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「蛇足」「お涙頂戴」。そんな言葉もあるけれど―― 「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の感想(あと、本当の意味での「蛇足」)。


※画像は半年前に映画館で(何回目かは忘れたけど)見た外伝の案内。

二度の延期を経て遂に封切られた本作。
舞台挨拶で石立監督が「一時は公開できないかと思った」と涙ながらに語っていましたが、本当に紆余曲折ありました。アニメの製作には一視聴者には想像がつかない程、沢山の人が関わっているので中止にするというのも難しい決定なのだと思うのですが、今回公開にまで漕ぎ着けることも難しい決定の上で成し得たものだと感じ、この作品を全国、ひいては全世界に届けて下さったスタッフの皆様にはただただ頭が下がる思いです。

さて、本作の内容ですが、ご存知の通りテレビアニメシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」とその劇場版「外伝」の続編となっています。公開されて三週間を過ぎ、多くの方が劇場に足を運んでいるようですが、もしかすると前述の二作を見ずに本作を見られる・見られた方もいるかもしれません。そういった方でも恐らく本作の柱となっている3つのストーリーの内、2つは楽しめるのではないかと思います。当然、前二作を見終えた上で本作を鑑賞することで物語が全て繋がり、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の世界の全容を見る事ができるという点では、いわゆる"予習"をして行くに越した事はありません。というより、滅茶苦茶長い訳でもない(休日1日あれば見終わります)のでNetflix契約して見て下さい(笑)

では、以下よりネタバレ要素を含む私の感想。
なお私の感想は純粋にアニメ版のみについてで、原作の内容は把握しないで述べているので間違っている点もあるかもしれませんが、念のため。



見たくなかった?ギルベルトの弱さ

舞台挨拶でギルベルト役の浪川大輔さんが「『ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、テレビアニメだけで終わった方が良かったのではないか?』という意見もあると思う」と述べていました。まあテレビアニメ版で死んでいたと思われていたギルベルト役の人が舞台挨拶で喋っているというのも、そもそもキービジュアルや声の出演者で分かっていたことではありますが。先の戦争での戦闘中、ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自身の両腕を失い、主であるギルベルト・ブーゲンビリアと生き別れてしまった。ギルベルトも戦闘により右目と右腕を失くし、また二人が隠れていた建物も崩壊。気付いた時には戦いは終結しており、ギルベルトは現代で言うところのMIAの取り扱いになった。

しかし、彼は生きていた。しかも、ヴァイオレットや旧友のホッジンズ、そして我々視聴者すら裏切るような弱々しい男となって。


ヴァイオレットの回想を通じて見るギルベルトは、ヴァイオレットに名前やことば、戦う以外の生き方のきっかけをくれた優しい主として描かれていますが、それはあくまでヴァイオレットの主観であり。彼自身は死を覚悟した戦いをたまたま生き抜き、なんの身よりもない土地にひとり放り出されました。

