ジャズギタリスト 浅葉裕文さんインタビューVol.1
ジャズ・ギタリストの浅葉裕文さんにインタビューの機会をいただきました。
一度見たら忘れられない、ご機嫌でスウィング感たっぷりなジャズギタリストで大ファンです。(そしてめちゃくちゃオシャレ)
とあるインストアライブの動画で「A列車で行こう」を弾きまくる浅葉さんを見て、「こんなにバーニーケッセルみたいにギターを弾く人いるんだ!」とガツンとやられたのがきっかけでした。
・プロになるまでのこと
・ジャズギタリストとしてのキャリア
・浅葉さんにとってのバーニー・ケッセル
・これからの目標
などなど、浅葉さんの魅力あふれるお話を、全2回でおとどけします。
[浅葉裕文さんのプロフィール]
──20歳のときに海外を放浪されたんですね。
そうですね。まずオーストラリアへ。
その時はバックパッカーへの憧れが強くて。
向こうでハーフサイズのギターを買いました。
ギター持ってたら友達もすぐ出来るなと思って。
やっぱり音楽の素晴らしさは感じましたよね。
世界共通言語ですし。
東南アジアの孤児院でギター弾いてたときは子供たちが踊り狂ってたり(笑)。
──ニューオーリンズも行かれたんですよね。
ええ。音楽が好きだったし。
ニューオーリンズ、キューバ、ジャマイカ、そのあたり近いですしね。
大学を休学してたんですが、オーストラリアで1年、東南アジアで2ヶ月過ごし、ちょっと中途半端な期間があったからそこで行きました。
これがもう最高でしたね。
そこでプロになるって決めた。
音楽で生きていくしかないって。
──その時にジャズやろうって思ってたんですか?
ジャズにはすごく憧れはありましたね。
楽しいじゃないですか、自由な音楽だし。
大学のジャズ研にいたんですけど、コピーはするなって言われてたのもあって、一向にどう弾いたらいいかわかんなかった。
でも、ニューオーリンズに行って、なにも弾けないけどプロになるって決めて。
バーニー・ケッセルはその時から好きだったし。
帰国後は、浅草に引っ越して岡安さん(岡安芳明さん)に習いました。
岡安さんには、バーニー・ケッセル好きならたくさんコピーしなって言ってもらえて。
その時はダムが崩壊したかのような気持ちでしたよ(笑)。
あれもこれもコピーしていいのかって。
──全然違うアドバイスだったんですね(笑)
ええ、溜まってましたね(笑)。
──岡安さんに師事したのはどういうきっかけでしたか?
ソウルトレーンでぼくはバイトしてたんですが、岡安さんは毎月出演されていて。
当時は浅草でもレッスンをされてたんです。
──どんなレッスンだったんですか?
そもそもコードの知識だったり押さえ方も大して知らないから、コードを使ってメロディを弾くというのをやりました。
それでいろんな曲を知れた。
あとはフレーズ。こういうコード進行の時はこんな風に弾けるよとか。
──思い出に残ってることはありますか?
一番最初のレッスンですね。
君の弾いてることは全部間違ってるからって(笑)。
自分でもまぁそうだよなぁとは思ってたんで、ようやくどう弾いていいのかこれからわかるぞって思えた。
──ポジティブですね(笑)
ホントになにも弾けなくて。
いま僕がレッスンしている生徒さんたちの方がよっぽどうまいですからね。
その当時の僕と比べたらもう全然。
でもプロになるって決めてたので練習はしました。
岡安さんからは、まぁ10年くらい頑張ったらCD出せるかもねって言ってもらってました。
それで1年経った時に、この1年で浅葉が一番伸びたよって言ってくれて。
2年目の終わりにもそう言ってくれて。
3年目くらいには来年アルバム出すよって言ってもらえて。
結局4年半習って、デビューアルバムを出せました。
──(すごい成長スピード・・)
アルバム出すことが、まずはプロとしての目標だったし、やったぞって思った。
でも、そんなに人生すぐには状況が変わるわけもなく。
アルバム抱えてツアーに出てもお客さん入らないし。
ソウルトレーンでやる時はバイト先だったから沢山来てくれましたけど、他のところだともう全然。
あれ?CD出して人生変わるんじゃないかと思ったけど、こりゃ思ってたのと違うぞ。
自分で動き出さないとって。
それから色々なお店やジャズフェスにCDを送りまくった。
そんなあるとき、柴田さん(柴田浩一さん)という横濱ジャズプロムナードのプロデューサーの方がすごい気に入ってくれて。
NHK横浜のステージにも出演させていただいたし、柴田さんにはほんとによく面倒見ていただきました。
亡くなる直前にもラジオ局に一緒に連れて行ってくださったり。
──コンペティションでグランプリを受賞したのはその頃ですか?
