【エッセイ】安易に拒絶され、大きな共鳴が響き渡る世界にて。忙しい時の中、もしも歩み寄れるなら
クソリプが来た。なので言い合う前にちゃんと『お前、私にそういう無礼な関わり方するとnoteの材料にするぞ』と警告した。晒し上げ宣言である。それを意に介さずクソリプオタクは、傷ついたオタクの心の上で語り始める。他作の名前をポンポン出しながら『成功した他作はこう、最終回は受け入れられなかったらアニメが失速するんだよ』というクソみたいな先輩面。例に出された他作はタイトルは知ってるけど全て触れたことない上に『お前の好きな作品は欠陥があるからマス受けしなかった、将来アニメは失速する』。なのでアクセルベタ踏みで「いいかいオタクくん、オタク知識はね、こうやって使うんだよ」と思いながらレスバを晒すnoteを書いた。悪意もあった。全く眠れない程めちゃくちゃ怒った。ただクソリプレスバトルの中で興味がある表現があった。【ネット黎明期の掲示板】この単語で思い出したのが庵野秀明監督である。
庵野秀明監督は、新世紀エヴァンゲリオン(1995)というアニメや、新劇場版エヴァンゲリオン、また実写映画シン・ゴジラを始めたシン・〇〇シリーズの監督で有名だと思う。彼は新世紀エヴァンゲリオン(1995)のアニメ最終話の放送を迎えた後、凄まじい誹謗中傷を受けたと話していたことがある。2024年の今も誹謗中傷対策は後手後手なのに、当時はネット社会の秩序を維持する為の法律や相談できるような場所があったのか。大変心苦しかっただろう。実際死のうと思ったと本人も言っている。
"作品を投げ出した"ちょっと心当たりがあるなぁ。
私とエヴァンゲリオンという作品との出会いは中学生の頃で、お小遣いの範囲でちまちまと漫画を買っていた。(備考:アニメと漫画は結構違う)新劇場版を見て、素晴らしい作画と音楽で興奮した。新劇場版Q(2012)を映画館に観にいってみれば、怖いし内容がよくわからんしナニコレ?と凄まじい精神疲労をかかえてしまい、もうエヴァ見ない!とキレてた記憶がある。なんなんだよ意味わからん。もうエヴァ嫌い!知らない!と。
それからしばらくして、シン・ゴジラ(2016)を劇場で観て、大変気に入ったオタクは掌を返す。庵野監督やるやん。と。この辺りから庵野監督という人物に興味を持つようになり彼に関する資料を漁るようになる。――そして2021年、シン・エヴァンゲリオンを公開日の一番最初の時間に見てすっきりした気持ちで劇場から出た。いい映画だった……。庵野監督のこと知っておいてよかった……。
――そんな庵野監督の大学生時代の様子や作品について知ることができる漫画がある。島本和彦作:アオイホノオである。この作品はフィクションである、から始まる作品であるが、まだビデオテープが現役でPCもない、今のオタク事情では考えられない大変さを持つ1980年代を克明に描いた世界を舞台にしている。主人公:焔燃(ホノオ・モユル)が、芸術大学のあらゆる場所で七転び八起きしながら”表現者”の道を目指す。この漫画は群像劇で、後の誰々とか、のちの誰々とか、日本のサブカルチャーを作ることになる人々が沢山出てくる。この中に後の庵野"監督"となる、大学生時代の庵野秀明が出てくる。
彼は大学生時代、車の上で車が飛び跳ねぐしゃぐしゃになるという、パラパラアニメ作品を描いたことがある。
このパラパラアニメは私が見た限りでは
・車が車の上で跳ねる
・下の車に着地
・その瞬間破片が起こる
・破片が落ちながら
・車が着地した瞬間また新な破片が起こる
・下の車も凹んでいく
という風に作画しなければならない。以下画面右ページ。
※右側ページで車と共に描かれている人間が庵野秀明である。
まず注目してほしいのは右ページ一番下のコマ、「正確には初代マン古谷徹さんの動きだ!!そこが重要だ!!」という台詞である。
アオイホノオで描かれた庵野氏の特徴として以下のようなものが見られる。
・特撮キャラの動きを自分の身体でかなりの精度を目指して表現しようとする
・本人が興味を持った"動き"をした役者、描いたアニメシーンを手掛けた人物の名をスラスラと挙げる
・宮崎駿監督の作画の癖を知っている
など。
但し連載漫画という媒体の都合上、象徴的に描かれている、という可能性を考慮しなければならない。
次に上記左ページから始まる説明がある。このアニメの製作方法である。なんと『無地のレポート用紙一冊』を使っている。これを使って作る大きな利点と欠点が説明されている。
「一気に最初っから終わりまで一人で描きあげるしかないのだ!」
この文章が重要なポイントで、いわゆる目的地(重要となる作画)を細かく設定せずに完成というゴールに一気に向かうということをやっている。
それも車で車を破壊するというトンデモ内容で、である。
ここから私が推測できる情報は以下になる。
・彼は、車を描くのが好きでよく描いていたので描きなれている
・彼は、物が破壊されるアニメーションを大学入学前にも描いた経験がある
・彼は、物が破壊される瞬間の描写あるいは動きを克明に記憶し研究している
・恐らくだが、無地のレポート用紙に目を付けたのは結構前で、無地のレポート用紙での創作活動を行った経験が以前にもある
何よりも、彼の創作活動への情熱や執着ともいえる姿勢がよく見える。