今まで自分を形作っていた戦争や軍の地位、戦うことを定められた家系から解放され、自分自身の罪と向き合うこととなった彼は、ギルベルト・ブーゲンビリアという人間であった事実を捨て、エカルテ島という元は敵国の領土であった絶海の島で、自身が指揮したライデンシャフトリヒ軍に親や夫、息子らを殺された子や妻、老人たちの助けをしながら生活を送り、取り返しのつかない罪を贖う日々を送っていました。
奇しくも、ギルベルトが教えたことばによって手紙を代筆するドールとなり郵便業に携わるようになったヴァイオレットが、手紙によってギルベルトの所在を知ることとなるのですが、折角会いに行ったのにギルベルトは「(ヴァイオレットには)会えない」「帰ってくれ」の一点張り。彼からすれば、ヴァイオレットは彼が傷つけてしまった人間のひとりであるからして、のこのこと目の前に現れるのには申し訳が立たないということだったのでしょうが、そこはホッジンズ役の子安武人さんが迫真の演技をしてくれます。はい、アレです。
ヴァイオレットは打ちひしがれつつも主であるギルベルトの言葉を受け入れ、彼と会うことなく翌日帰ることを決心。帰りの便の船に乗るその間際、島の子どもにギルベルト宛の手紙を託しました。
彼が設計し完成させたワイヤーで籠を上下させ丘を行き来する葡萄の運搬機。島の念願だったその機械で運ばれてくるヴァイオレットの手紙。兄のディートフリートに促され(いつ来たの?)、手紙を読んだギルベルトは港に向かって全速力で走り始めます(理由は浪川さん曰く、手紙の最後に「走れ」と書いてあったから笑)。
ギルベルトが呼ぶ声を察知し、海に飛び込んで島に戻ろうとするヴァイオレット。崖を転がり落ちながらも海水をかき分けてヴァイオレットの許へ辿り着かんとするギルベルト。月の明かりの下、劇的な再会を果たす二人。そこには、もう必要な言葉などなかったのです。

「全部盛り」が示す意志

とまあ、ギルベルトの話に絞って書くとこのような形でよろしいかと。やっぱり物語を概観しても「劇場版なくても良かったよな……」と思う人が出ても仕方ないのかなとは思うのですが、私自身、こういった結末にして映画化したのは、京都アニメーションのスタッフの皆さんの強い意志があったからに他ならないと感じています。
言うなれば「全部盛り」。ヴァイオレット・エヴァーガーデンについては、やるべきことを全てやってやろうという気持ちが、今までの作品含めたシリーズの全てに通して流れているという感想を持ちました。
石立監督は「奇を衒った表現は極力しない」ということを意識されたと語っていました。あっと驚くような展開ではなく、あくまで王道の、しかも全年代に受け入れられるような普遍的なストーリーにするためには、最終的な落とし所まで納得させる必要があったのです。そのためには、ヴァイオレットは一人の立派な女性に成長したとはいえ、いつまでも子どものようにギルベルトを想い続けなければならなかったし、ギルベルトは戦乱を生き長らえたにも関わらず、自身のちっぽけな贖罪のルールに固執しなければならなかった。それを踏まえて見なければ、本作は少しこってりした内容だったという感想を抱く人もいるでしょう。それでも、この作品は「やり遂げる」ことに意味があったと思います。それは数人の自己満足でなく、関わった全てのスタッフの方々にとって共通の目標であったのだと。
私は3年前に「響け!ユーフォニアム(というよりは『リズと青い鳥』)」を観て、自分の中で京都アニメーションの作品と出会い直したなという気持ちを持っていました。それまでは「CLANNAD」で止まっていたのですが、それ以降の作品はどこか敬遠していたのです。「けいおん!」は1期までは観ていましたが、どこか可愛いものを上手く描くということに固執しているように思われて、深夜アニメを一切流さなかった私の地元でも流れると楽しみにしていたはずの2期も、高校生活の慌ただしさとも相まって見る気力を失ってしまい、ところどころ抜けがあるまま観終わったような形になりました(その割に、受験前なのに劇場版は観に行きましたが)。

