【小説】『嬢ちゃん/22歳元風俗嬢、底辺高校の教師やります 』8
アキという名の風俗嬢であったころ、あたしは客が県庁の職員だとわかると、その帰り際に名刺をねだった。
あたしは現役大学生の風俗嬢だったし、教職課程を取っていた。当初、あまり本気で教員を目指すつもりはなかったのだが、もし自分の気が変わって教員採用試験を受けるようなとき、県庁の役人にコネクションがあれば有利かも知れないと思ったのがきっかけだ。
しかし、名刺を使うということは、自分が風俗嬢であることも明らかにするということでもある。それは諸刃の剣だと気付いて、採用試験に使うという企みは早々に諦めた。
しかし、名刺集めは継続した。集めること自体が楽しくなってきたからだ。
県庁で働く、偉いおじさん達を元気にしてあげることは、なんだか自分も世の中を回す手伝いができているような気がしたのだ。おっ、今日あたしは県庁の誰を元気にしたんだな、と思えば、自分への励ましにもなった。
そして、名刺の役職を見て「わあ、すごい!」と大袈裟に驚いてみせて、「お仕事頑張ってくださいね!」などと最後にキスをしてあげたりすると、リピート率がグンと上がったのも事実なのである。
それを、安藤に話したことがある。
そのころの名刺は、自宅に置いてある。
安藤は、自分の自家用車であたしの家まで行こうと言った。
あたしは電車通勤なのだ。免許も車も持ってはいたが、自分の運転に自信が持てず、通勤に使うのは少し慣れてからにしようと決めていた。
安藤の車に乗ろうとしてみると、後部座席にはチャイルドシートがついている。それで、ちょっと怖じ気づいてしまった。家族車じゃないか。
乗るように促されても、あたしは助手席に座ることに躊躇した。そこは、彼の奥さんがいつも座る席なのだと思ったから。あたしが座ってはいけない気がした。聖域である。吸血鬼が流れる水を渡れないように、元風俗嬢のあたしは奥さんのシートには座れない。そんな気がした。
「そんなわけない。椅子は椅子でしょ。」
いや、そうじゃない。助手席のシートという奥様専用の象徴的な場所に、安藤と交わったことさえあるあたしが座っていいのかということなのだが、彼はまるで気にしないらしい。
もっとも、こういう人物だから、結婚していても風俗店を利用したりするわけだ。
あたしは何度も安藤と性交してきた割に、彼のことをなにも知らない。
安藤は店では指輪を外していたから、彼が結婚していることも知らなかったし、子供がいるとも思っていなかった。
よその女と、遊んじゃだめじゃん。
いや、あたしはプロだったし、一般女性ではなかったから、まだマシなのだろうか。
どうやら安藤という男はかなり合理的にものを考える一方、道徳やモラルというところには意識が低いようである。あたしには言われたくないだろうけれども。
しかたがないから、あたしも覚悟を決めて助手席に座った。どうやら、神罰で皮膚が焼けたりはしないようだった。
あたしの家まで、15分もかからず着いた。安藤は道端でハザードを焚いて、あたしに名刺を取ってくるように指示した。
あたしが戻って名刺の束を渡すと、安藤はそれをざっと眺めて、トランプのババ抜きでもするように複数枚を抜き出した。そして、「勝算あり」と言った。
「本当ですか!?」
「あとは、県庁での話がどうなるかだ。
うまく行かなかったらごめん。そのときはクビだわ。」
不安すぎる。泣くぞ? ほんとに。
4月1日に出張に向かった際、県庁は遠目に見たことがある。
近寄ってみると、ずいぶん古い建物のように見えた。外壁のコンクリートには風雨にさらされた跡が涙の跡のようにくっきりついている。飾り気のない造形は壁を連想させた。その壁は、長い年月を経て元来の灰色というよりも、もう黒かった。
安藤は県庁の脇にある専用駐車場に車を入れた。
「用事がある場所まで、駐車券を持って行くんだ。印をもらうと、駐車料金がタダになる。覚えておくといいよ。」
安藤は教員になってどれくらい経つのだろうか。長くやっていると、県庁を訪れることもあるのだろうか。
安藤の後に続いて、県庁の本庁舎に向かう。
入り口をくぐるとき、あたしは首と胴体が繋がった状態でここから出られるのかな、と思った。
あたしの気持ちの準備は全然できていないのに、安藤はどんどん歩いて行ってしまう。彼はエレベーターホールまで言って登りのボタンを押した。
「あのっ、あたし、まだ心の準備が……。」
「なんだ、生娘みたいなことを言うなあ。」
これにはちょっとイラッとした。自分自身、さんざんにあたしに射精してきたくせに、生娘とはなんだ生娘とは。
県庁はさすがに人通りが多い。エレベーターに乗る人も大勢いたが、あたしは満員の狭い箱の中でもブレーキがかからず抗議した。
「そんなこと言ったって、これでクビになるかも知れないのに!」
「ええ? じゃあ、手前でちょっと休憩ね。」
目的のフロアに着いた。
廊下には人通りもある。複数の扉が開かれていて、それぞれが広い部屋に繋がっている。フロアには大勢がいるのに、不気味な静寂、冷たさが漂っていた。
ああ、処刑場ってこうなんだ。
罪人のあたしは、どこが処刑場なのかを直観的に理解した。
奥だ。廊下の奥で観音開きになっている扉があるが、あそこが刑場、教職員課に違いない。
エレベーターを下りた安藤は、ずんずん教職員課へ歩いて行ってしまうのである。
心の準備ができてないって言ってるのに!
つづく
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