【小説】『嬢ちゃん/22歳元風俗嬢、底辺高校の教師やります 』4
4月1日。月曜日だ。
初年度の初日。新規採用の教員というのは、朝は勤務校には行かない。
あたしは、県庁近くの大きな会館まで出張していた。
全県の新規採用教員が、まずここに集められる。
そして半日、県庁の偉い人達が話をするのを聞かされるのである。
比較的、前のほうの座席にいたので、偉い人達の顔もよく見えた。
あたしが驚いたのは、知っている顔が何人もいる、ということである。
あたしが勤務していた風俗店は、県庁近くの繁華街に位置している。
店にいるときから、県庁勤務の偉い人達もお得意様なんだ、ということは認識していたつもりだった。しかし、いざ彼らが本業に勤しんでいる姿を見るのは違和感があるものだ。
ベッドの上では、あたしの身体に夢中になっていたのに。スケベなだけじゃない、仕事ができるおじさん達だったんだなあ。
あたしは資料に真剣になっているふりをして、ろくろく顔を上げなかった。それが、お互いのためというものである。
彼らの話は、ほとんどが教育者としての心構えの話だ。昼前にすべての話が終わり、あたし達は会館の外へ出た。
あたし「達」というのも、今年度、潮南高校に配属された新規採用教員があたしの他に二人、いま一緒にいるからだ。
男が一人、女が一人。
片方、男のほうは、学生時代からサッカーをずっとやってきたという英語科の人で、立花という。立花翼。
サッカーで、翼くんなのである。これは、あたしもすぐに存在を覚えた。
いかにもスポーツマンという感じで、身長が高くて身体つきが引き締まっている。なにより甘いマスクなので、学生時代から様々な女性と浮き名を流してきたのに相違ない。
もう片方、女のほうは社会科の人で、藤原ここあ。
ここあ。
いや、あたしだって他人の名前に感想を述べることはおこがましいと思う。しかし、娘に飲み物の名前をつける、その親の心情は測り難い。
社会科で、藤原。名前が、ここあ。これも強烈なインパクトではある。
ただ、藤原ここあは外見的には極めて一般的だった。身長は150センチ強。顔は普通。体型にも目立った特徴なし。
勘違いしないでほしい。あたしだって、藤原ここあを男性に紹介するときには、ちゃんと「かわいい」って言うよ? そんな忖度が男性の失望を誘う結果になるのは知っているけれど。
この、立花と藤原の二人と一緒に会館を出た。
これから移動して、午後は潮南高校に出勤しなければいけない。
「こっちは終わったから、昼を食べて三人で移動しますって、教頭先生に連絡を入れておこうか。」
あたしが言うと、立花も藤原もポカンとした顔をした。
なるほど。この二人は世間擦れはしていないということだ。
「坊っちゃん」なのだ。先生だけに。
いや、藤原ここあのほうは「嬢ちゃん」か。
ん? どちらかと言うと、元風俗嬢のあたしのほうが「嬢ちゃん」らしくはないだろうか。
「坊っちゃん」よりも「嬢ちゃん」のほうが百戦錬磨な印象もある。そうか。あたしは「嬢ちゃん」だったのか。
連絡さえしておけば、教頭もこちらの動向を掴んで安心ができる。憂いなく、あたし達も昼食の時間が確保できるというものだ。
動かない立花と藤原を前に、あたしはさっさと学校に電話を入れることにした。
1周目、1日の午後から5日までは潮南高校に勤務して、初めてのことばかりを次々に経験した。
「生徒指導部会」に出た。「学年会議」に出た。「職員会議」に出た。
内容はほとんど頭に残っていない。今年度の職員配置と大まかな予定、4月の詳細な予定と学校行事の実施方法が共有されたが、なにひとつ、実感をもって想像できない。
よくわからない話を長時間聞いて、精神力を削られただけに終わった。
国語科でぐったりとなって一息ついていたら、かつてのあたしの太客、指導教官の安藤も戻ってきた。安藤はあたしが所属する学年の主任でもあって、先ほどまで、学年会議の進行を慣れた様子で取り仕切っていた。
「会議に出ても、よくわからないことばっかりでしょ。」
安藤はコーヒーを淹れようとした。飲むかと聞かれたので、遠慮なく頂戴する。
「先生たちって、あれを全部把握してるんですか?」
「いや、そんなわけないよ。」安藤は笑った。「絶対に見なきゃいけないのは自分に関係あるところだけ。それは確認したでしょ?」
あたしは頷いた。資料に自分の名前が出てきたところには、蛍光ペンですべてマークを入れてある。そのおかげで、どうやらあたしはソフトボール部の第2顧問を任せられたこともわかった。
「自分の責任さえこなせば、それで文句は言われない。
だけど、小島先生は初任だからね。
手伝えるところにはどんどん顔を出したらいい。やればやるほど、学校全体の動きが見えてくるし、自分が困ったときに助けてくれる先生も多くなる。最後は自分のため、情けは人のためならず、というわけだ。」
あたしは安藤が淹れてくれたコーヒーを受け取って、一口すすった。ひどく熱い。併せて、苦味の強さも疲れた脳にしみていった。
「来週の頭が始業式だ。火曜日が入学式。水曜日から授業も始まる。
授業のことについて、確認しておいたほうがいいと思う。」
有り難いことだ。いま、あたしが一番不安なのは、自分が授業をきちんとできるかどうかということだ。
安藤と授業の確認をして、ようやく1周目が終わった。
6日、土曜日。7日、日曜日。
ソフトボール部の練習には、第1顧問から、まだ来なくて良いと言われていた。始業式と同時に行われる新任式がまだ済んでおらず、第2顧問として生徒に発表されていないからと。
その言葉に甘えたあたしは、二日とも家に引きこもって授業準備をした。
そうしたら、日曜日の午前中に、ひどく寂しくなってしまった。
あまり、感じたことのない感情だった。
高校時代、妊娠が発覚してからというもの、あたしの生活はずっと忙しかった。大学時代は時間があれば風俗店に勤務していたし、そこにはあたしの身体を求める男たちがいた。
ずっと、誰かに触れていたし、誰かに触れられていた。
毎日、当たり前のようにあった肌と肌の接触が、この一週間で急に無くなったのである。
そういえば、忘れていた。
あたしが風俗店に勤務していたのは、誰かに必要とされたい欲求が抑えきれなくなったからだった。
渇き。
渇きが蘇ってきた。必要とされたい。求められたい。
どうしよう。
何年も、自分で自分を慰めたことはなかった。
少しだけ、簡単に自分に触れてみたのだが、逆効果だった。
むしろ、誰かに触れてほしいという欲求が増大して、あたしは抑えがきかなくなった。
指ではダメだった。冷蔵庫からきゅうりを持ち出した。それを両手でベッドに立ててみると、良い塩梅だった。
あたしはそれをしゃぶってみた。どんな男も喜ぶように、あたしの全力を注いだが、それは青いばっかりでなんの反応もしなかった。また、冷たかった。
あたしは泣いた。
泣きながら、あたしの寂しさの中心にもそれを使った。
でも、どんなにあたしを突いたって、それは射精してくれなかった。
あたしは変だ。
どうしたらいいんだろう。
つづく
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