京アニ作品における「純粋さ」

「響け!」はキャラクターの可愛さよりも人間味が強くて、久々に「こういうアニメが見たかった!」とのめり込んだ作品です。登場人物の中に嫌いなキャラクターが全くいない。普通に近くに居たら嫌だなってキャラはいるけど(その括りでいけば割と多い笑)、作品というフィルタを通して見ると「あ、こういう人いるよね〜」と思えて、等身大の人間模様が描かれていてとても愛おしくなります。
「響け!」の話は長くなるのでしませんが、京都アニメーションの強みって「キャラクターを自然に描く技術力」ではないかなと思っています。絵が上手いのは勿論なのですが、見せ方や構成の工夫で、割と王道な展開でありながら嫌味なく視聴者が引き込まれていく作品に仕上げていく力というのは、本当の意味で上手さを感じられます。
前述の石立監督のコメントですが、この言葉を引用させてもらったのは。私の思いつく京都アニメーションが手掛けた作品の中で今回の劇場版が一番「ベタ」な展開ではありました。ですが、それは則ち「奇を衒った演出をしない」ということで、何が何でもヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品に込められたメッセージを最大級の力で届けるという意味合いでは、最も力強い作品だと感じています。物語の結末を観た上で作品全体を俯瞰すると、実に色んな方面で(いい意味で)角がない作品なのだと気付きます。ヴァイオレットがギルベルトから与えられた「愛してる」という言葉も、私達が使い古した言葉通りの意味ではなく、ずっと純粋な気持ちを表していたのだと。ディートフリートお兄ちゃんも嫌味な奴として終わるのでなく、迷っていた弟の背中を押す兄としての務めを果たすことが出来たのだと。言ってしまえば大団円という形なのですが、ただ可愛いとかかっこいいとかそういった表現でなく、登場人物のまっすぐさや人として誰かを想う気持ちが突き動かしていく物語を自然に描いていく。それが押し付けがましいものでないことは作品を全編観た方にはご納得頂けるはずです。私達が忘れがちな純粋な気持ちをヴァイオレットはいつまでも胸に湛えていて、この作品を見返すたびに私達はヴァイオレットのひたむきさに心が洗われることでしょう。


劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、確かにファンムービーというか、「なくてもよかった」世界を描いているのかもしれません。しかし、この作品を待ち焦がれていたファンだけでなく、スタッフの方々も待望していて遂に日の目を見たという点では、絶対に世に出なければならなかった作品でした。私も一ファンとして、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという一人の女性の物語のフィナーレに、心からの拍手を送りたいと思います。



――さて、ここからは本当に蛇足なんですが、私が劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見てて「つい思ってしまった感想」を記しておきます。

①デイジー・マグノリアちゃん可愛い

先日劇場版の本編冒頭10分が公開されました。タイトルが出るところまでですね。

この10分で「泣いた」という声も多かったとか。まあ私も公開日に観たときは「それはズルいわ……」と思いましたしね。だってアニメ本編で一番好きな話だもんで。

アンちゃんの話は正直劇場版だけの人には「本編見て!!!」と声高に叫びたいくらい中身が大切なのですが、まさかアンちゃんがバアちゃんになって出てくるとは思わなかった(うるさい)。そして、電気も通う近現代の世界で、アンちゃんのひ孫がヴァイオレットの痕跡を探して旅をするという……その構造は私達がヴァイオレットの世界を身近に感じるという意味でも良い効果をもたらしています。

そして、ひ孫のデイジーちゃんですが、演じたのはアンちゃんに引き続いて諸星すみれさん。アンちゃんの幼気な子どもの演技も素晴らしかったのですが、デイジーちゃんの年相応な素っ気なさと純粋さを使い分ける演技もまた良かった。現役の声優さんの中で、彼女ほど上手く典型的なティーンエイジャーを演じられる人は他にいないのです。「あー、高校1年生がなんか喋ってら」とすぐに想起できるナチュラルな声。――デイジーちゃんって何歳なんすかね。これだけ言ってて20代半ばとかだったら笑いますけども。


②受け継がれるサムズアップ

エンドロール前、最後のシーンで郵便局員さんがサムズアップをした時に、私の頭の中では神崎先生の台詞が流れ始めるのです――ヴァイオレットだけにタイタンフォームに変身ってか!……ごめんなさい。

③「未来のひとへ」が良すぎる

ここで使うのかー!と。ズルすぎますよね。去年のヴァイオレットのコンサートもすごく良かったので、劇場版の劇伴メインでまたコンサートやってほしいなあ……安心して京都に行ける日には必ずや行かせてもらいます。とか言いつつ11月には東京に行くのですが。

おわり。

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