そうですね、コンペティションというのは一つの大きい出来事でした。
自分のやってるジャズにはすごく自信持ってるし、カッコいいと思ってやってるけど、やってる人少ないじゃないですか。
でも、そのコンペティションでグランプリに選ばれたっていうのは、すごく自信になった。
コンペの審査員にデトロイトのジャズフェスのプロデューサーもいて、その方が絶賛してくれたんです。
昔のジャズをこんなに一生懸命やってて、しかも日本人で。ビックリしたって。
翌年デトロイトで演奏した時は、こういうジャズを待ってたよって言ってくれた人がいたし。
やっぱりね、間違いないって。
こういうジャズが最高なんだと強く自分が信じてたところに、最初の結果が出たのがジャズプロムナードだったりコンペティションでした。
徐々に柴田さんのような方たちとの出会いも増えていきました。
──ここ最近ですと、『Plays Standards』も好評ですね。
コロナ禍でもくじけず、やり続けたのがホントに偉いなって自分でも思います。
毎週YouTubeで動画アップするなんてコロナじゃなければやってないですからね。
でもそのおかげで知ってくれる人が増えた。
自分自身の良い練習にもなるし。
──普段やらないような曲もやったりですか。
そうですね。ずっと好きだったけどチャレンジ出来てなかった曲とか。
──たきざわあつきさん制作の動画も素敵です。浅葉さんの世界観とマッチしていて。
そうですね。それは大きいですね。なかなか自分1人じゃ出来ないですからね。
僕らがやってる古いジャズミュージシャンの人たちってみんなオシャレだし、そういうところも学んでいきたいというか。
藤原ヒロシさんが動画を見てくださってラジオで紹介してくれたんです。
それをコットンクラブの方が聴いてくださって、そのご縁でコットンクラブに出演したんです。
──そういうご縁だったんですね。コットンクラブ、満員でしたよね。
そうでしたね。
──別の日にもコットンクラブに出演されてましたね。奇妙礼太郎さんと。
奇妙さんの歌声は素敵でしたね。
どういう曲やるんだろってちょっと心配だったけど、ペーパームーンとかサニーサイドとかムーンリバーとか。
一安心でした(笑)。
──行きたかったです。その3曲どれも浅葉さんのソロ動画で見たことあります。
奇妙さんもその動画を見てくれてたんです。
最初にコットンクラブに出演した時に奇妙さんがいらして、ぼくのファンですって言っていただいて。
それでコットンクラブのブッキングの方が今度ぜひ一緒にって企画してくれたんです。
──そうだったんですね。浅葉さんのパワフルさと人の繋がりをすごく感じます。
良い音楽、自分がやりたいと思ってる音楽、バーニー・ケッセルの音楽は素晴らしいですからね。
まだまだバーニーみたいには弾けない部分がたくさんあるけど、素晴らしいと強く信じてやっている。
それが人にも通じるだろうし。
そういうスターがいることがラッキーだったなって思います。
ある程度まで上手くなっていったら、どう伸びていっていいか悩むことがあると思うんですけれど、常に自分の中の大スターがいると、コンパスを持って山に登っているというか。
コンパスがないと目標がないというかクルクル回っちゃいますからね。
(つづきます)
※まだ公表前ですが、3/29(水)にもコットンクラブへの出演が決まったとのこと。乞うご期待!