そんな彼(1960年生まれ)が30代前半で手掛けるのが、新世紀エヴァンゲリオン(1995)というアニメである。ここからエヴァと呼ばれるシリーズの物語が始まり、2021年にピリオドが打たれた。
――もし、過去のオタク達の書き込みに影響を受けて庵野秀明がこの世を去っていたら、私の人物像はまた違ったものになるであろうと断言できる。それほど私は庵野秀明という創作者を気に入り、憧れを持っている。私がなれなかった表現者としての人生を貫き、辛い思いを抱えつつも耐え忍び、そして今日まで生きている。今も何かを描いているのであろうか……。
話は、2024年11月後期に戻る。この頃の私は怒りの感情を抱えていた。私が「すっげえよく出来ている」と思った復讐劇ミステリー作品【推しの子】が完結した際に駄作だのカスだの打ち切りだの投げっぱなしだの、作画の人が可哀想だの否定的なポストが目立っていた。ので、作品の面白さを損なわない範囲でどこが面白いと思ったかをnoteに書き連ねていた。
つまり私は、元々怒りの炎が燃えていた。その上でクソリプ軽率表現ダンスを披露されれば、まさしくガソリンを注ぎ込まれたと感じる。だから私はアクセルベタベタのベタ踏みでこのオタクさぁ!!というノートを書きあげた。徹夜して。本当に眠れなかった……。
【ネット黎明期の掲示板】という表現がリプライ内にあり、庵野監督の事件を言いたいのか?ふーん、知っているけど。と思いながら庵野監督の手がけた作品の好きなシーンを書き連ねた。事件の概要も。そしてエヴァ最終回が現代のXにおいてどのような"利用"のされかたもしているか知っていた。
それを書いた後に、過去ポスでも漁るか……と悪意フルスロットルで見にいった所、以下のような内容を持つポストを発見した。
・アニメエヴァ最終回は説得力があり、自分はとても気に入っている。個人的には新劇よりも。
このオタクは、自分にとって【推しの子】が何故面白くなかったかを一方的に語り、連載漫画以外全く違う特徴を持つ他の作品の名前を挙げて巻き込みながら評価した。そして最終回失敗判定されたアニメは失速する、ソースはこの作品。とんでもねえ輩である。色々な方面に無礼である。
しかしこのポストで彼の抱えている無念も少し見えた気がした。ので彼も被害者だったということでnoteにオチをつけネットに投げた。
そして、現代の日本のオタク界隈のXではしばしば観測できる現象がある。
アニメ新世紀エヴァンゲリオン(旧エヴァ)最終回は、みんなが理解できなくて「なんでええええ」となった情報だけが一人歩きしてるのだ。勝手にオタクが共感を得て気持ちよくなる為にばら撒いてニチャニチャする。最終回がファンに受け入れられなかった作品が出た際、そこに画像とエヴァ最終話がどうだの投げ入れるユーザーを私も何度か見た覚えがある。
その夜、私は閃いた。こうしてnoteを書き続けた今私はめちゃくちゃ自信にあふれている。今なら2024年11月14日~15日、つまり【推しの子】最終話にXで何があったのかを見に行けるのではないか?と
その時に目に入ったのが以下のポストだ。
新世紀エヴァンゲリオンの名前は出していないが、最低最悪の最終回というキャプションをつけて、アニメエヴァの最終回の象徴的シーンの画像を貼り付けて、承認欲求を満たしている。このポストに共鳴した人間が12万いる。
クソリプを送ってきたオタクは、間違いなく無礼な奴だ。しかし私は庵野監督が好きだ。新世紀エヴァンゲリオンは見てなくても、庵野監督の手がけた作品、そして実際の庵野監督を追ったドキュメンタリー番組を見たことがある。私は庵野監督を魅力的で唯一無二の創作者だと思う。ので、私は無念に思った。好きな作品が安易に馬鹿にされる悲しみを密かに抱いて今日を生きるオタクは、結構いるのかもしれない。
創作活動というものは、まず対象の観察から始まる。そこからどう文章に落とし込むか絵として写し取るか、機材をどう使って撮影するかなど検討する。そしてそれぞれの表現に合わせた方法でじっくりと対象に歩み寄っていく……と私は考えていく。
現代社会は大変忙しく、摩擦ですり減り孤独を感じる人々は共鳴を求める。しかし、その共鳴の手段が創作作品の否定という形なのは、ちょっと考え直してみないか、と私は提案する。
1996年3月27日の放映日からずっと、エヴァ最終回は一部の人間による共鳴の手段として利用され続けていた。時代が大きく変わった今も。今回共鳴しいいねをした12万人の中に、果たして……どれくらい実際にアニメエヴァ最終回だけでも見て、更に新世紀エヴァンゲリオン第一話から見て"理解しようとした"人間がいるのだろうか?この最終回の持つ特徴を推測すると、話の積み重ねがあった先にある解答と解放の瞬間なのかもしれない。つまり【推しの子】最終話と同じ特徴を持っている可能性がある。今私は【推しの子】オタクとして生きなければならず、自分の無念を晴らすまで走りたいと思うので新世紀エヴァンゲリオンに歩み寄ることは出来ない。でも、庵野監督という存在を通じて長年心を痛めてきたオタクに思いを馳せることは出来る。
安易に拒絶され、大きな共鳴が響き渡る世界にて。忙しい時の中、もしも歩み寄れるなら
これが私の無念の昇華である。