起こして呼吸が荒い状態で目覚めた、という風にしか捉えられない。これは作中世界の人物が観測する『星野アクア』の思いがけない姿でしかない。
以上の描写によって、ドラマ版視聴者に対し『星野アイ刺殺現場』と『血まみれの雨宮吾郎』で取り乱す星野アクア、を強く印象づける意図があると思われる。時間の限りがある中では、視覚的情報を取り入れることが大事である。それに後のシーンにもつながるし、原作の後のシーンより輸入したと考えることも出来る。
前振りが長くなったが、上記のドラマ版の改変とリンクするシーンが第8話にある。原作のここだ。
復讐はまだ終わっていないという現実を、斉藤壱護により突きつけられる・その後のシーンである。
2.アクアの闇が現実に表出し影響を与えるシーン
ドラマ版斉藤壱護を演じるのは泣く子も黙る、大御所の吉田鋼太郎である。
彼は抱えた怒りを滲み出しながら、早口で自分の推論を星野アクアに語った。自らの推論に突っかかるアクアに苛立ちを覚えながらこのセリフを放つ。
壱護「見落とし?」
ここの言い方がいい。苛立ちを孕んでいるようで。例え相手が娘が産んだ孫のような存在であっても、どうしてもやるせない・許せない・行き場のない怒りというものは出てしまう。星野アクアは斉藤壱護により突きつけられた現実で取り乱し始める。
アクア「あるんだよ!……(荒い呼吸)必ず見落としがあるはずなんだよ!」
ここで斉藤壱護が冷静になる。サングラスで目は見えないが、完全に表情が読めないわけではない。
ここは原作ではこうなっている。
彼は星野アクアの姿を、「深掘れ☆ワンチャン」で観測しており、現在の状況をルビーから聞き出していても不思議ではない。アクアが痛々しい表情で叫び取り乱す様子を見て、ドラマ版斉藤壱護は自らが抱えていた感情をぶつけた贖罪として、抱擁という形で星野アクアを受け止め、宥めて退場した。彼もきっと、誰かを受け止めきれないほど、自分でも抱えきれない思いがあるからこそ、星野アクアの苦しみが痛いほど伝わったのだろう。精一杯の歩み寄りと、斉藤壱護という人物の情の深さ・人間臭さが出ている良いシーンである。
だが、星野アクアが抱えている苦しみは「母親(アイ)の喪失」だけではなかったことを斉藤壱護は知らなかった。
雨が降り始め、大雨になる。字幕:(どしゃぶりの音)
幼少期アクアが星野アクアを責め初め、アクアはそれを睨みつける。
え、ちょっと待ってくれ……
幼少期アクア役:岩川晴(9歳)
うっっっま……第1話でも思ったけど、目が幼い子のそれじゃない、擦れた大人の目だよ。『子供がこんな目をしてたら嫌だ』の目をしている。2015年に産まれてwikiによると2019年からお仕事をしている……なるほどね。もう気持ちが完全にこれだよ!私母親じゃないけど!!軽率に思っちゃうよ!
これからも彼の活躍が楽しみですね。皆さんも彼の演技を楽しみましょう。
閑話休題。
自らに齎された「星野アイ刺殺事件」という理不尽な運命へ再び向き合わなければいけないという、受け止めきれない現実。
そして雨宮吾郎の抱える不条理な『サバイバーズギルト』という感情で、星野アクアは内心滅茶苦茶になる。
雨宮吾郎の感情と、星野アクアの感情がない交ぜになっていく。
ここで、星野アクアは有馬かなにとっての理不尽となってしまっている。
一人の少女として、片思いの相手が、雨が降りしきる中ベンチで呆然として居れば、まず心配し歩み寄り傘を差しだすのは何も不思議なことではない。しかしアクアは自らの運命(Fateという鎖)の苦しさから、現実の有馬かなを観測することが出来なかった。強い拒絶を受けた有馬かなだったが、それでも彼に傘を優しくかけた後、雨の中自らも濡れながら走り去っていく。傘というものを通じて描かれる、二人の想い。
ここでこの二人のディスコミュニケーションが起こったことで、結論を先に言えば作品は一つの大きな節目を迎えることになる。星野アイに子供がいたことを公表することになり、星野アクアと実妹ルビーに決裂が起こる。
有馬かなは、片思いの相手からの理不尽な拒絶を始めに、アイドル(偶像)をするということ・社会の現実から精神的に疲弊してしまう。まるでドミノ倒しかのように。そこに襲い掛かるのが「権力を持つ男性:シマカンの下心」である。
シマカンはここ、ドラマ版に置いて大きく象徴的な存在になっている。原作は憎めないように描かれているが、かなり鋭利に改変された。恐らく映画版の方にメタファーという形で重なるようになっている?もしくは映画版で削除した部分をここで表した……とか。
原作ファンによる小話
(この辺りは読み込んでいないので今得た気づきなのだが……。物語終盤で有馬かなが涙を浮かべながら読んでいる台本は、シマカンのものだったりする?だとすれば原作・ドラマ版のシマカン像それぞれに納得がいくようになる。原作では星野アクアの理不尽という"干渉"でシマカンに気に入られることになった有馬かなに、女優としての仕事が来たという解釈が出来なくもないんだよなぁ……緻密な確認は取れないのだが。私は有馬かなを作中最大の星野アクア(※前世情報抜きの姿)ファンだと思っている)
シマカンの下心と悪意によって齎された有馬かなのスキャンダルを、星野アクアは自らの生い立ちでねじ伏せる。バーター記事である。
星野ルビーは墓を暴いた星野アクアに激怒する。アイドル:アイの嘘という愛を尊重しなかったこと。死というものに近い前世と、奇跡の今世を送ってきたルビーが抱えているものから出る、怒りを表現しきった。暗くて顔が見えにくい部屋の中で、斉藤なぎさは星野アクアを詰り切り、強く拒絶した。
映画では"星野ルビー"が物語の鍵になる。映画版での彼女の輝きを、期待している。
原作【推しの子】の星野兄妹は、作中世界の人々も、そして一部の読者にも、その姿が捕らえにくい形で話が進んでいくようになっているのだが、その要素を巧妙に残しつつ短時間で話の軸となるものにアプローチしているのが、ドラマ実写版【推しの子】の"脚本"や"映像"、そして彼らを演じる櫻井海音と斉藤なぎさである。
おわりに
「いやドラマ制作陣めっちゃ理解ってるやん、嬉しい」……とオタクちゃんは報われる思いになった。私はネット歴の長いオタクだが、どうしてもエコーチェンバーという現象や情報の偏り、自らの偏見に引きずられてしまう。ので、否定的な意見ばかりが目につきがち、共感されがちだということを観測し続けていた為、悔しい思いを抱えていた。『推しが星野アクアの人』の感想を見かけて(そうだよなぁ、受け入れられないよなぁ……)という思いを抱くこともあった。
でも、
私が捉えたものを、他の人も確かに捉えていたと感じられる。
これほど嬉しいメディアミックスは無いと考える。
「僕にとって演じることは復讐だ」
これがもしもシェイクスピア作品の有名な台詞と繋がるなら、私は彼の生き様を、静かに肯定することにしている。映画版での決着は、是非映画館の大きなスクリーンで見届けたいものだ。
カミキヒカル、二宮和也。
に、似ている……すげぇ……公式よくやった……バズは起こすものと、MEMちょが言った通り。バズってたね。
鏑木勝也役、要潤もこの反応である。
なるほど、鏑木とカミキのあのシーンがあるのかもしれないのか。
楽しみだぁ……。